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God Ray[後編]

作者: 穂高
掲載日:2021/02/23

 ライナスとアリシアのふたりは耳元を掠める乾いた音から全力で逃げた。ときに転んでしまったり、酷く背後から襲い来る恐怖に脚が竦んでしまったりすることもあったが、今までなんとか山の中腹を伝ってこられた。

 ――ライナス、ま……待って……!

 アリシアの懇願する声に先を行く影がふと立ち止まる。ライナスは息を切らして、膝に手をつき前屈みになるアリシアに向かって問いかける。

 どうした……? …………辛くなったか。少し休むか?

 えぇ、走り続きで脚が痛いの。

 ちょっと待ってろ。どこか近くに、隠れられる場所を探してくる。

 ライナスは体力に自信があった。父親からの暴力に対抗できたのもそのおかげかもしれない。

 ……待って、一人はいやよ。一緒に行くわ。

 ……あぁ。

 ライナスはアリシアに手を差し出した。

 ほら、もう少しだ。

 アリシアの頬が赤くなったわけは彼女だけが知っていた。

 一方、ジェフはルーシーの手を引き懸命に山の頂上を目指していた。

 がんばってルーシー。あと少しでいい景色が見られるよ。

 うん……。

 心なしかルーシーは疲れているようにも見えるが、初めて会ったときとはどこか元気がなかった。これは多分姉のアリシアと別行動になったせいだとジェフは思った。

 体力的にはルーシーはもう限界のはずだ。食事もまともに取っていない。

 ルーシー、きみは鳥を知っているかい?

 鳥? うん、見たことはないけど知ってるよ? お空を飛んでたんでしょ? お姉ちゃんがそう言ってた。

 知ってるの? すごいね。

 この世界では鳥類はとうの昔に絶滅したはずだ。地上も空も、人以外が自由にできる場所はなくなった。そうして現在、人類自らが他の動植物から奪ってきた自然を、未来を、皮肉にも自分たちで壊している。自分たちをも滅ぼそうとしている。

 鳥はね、青い空を飛んでいたんだって。羽って言う腕を一生懸命羽ばたかせて、青く澄んだ雲一つない大空をいっぱいの群れを成して飛んでたんだよ。

 すごーい! すごいね、ジェフお兄ちゃん。

 そうだねルーシー。

 ……でも、鳥はもう見れないの?

 何気なくルーシーが口にした言葉は、その無知ゆえにジェフは真実を言うべきか迷った。

 見られるよ、きっと。この山を越えたら、街があると兄さんたちは言ってた。だからその街の上には平和と、青い空が待ってる。

 青い……お空?

 そうさ! 僕も事典でしか見たことはないけど、息を呑むくらい美しいんだって!

 きれいなの! すごく楽しみ!

 うん、だからもうちょっとの辛抱だ。向こう側に着くまでもう少しだから頑張って。

 先に見える希望を持たせてなんとかこの場を乗り切りたい、とジェフは考えていた。

 僕がルーシーを護らなくちゃ。

 彼自身は気が付いてはいなかったが、ルーシーを見る彼の目は、ほんの少し大人の眼差しだった。

 ふー……疲れた……。

 アリシアの口から本音が出た。妹の前では決して出さない言葉を、ライナスの前ではなんの躊躇いもなく、彼女は呟いた。

 彼らは今、敵に見つからずにふたりきりで洞窟にいた。おそらくこの洞窟は昔に探鉱されてできたものだろう。

 足揉んでおくといいらしいぞ。少しはマシになる。

 誰かの受け入れ?

 母さんだ。優しかった頃に聞いた。まさかこんなところで役に立つとはな……。

 ライナスは笑う。その様子を見てアリシアはふと語り始めた。

 わたしの家族は……最後まで一緒だった…………。

 ……どんな人なんだ? ご両親は。

 良くも悪くも、わたしと妹を一番に考えてくれてた……。

 そう、一番に――アリシアは思い出せる幸せな過去を一つずつ彼に聴かせた。ライナスは黙ってそれを聴き、ときどきほほ笑んだ。

 それでね、よく母さんが聴かせてくれた歌があるの。

 どんなのだ?

 ルーシーは小さかったから、よく覚えてないみたいだけど、わたしはちゃんと記憶してる。

 幸せな家族の思い出だから?

 そう、とっても幸せだったわ。

 聴かせてくれないか? 聴いてみたいんだ。

 ……いいわ。

 アリシアは少し迷ったが、それでも幸せな気分に包まれた家族の想い出話をしていると、自分でもなんだか恋しくなってしまった。けれど、母が歌った形見ともいえるそれを、ライナスになら分けてあげたい。そう素直に思ったのだ。

 やがて山の緑の茂みから麗かな歌声が辺りに響き渡った。

 ♪(*4)打ちひしがれて、この世界に生きる人々の思いはみな同じ。いつか必ず答えが見つかる。どうかあるがままに――。

 アリシアは平和への思いを強く歌に込めた。

 そう、わたしたちは生きている。まだ未来があるのよ、希望も持てるの。だから悲しまない。泣いてなんかいられない。一歩でも前へ、歩き出さなきゃ。じっとしてなんていられない。

 ♪厚い雲が空を覆う晩にも、わたしを照らす光がある。明日まで輝き続けていて。今は耐え忍ぼう――……何事もあるがままに、無理に変える必要はないの。知恵ある言葉をそっと口ずさんで。そう、どうかあるがままを受け入れて。

 アリシアは少しずつ心が軽くなっていくのを感じていた。ライナスは彼女の澄んだ歌声をいつまでもこうして聴いていたいと思っていた。

 沈む夕日がふたりの横顔を照らす。けれども彼らは生命に満ち溢れた顔で、実に活き活きと今を過ごしている。それはやがて日が沈み、辺りが暗くなったときも変わらなかった。

 森の木々が怪しく蠢き、風の音しかしない不気味な夜だ。

 ふたりは暗い洞窟でうずくまった。自身の心臓の音が聞こえてくるぐらい怖ろしい静寂がふたりを襲う。

 わたしたちね……。

 アリシアが静寂を断ち切った。どうやら彼女たち姉妹の話らしい。

 わたしたち……いつも一緒だったの。

 あぁ。俺たちもだ。

 ライナスは洞窟から見える面白味のない遠くの風景を見つめた。

 でも、でもね……姉妹じゃないの。わたしたちは姉と妹じゃないのよ……?

 信じられるといった表情で彼女はせせら笑い、ライナスを見た。ライナスもまた驚いた顔でアリシアを見た。そしてそのまま動かないでいる。

 腹違いってやつか?

 やっとのことでライナスはそう言った。

 そうね。妹は母さんと父さんの子どもだった。

 言葉が出ない。慰めるべきだろうか……いや、でも。

 わたしは死んだ、母さんと……今の父さんの子どもだった。

 アリシアの鼓動。震える声が、心の叫びが、ライナスには伝わって、彼はそっと彼女を抱き寄せた。

 普段は強気で、誰よりも相手を思いやり、ここまで率いてきたあの自信に満ちた表情は、今のアリシアには見れなくなっていた。


 アリシア、よく聴いてね。

 なに、お母さん。

 ルーを、あの子をお願い。

 ……どういうこと?

 母さんは行けないの。この家を離れるわけにはいかないのよ。

 まだ父さんを待ってるの?

 そうよ。あの人が帰ってきたら一緒に行くから。

 母は、“もしも”とは言わなかった。父が帰るのを信じて疑わない目をしていた。

 ならわたしも――。

 だめよ!

 ……。

 駄目よ、違うの。ごめんなさい……。あなただけは生きて。ルーも、一緒に連れて行ってあげて。

 どうして“違う”の? なにがどう“違う”?

 あなたは死んだ、姉さんの子なのよ。

 え、なに言って……?

 言わなかったの。言えなかった……。隠しててごめんなさいね。

 母が叱るのは飽きるほどあったけど、謝るのは今まで一度もなかった。

 姉さんはもう、死んじゃったから。でもあなたは無事だった。無事に、母さんと父さんの家族になった。

 わたしは……え、なに?

 ちゃんと家族よ。心配しなくても、わたしたちは家族でいるから。

 だったら、どうして今更……。

 今だからよ。今、あなたがルーを守るべき立場にいるからなの……!


 “わかってね、お姉ちゃん”って言われたの。“わかるでしょ”って、あの人は訊かなかった。

 アリシアが自らの母を“あの人”と呼んだのを聞くのは初めてだった。

 わたしの思いは聴き入れられなかった。家族なら、姉なら、責任を背負うべきだと、母はその話の最後に付け加えたわ。

 いや……なのか?

 責任を負い続けることが嫌いなのかとライナスは尋ねる。

 無論、責任は弟を持つライナスでも同じことが言える。境遇が同じであるからこそ、ふたりにしか分からないものがあった。

 そうじゃないの、そうじゃなくて、わたしはただ……。

 アリシア、俺もそう思う。

 ライナスはアリシアの次の言葉を待たずにそう告げた。

 俺だって辛いときはあるさ。ジェフとは双子だから、ルーシーよりは手が掛からないかもしれないが、それでも弟と意見が違って喧嘩するのは始終そうだ。

 喧嘩、するの?

 珍しくないだろ? 兄弟でもするさ。時々だけどな。

 責任感とか重くない?

 重いさ。弟の命やお前やルーシーの命がそうであるようにな。

 ……そう……。

 責任は誰かを護りたいって気持ちだ。それは容易じゃできないし、相当な覚悟も必要だ。だけどさ――。

 ……?

 やっぱり兄弟だし、生きてんだから、一緒にいたいと思うだろ。

 アリシアは責任のその意味を、本当は胸の奥で知っていたのかもしれない。だからこそ、今の今まで妹とともにやってこれたのかもしれないと、ライナスは思った。

 暗がりで涙するアリシアに、もう言葉はいらなかった。

 ふたりは深い森の中を休み休み歩いていた。自分の背丈ほどある雑草をルーシーは懸命にかき分けながら、前を行くジェフについて回っていた。

 ねえ、ジェフお兄ちゃん。

 なんだい?

 お腹空いたね。

 うん、なにか食べるかい?

 ううん、平気。だってお姉ちゃんとライナスお兄ちゃんの分でしょ?

 ……ルーシー。

 だから平気なの。

 ルーシーは笑った。だがそれを、ジェフは胸が痛くなる思いで見つめていた。

 ルーシー、きみも聞いていたんだね。兄さんたちの会話を。

 暗くなりかけた夜道をふたりは手を繋いで登った。

 もういいのか……?

 ……うん。ありがと。もう平気。

 なぁ、アリシア。

 ん?

 見てみろよ。雲が晴れて、いい月が出てる。

 え……? わ、ほんとだ……きれい……。

 まさに“let it be.”だ。“明日まで輝き続ける。どんなときでも”。

 そうね。暗黒の闇でもいつか晴れる、だって“永遠”なんてないんだもの。

 あぁ。幸せに思える明日は来るんだ。

 えぇ、きっと。きっとよ。

 その(*5)夜、アリシアは夢を見た。そこには母親と父親がいて、妹のルーシーもいた。皆で食卓を囲んで、今日はなにをして過ごしたかという実に何気ない日々の会話がされていた。

 それでルーはどうしたの?

 うん、えっとね、絵を描いたの。

 どんな絵?

 なにを描いたんだい?

 みんなだよ! みんなでお歌をうたってるの!

 へぇー見せてごらん。

 わぁ、すごいわルー。

 うん、よく描けてるね。これは……わたし?

 うん、お姉ちゃんだよ。これがパパで、これはママ。それでこれはわたし。

 えらいね。

 すごいのね、ルー。

 えへへ。

 幸福を感じながら夜を越え、彼女は眠った。ただ……ただ、帰りたいと。懐かしい風景。母親と父親のいた、あの頃に戻りたい。それだけをひたすら望んで、彼女は涙を流した。


 翌日、ルーシーとジェフのふたりは山を越えかけていた。ふと、風が香った。

 潮風だ。もしかして海が見えるかもしれない。

 ウミ?

 大きな水たまりだよ。こっちからかな……ついておいで、ルーシー。

 ウミウミ!

 藪をかき分けかき分け、少しずつ風が吹いてくる方向に進んだ。ジェフこそ海を見たことはないものの、以前図鑑で海の生物と題されてある図書を読んだことがあった。彼にもそれなりに知識はあった。

 ほら、見てごらん。海だよ。

 広ぉーい! 大っきいね!!

 昔さ、この海の遥か向こうに“天国に一番近い島”っていうのがあるって聞いたことがあるんだ。

 ほんと?

 ルーシーは瞳を輝かせた。彼女の年の子なら、おとぎ話に興味を示す年だ。

 本当さ。あるんだよ、きっと。

 行ってみたいね。

 そうだね。兄さんたちに会ったら、みんなで行こう。

 ママに逢える?

 会えるかもしれないね。

 彼らには愛が足りないのかもしれない。けれど誰に教わるでもなく、生きることに希望を持つことを覚えた彼らは、人として間違ってはいない。戦争の犠牲者としてではなく、新しい世界を創るものとして、ふたりはまた歩を進めた。

 朝日の光はアリシアの瞳に届かなかった。しかしふたりが目覚めたのには、それなりの理由があった。

 なんの音?

 判らない。だが、ここに長居し過ぎたのかも。

 ライナスは洞穴の外に顔を出し、周囲をしきりに気にしている。洞穴の中だけでなくそこら中に響くのは聞いたこともない騒音だった。銃よりも重く深い音だった。身体が痺れるほど大地を揺らし、確実に大きくなっていた。

 なにかが近づいているわ。

 あぁ……。

 その、“なにか”を自分の目で確かめようと、ライナスは真剣にその木々の先を見た。

 木々は揺れを増し、大地が震えを止めない。足に直に感じる揺れは、音が次第に大きくなるにつれ、立っているのもままならないくらいに激しい揺れに変わっていった。

 ……ライナス!

 どうした!?

 アレ! アレを見て!! 向こうからなにかが近づいてくるわ!!

 騒音にかき消され、途切れ途切れにしか聞こえないアリシアの声を、ライナスはどうにか聴き取ると、彼女の指差す方向へ視線を向けた。

 視線の先には思いもしないものが蠢いていた。堂々と木々を蹴倒し、真っ直ぐにこちらへ近づいてくる。それは軍用の四輪自動車。四方のタイヤが木のひしゃげる音を鳴らしながら近づく。

 アリシア!

 ライナスの一声でアリシアは洞の中から駆け出た。アリシアがライナスの袖元を掴むと、ライナスはアリシアの頭をそっと撫でた。そして言う。

 俺が奴らを引きつける。そのうちに逃げろ。

 な、なにを言って……。

 ――自信がないんだ。

 え……?

 お前を護れる確かな自信が、今の俺にはないんだ。

 ライナスはそっとほほ笑む。謝るような、悲しい顔をしている。

 いやよ! ライナス、足手まといになんかならないわ。ちゃんとあなたについて行くもの。

 ……弟たちを頼む。

 ライナスはそう言い残すと身をひるがえし、一気にディーゼル車との距離を詰めた。そして銃を取り出し一発空へ向けて発砲した。

 車には三人の大人がいたが、そのうちの一人が銃声に気が付いたようで、すぐにライナスの方へと車輪諸共、進路を変え始めた。

 ライナスの姿が見えなくなっていく……。アリシアは独り、洞窟の手前でうずくまった。

 お姉ちゃんにいつ会える?

 数時間前とさして変わらない話題を耳にして、ジェフは困ったようにまたルーシーに言った。

 もうすぐ会えるよ。

 ふたりは潮風香る山の斜面を下っていた。

 昨夜は十分な睡眠をとることができた。というのも、幸いルーシーは暗闇を怖がらなかった。それどころか草木が風に揺れるのを見て、木が唄っているからと歌もうたい出した。

 ゴツゴツした樹木が足元には広がり、麓まで下りるのには登ってきた倍くらいの時間がいると思われた。

 平気かい?

 うん。

 お腹はすいた?

 ううん、まだいい。

 休みたくなったら声をかけるんだよ?

 うん。

 手話を幼いながらにしてよく理解する、賢い妹を持ったようだとジェフは思った。

 今(*6)までなら――……駆けながらライナスは考えていた。

 今までなら、赤の他人になんか気にもかけなかった。戦争には犠牲が付きものだって頭で処理して置き去りにしただろう。でも、なんだこれは。あいつを護りたいなんて思うなんて……。

 ライナスは背後に迫る奴らに捕えられるまいと必死で草を掻き分けた。

 アリシア、どうか無事にジェフたちを!

 ライナスの意志はとうの昔に彼女へ届いていた。

 ライナス…ライナス……!

 アリシアはまだ動けずにいた。薄暗い洞窟で、しゃがみ込んだ足は重く感じられて、もう動けなかった。

 ライナス、ライナス……あなたを置いてなんていけない。もう、わたしは……。

 アリシアは決心した。それは、ライナス本人の意思を直に無視することだったけれども、アリシアはもう、大切な人を失いたくないと思った。

 そうして彼女は彼の駆けた方向を、彼を目指して走り出した。

 世界がまだ、幼かった頃の話をしようか。

 ジェフはそうルーシーに切り出した。切り株に座るルーシーは食い入るようにジェフの話に耳を傾けている。

 世界はね、そのとき一つだった。大陸も、人種も、言語も……みんなが等しく仲良しだった。

 でもね、とジェフは悲しみを込めて話した。

 ある日、みんなの意見が割れたんだ。その原因はどこに合ったかは判らない。意見が割れたとき、それは世界の歪みを意味していた。

 陸続きだったのが度々各地で地割れが起こるようになり、次第に人々の心は平和や平等とは離れていった。格差ができ、人はみな高みを目指した。強き者は弱いものを蹴り飛ばし、力ない者は死を覚悟するしかなくなっていった。

 ルーシーにはちょっぴり難しかったかな?

 世界は悲しいの?

 悲しいとも。争うことなんてなにもないのに、誰かが誰かの利益のために犠牲になって血を流すんだから。

 “せんそう”ってそういうこと?

 そうだよ。

 悲しいね……。

 ルーシー……もしよかったら、訊いてもいいかい?

 なあに?

 ルーシーは、すでにこうなってしまった世界を、一体どうすればもっとよくなると思う?

 …………悲しいのは嫌い。苦しいのもいやだから、ママが必要じゃない?

 お母さん?

 うん。ママやパパは子どもを叱ってくれたり、励ましてくれたり、愛してくれるよ。

 そうだね……世界にも……お母さんが必要だね。

 世界はすべてにおいて成長した。それは思わぬ方向へと進み、進化より衰退の方が激しい社会を生んでしまった。しかし、彼女ルーシーのようにまだ幼女にしてもしっかりと意志を持ち得る子どもが残る世界は、捨てたものでないのかもしれない。

 グッ、ライナスは腹部を蹴り上げられその痛みに苦痛の息をもらした。そして昨日、銃弾に裂かれた左腕の傷から血がひたりと地面へ落ちる。治りかけだった創口からは痛々しく血が流れた。

 何時間も逃げていただろう。斜面を上がったり下がったり、どの方向へ逃げたのか判らない。足がもつれ倒れたところで捕まってしまった。

 このガキ(*7)、食っちまおうゼ? 腿肉辺りが旨そうだ。

 食料はこの間に捕獲した人間共で事足りてるだろ? それよか食料調達に扱き使った方がいいと、俺は思うけどな。

 数人の男が話し合っている。すると、その中でも一際頑丈そうな筋肉を持つ大柄の男がライナスに近づいてきた。

 男はライナスの髪を乱暴に鷲掴み、唾を吐きかけ問う。

 ボウズ、一人じゃねぇだろ?

 ライナスはギクリとした。この男は勘が鋭いらしい。自分の今後よりもアリシアたちが見つからぬよう祈った。

 答えろよ。たった一人でこんなバカな真似するわけないよな? なにを隠してる? 女か兄弟か? お前ら、周囲にこいつの仲間がいるかも知れねぇ。くまなく探せ。俺はこのガキに用がある。

 それを聞いていた他の男たちは、またか、と笑い出す。

 おっさん、程々にしとけよ。情が移っちゃ殺しもできねえだろうが。

 うるせえ。このガキは俺が処理する。

 処理の仕方はどうするんだよ?

 今考え中だ。だが食料にはしねえ。使えるトコまで使ってやる。

 出たよ! おっさんのSっ気。

 ハッ、このガキおっさんのイイ餌にされるってよ。ある意味喰われんじゃん。

 こりゃ夜が楽しみだな。ハハハ。

 そう言いながら命じられたふたりは茂みをかき分けて姿を消した。

 ……クソが。

 ライナスは男を睨み付けた。たとえどんなことを言われようとも惨めなど受けない、そう心に誓って。

 やってみろよ……! 食い千切ってやる!!!

 男に対する憎悪が込み上げ、ライナスはそう吐き出した。

 あれだけの距離を逃げていてよくそんな顔ができるな小僧。それともなにか? 痛いのが好きかよ!!

 男はライナスを勢いよく蹴ると、地面に倒れたライナスに体重を掛けて踏み潰した。肋骨がミシミシと軋みを上げ、折れそうなのが判った。男の体重を背中だけで受け止め、ライナスは呼吸が苦しくなり、目をひん剥いた。嘔吐しそうになりながら、けれど口内から出てくるのは血に混じった痰だけだった。

 踏みつけられている感覚。嫌悪と憎悪。腕の痛みも、背中の惨めも、今自分が生きていることに対する酷い仕打ちであるかのように感じられた。そしてそれらを嫉む奴らはなんて愚かなんだろうと考えた。まるで父親の姿を目にするみたいに。

 なんだぁ? さっきまでの威勢はどうした? 急に黙ってよォ?

 ……今頃、アリシアはどうしているだろうか。弟たちと無事に逢うことができたろうか。ジェフは自分と双子だから、きっとこの判断も解ってくれるだろう。それにあいつなら、アリシアやルーシーを護ってくれる。アリシアが悲しいときはともに泣いて、なぐさめてやれる優しい心を持った弟だから……。


 兄さん!

 ふり返るとそこには先程と変わらない温もりがあった。父親を恐れて部屋にこもっていた頃とは違う。狂ってしまった母親に乱暴されていた時期とも違う。大切な弟と、双子として歩いた数ヶ月の道のりは、どんなものよりも生きていると実感させてくれた。

 向こうの方に、食べ物があったよ!! 兄さんの好きなリンゴがあったよ!

 ジェフ! 姿が見えないと思えば、一人で行ってたのか!? 一人で行動するなと……!

 ごめん、兄さん。でも僕、少し覗いてきただけだよ。走ってここへ戻ってきたよ? 向こうにリンゴが落ちていたんだ。

 分かった。……それはどこだ、ジェフ。案内してくれ。

 こっちだよ!

 ……罠かもしれない。銃を貸せ。俺が行って見てくる。

 だったら僕が……。

 いや、お前はここにいてくれ。誰もいなかったら合図する。待ってろ。

 あ……! 兄さん!!!

 罠ではなかった。ただし、そのリンゴのすぐ隣には血と肉片と、弾丸が散らばっていて、なにかしらの抗争があったことはライナスにも分かった。

 ジェフには……見せられないな。リンゴは持ってくか。

 ライナスは弟のところへ戻ると、決して一人では行動するなと言い聞かせた。

 僕たち、どうしてこんなにも違うんだろうね。

 ……?

 急に足を止めたジェフがつぶやく。

 双子なのに……同じ顔なのに、どうしてこんなにも兄さんの役に立てないんだろう……。

 そんなことない。俺だってお前のような優しさや気遣いがないのは解ってるよ。

 なんだってやれるじゃないか兄さんは。

 できないことだってあるさ、俺にも……ジェフを、護っていくのが俺の役目だ。

 あの日、あの場所から出て行くときに誓った。弟を護れるのは自分だけ。

 なら僕は?

 お前はただ、側にいてくれればいい。俺の気持ちが解る奴がいてくれたら安心するからな。

 でも……でも、僕はそれだけじゃいやなんだ。

 どうした?

 僕は、もっと兄さんの役に立ちたい。兄さんが僕の周りを安全にすればするほど、兄さんに危険が付きまわるのはもういやなんだ!

 ……もしもの話だ。もしも、俺が死んだら――。

 そんな話聞きたくない!

 死んだら(*8)誰が覚えていてくれる?

 ――え?

 俺が生きた証を、お前に持っていて欲しいんだ。思い出だけでもいい。なんでも構わないから、少しでもこの世界に生きてたことを誰かに覚えていて欲しい。双子のお前なら、この気持ちは解るだろ?

 わ、解る……よ。ぼ、僕だって、兄さんに僕のこと忘れて欲しくない。

 忘れるもんか。自分と同じ顔した唯一の人間なんだから。

 大切な弟を護るために負った右目の創も、今ではもうすっかり痛みはなくなった。ただ、一生かけても治らないのはジェフの傷だ。心に負った傷はそうそう治るものじゃない。帰る家があった頃は弟を十分に護ってやれなかった。だから自分にはそれを一生かけてでも償う権利がある。


 こうして今、わたしが生きているのも、生かされているからなんて考えたくはない。母親は違えど、ルーシーとは血の繋がりを越えた姉妹だ。ライナスとも、そう、ジェフもそう、わたしたちは助け合える兄弟になったんだ。

 アリシアはディーゼル車のすぐ横まで来ていた。遠目にライナスの痣だらけになった身体を見た。その姿に悔しさを抱く。だが、行動しようにも離れた大人二人の捜索に今にも見つかりそうで、彼女はしばらく車体の陰に隠れて様子を窺っているしかなかった。

 ルーシー?

 先を行くルーシーの体がなんだかふら付いたように見えて、ジェフは声をかけた。するとその小さな体は振り向くことなく、膝から崩れ落ちた。

 ルーシー!! どうしたの!?

 くらくら……する……。

 どうやら無理な登山のせいで、後になってメニエール病を発症させたらしい。

 ごめんよ、ルーシー。気が付いてあげれなかった。休もう、ゆっくり休んでいいからね。僕が側にいるよ。

 ……お兄ちゃ…………泣かないで……ね。

 え?

 だって泣いているんだもの、ルーシーは意識が朦朧とする中、ジェフの頬を伝う涙を拭った。

 うん、ごめんね。

 ……兄ちゃん……ありがとって……言うんだよ……? ママは……言ってた。

 ルーシー……。

 小さな手が離れてゆく。その手を取り、また流れそうな涙を堪えてジェフは祈った。

 この小さなか弱い身体から、病気が出ていきますように。

 父親に暴力を受けても縋らなかった神に対して、彼は祈りを捧げた。

 チッ、こいつ、なにも言わない気だぜ?

 どうするよ?

 男は衰弱したライナスを傷め付けることしか頭にないようだった。数時間に及ぶ罵倒と暴力と、それから絶望と……果ては、空腹感でもう指も動かない。心の底ではどうにでもなってしまえと、思う有り様だった。

 あいつらが、助かるんなら……俺なんか、別にいいか。いい思い出はいつも、心の中にあるから。

 そんな風(*9)に思考が死んでいくのを感じた。

 助けはない、希望もない、自分の生きた証拠は世界のどこかに片割れとして、弟の中に生き続けるだろう。

 ……せ……よ。

 あ゛?

 殺せよ……今なら死ねる気がするんだ。

 そう、美しいもののために。命ならもうとっくに投げ出す覚悟はある。あの姉妹に出会ったときから。俺は、あの出会いに運命を感じた。

 俺は……護りたいもののために、命を張るんだ。

 いつも弟の前だった自分。臆病をひた隠し兄としての威信を掲げてきた。兄として、必死に強さを演じてきたのだ。いつかに決意した虚勢を武器に、彼は世界のすべてに抵抗を繰り返すと誓った、あのときみたいに。

 ……本当はみんな苦しいんだ。それはみんなが同じで……なのに、奴は平気でいる。許せないじゃないか。俺はそれを許さない。

 奴らの思惑通りにはさせてたまるかと、目一杯の根性で、魂を震わせた。

 山の中では木々がざわめき、水の滴り落ちる音さえ響いた。木々の中には音を立てて崩れるものもあった。木の葉が揺れて、また一枚散った。太陽は地上を見捨てた。だが、緑はまだうっそうと生い茂り、生命の根源を露わにしている。土も匂った。風が吹いて、さっぱりした空気が全身を包み込む。そのすべてを肌が感じ取っている。

 やれる、ライナスは確信した。

 男が一人でいる今なら、なんとか好機はある!

 この大人に敵うはずがない、それは彼自身も心の奥底では分かっていることだった。それでもいけると思った。もしかしたら奴ら打ち負かせると思った。それはきっと、そう。

 うぉおおおおぉおおっぉぉぉぉぉーーーーーー!!!!!!!!

 震えた。血が騒いだ。胸がざわついた。自然と拳に力が入る。彼は、叫ぶ。遠くに残した彼女の元へ届くように。自分が残した数々の軌跡を、まるでその声の中に込めるように。色んな言葉の想いを込めて、叫ぶ。

 その勇姿になにを感じたか、車の陰で様子を窺っていたアリシアが皆の前に飛び出した。

 ライナスっ!!!!!

 怒るような、はたまた悲しそうにした眼がそう呼んだ。ライナスはまさか、と飛び出した人物を凝視した。

 ふたりの視線は絡み合った。

 アリシアはふっとほほ笑む。そして次の瞬間、鋭く耀くメタルフレームの鉄の塊を男へ向けた。それは銃だった。

 オイオイ、笑わせるじゃねぇか。ガキがオモチャの銃を持ってるとはな。

 玩具なんかじゃないわ!

 アリシアは引き金に指を掛けた。しかし、奴はそれを見て動揺の一つもしない。どうしてだと、アリシアは考えたが、時すでに遅し。アリシア目掛けて、男が容赦なく平手を打った。反動で彼女の身体は投げ飛ばされる。唯一の銃はその手を離れて、倒れたアリシアの傍に落ちた。アリシアの桃色だった頬は赤く腫れ上がった。

 大丈夫かアリシア!

 庇ってやれなかった彼は、ただ彼女の名前を叫ぶしかなかった。

 ふたりともボロボロだった。ライナスは絶望に胸を囚われ、アリシアは痛みに成す術を失った。心が折れるとはこういうことだった。銃に希望を乗せ過ぎたのか。いや、そもそも大人相手に自分たちは助かるという希望を胸に抱いていたのか。それさえもあやふやだった。

 ライナスは悔しさにまたも唇を噛んだ。拳を作り、爪に土が入っても構わなかった。

 アリシア、アリシア……。返事をしろよ……アリシア……。

 彼は這いずって彼女のもとへ寄った。彼女の意志は瞳には宿っていなかった。ただ涙が浮かんでいた。

 泣くなよ……アリシア……。

 涙を拭ってやりたい。けれど腕が重くて動かせない。腕だけではなかった。全身がそうだった。満身創痍になってしまったライナスは彼女を抱きしめてやれないことを歯痒く思った。

 誰か、誰でもいい……誰か、助けてくれ。

 自分と大切な人の、人生最大と思われるピンチを切り出せないでいる。誰かと心の中で叫ぶ以外、方法は見つからなかった。ただ、刻一刻と過ぎていく時間はふたりの命の端を少しずつ削り取っていった。

 衰弱しきってなにも考えれやしない。どうすれば自分たちが助かるのか、この悲劇をどう回避すればよかったのか、今の自分になにかできることはないのか。

 ライナスもアリシアも、互いに少しも動けずに弱ったまま地面へ横たわっていた。

 お兄ちゃん……耳が痛いよぉ……。

 耳? 耳かい?

 ……キーンってする。

 ルーシーを抱きかかえながら、ジェフはこの小さな命が助かるようにと必死に祈っていた。

 軽く押さえるからね。いい?

 うん…………?

 僕の手のひらから鼓動を聴いてごらん。少しは楽になるかもしれない。

 きっと耳鳴りが酷いんだ。かわいそうに。僕が代わってあげれたら……。

 よくなった?

 ……ううん、まだ痛いよぉ。

 ……困ったね。

 ジェフはこの病の処置の仕方を知らなかった。

 でもドクドクってお兄ちゃんの心臓の音がしてるの。聴こえるよ。

 がんばってルーシー。僕が側にいるから。

 神さま、どうかお助け下さい。この子の耳を、悪しき病を身体から取り除いて下さい。僕の声の代わりに。僕はどうなってもいい。この子を、ルーシーをどうかお助けください。

 ジェフは手のひらを合わせて指を組んだ。瞳を閉じて、風だけを頼りに神へ祈りを捧げた。ルーシーは瞳を閉じた。苦しそうに顔をしかめて浅い眠りについた。

 ライナスがいくら名前を呼んでもアリシアは返事をしなかった。彼は彼女の呼吸を確かめた。かすかだがまだ息はあった。

 男は動かないふたりに対してなおも殴る蹴るの暴行を続けた。自由を封じられているふたりにとって、その行為がどれだけ追いつめられることだったか。

 アリシアは妹に、ライナスに、母親にすまないと思いながらも、もう死んでしまいたいとさえ思っていた。瞳にはなにも映していない。大切な人の声も聴こえない。意識が遠くなっていくだけ。なんにも今の彼女には届かなかった。まるで抜け殻になったアリシア。

 心を閉ざしてしまった彼女は、愛する彼でさえ今までのように戻すのは難しいだろうと思えた。

 彼自身にも限界はきている。逆転の可能性はないに等しい。だが完全に消失してはいない。可能性はある。もちろん一か八かだった。半分は賭けだ。命懸けの運試しだ。

 体温が少しだけ上がる。緊張に鼓動が跳ねて、痺れかけの指をわずかに動かした。

 タイミングが大切だ。男が次に向こうを向いたら、突進して銃を奪ってやる!!

 ライナスは何度も脳内でシュミレーションした。しかし、なかなか男が思うように行動しない。

 するとそのとき、アリシアはふと言葉にした。

 ……ルー…………シー………………。

 自我を失いかけてもアリシアは義妹のことを思う。そう、彼女は心から妹を愛している。

 アリシア(*10)、アリシア。

 ライナスは必死に彼女の名を呼び続けた。

 お前の助けがいるんだ。

 ぁ……ィ、ラぃ……ナス?

 アリシア…………!

 彼女の瞳に再び光が射した。美しい母なる海を思わせる青きブルーの瞳。潤んだ眼はしっかりとライナスを見つめていた。

 救いはあったんだ。

 ライナスは心から思った。

 人が神さまを信じているのは、助けを欲しているんじゃない。俺たちは弱い。だけど……だからこそ知っている。自分たちで求めた結果が思い掛けないものを見出すこと! 俺たち人間は、かの存在に感謝している! 言葉で言い表せないくらいの胸いっぱいの感謝を十字架に込めて、アブストラクトに表現しているんだ!

 アリシア、聴いてくれ。これは奴に特攻をかける。体当たりしている隙に銃を取れるか?

 …………ライナス……?

 心配ない。きっとうまくいく。

 男が咎めない様子を見ると、ふたりの会話はどうやら奴には聞こえていないらしい。

 好き放題に殴り続けた男は疲れたのか、車体の側面を背もたれに、懐から取り出したタバコに火を点けて、呑気に木々の小枝に閉ざされた空を見上げていた。

 アリシア、これが最後のチャンスだ。神さまがくれたこの機会を逃すわけにはいかない。できるか?

 アリシアは満足に言葉が出せなかった。けれども瞳を見れば、彼女がいかにライナスを深く信頼しているのかは容易に分かる事実だった。

 ライナスは横になっていたひどく重い身体を両腕で持ち上げた。泥だらけの顔を手の甲で拭って男に向き直る。そして一気に駆け出した。

 うぅ っ ぉ ぉ ぉ ぉ ぉ ぉ っ ぉ ぉ お お お ぉ ぉ ぉ お お ぉ! ! ! !

 長く、凛々しい雄叫びが山に轟いた。

 男は何事かと驚き、ライナスたちの方を見ようとしたがそれより早くライナスの頭蓋骨が男の顎に入っていた。ごふっ、鈍い音と一緒に男はほんの少しよろめいた。その隙をついてアリシアが投げ飛ばされるときに落した銃を手にした。

 ライナスっ!

 その声にハッとするライナス。彼女は再び自身を取り戻したようだった。

 ライナスはすかさず男との距離をとった。左足を引きずりながらも数歩後ずさりして、銃口を男へ向けるアリシアと並んで立つ。

 よくもやってくれたな……。

 男が低い声でそう言った。だがふたりに話している余裕はなかった。一刻も早くここから立ち去らなければ周囲を見回りに行ったあとのふたりが戻って来る可能性があるからだ。

 動くなよ。少しでも動けば……撃つ。

 そりゃ怖いな。

 男は笑みを浮かべながら、手のひらを仰向けに頭の上に移動させた。

 タバコの灰が落ちる。

 動くなっ!! そのままでいろ!

 ライナスは受け取った銃の撃鉄を起こすと、歯に着せぬ態度で男に向かって叫んだ。

 ……アリシア、走れるか?

 えぇ。いつでも。

 少しずつ距離をとろう。合図したら右手に向かって走るんだ。

 茂みへ?

 そうだ。

 銃の狙った撃ち方なんて知らない。人に向けて撃ちたくない。もっと言うなら引き金に指をかけるのも。でも、そう言っていられない状況がここにある。大人相手に威嚇射撃してもいい効果は見られないだろうが、一か八かの賭けだ。運よく男の数センチ横を通って、木々の中へ飛んで行ってくれれば上出来。素人が狙っても中てられるかは五分五分だった。

 ライナスは男を睨みつけたままに、男の耳元数センチ隣に照準を合わせた。

 もう追ってこないでくれ。

 男はニヤニヤとせせら笑っている。その笑みはまるでライナスが過去に見た、あの人のそれと似ていて――ジェフと母親を苦しめたそんな男を、ライナスは許すことができずにいたから……。

 そのとき、なにか大きな音がした。耳鳴りが少しずつ治まってきたルーシーを背負って下山している最中の出来事だった。

 木の葉が騒がしかった。ジェフはなんだかよくない予感を覚えて、慎重ぎみに下っていた歩を少しだけ早めた。

 兄さん……今どこにいるんだ兄さん……どうか無事でいてくれよ、兄さん。

 ジェフの肩に揺られたルーシーはぐったりしていた。幼い手はジェフの袖を掴んだままに。

 ライナスッ!!!!

 アリシアは驚愕の事実に瞳を大きく開けた。そしてすぐさま放心した彼の身体を抱きしめる。

 ぁあ……お、れは……なに……を?

 男は目の前に倒れている。そいつはちっとも動かない。男の右胸には一カ所だけ穴が開いていた。それは紛れもなくライナスが放った弾丸の痕跡で。痺れた手のひらと先ほどより重く感じられる自分の腕がなによりも確かな証拠だった。

 ライナス、ライナスっ……ねぇ!

 アリシアは心を失ったライナスの顔に冷たい両手を添えた。

 こっちを見て。わたしを見て、ライナス。

 そう言われてライナスは恐るおそる男から目を放した。しかしアリシアの瞳と視線がぶつかるなり、ライナスは怖れ慄いてしまった。

 ころした……。

 そいつは動かない。胸に風穴が開いてる。俺が銃を持ってる。この銃から硝煙のにおいがする。俺は俺は…………………………。

 しっかりするのよ! まだ息があるわ!

 真剣な眼差しがそう訴えた。ライナスはハッと我に返って、起き上がってこない男に近づいた。そうして男の服を急いで剥ぎ取った。小さな金色に輝くものが見える。銃弾は男の胸に刺さっていた。しかし直接ではなかった。

 ボ、ボディアーマー……?

 黒いゴツゴツした防護服を男は着ていた。弾丸はそれに数ミリ食い込んで止まっていた。

 男が気絶しているうちに行きましょ。逃げるの、そうでないと離れて行った大人ふたりが帰ってくるわ。

 アリシアは座り込んだライナスの肩を揺すった。

 あぁ……。

 ライナスは立つとアリシアに向き直った。

 ライナス?

 ……すまない。正直、格好つけてここに来たけど、お前の助けが必要だった。

 ただただ護りたいだけだった。大切な人を。自分の生きがいを。

 お前には怖い思いをさせた。

 腫れた頬にライナスはそっと触れる。アリシアは彼の手に自分の手を重ねて、瞳を閉じた。

 わたしは、嬉しかった。

 彼女はほほ笑んだ。瞳にうっすらと涙が浮かぶ。

 痛い思いもしたし、辛かったけど……ライナス、わたしにもあの子たちにも、あなたは必要な存在なのよ。

 すまない、すまないと何度も心の中で繰り返し唱えていた後悔の言葉を、アリシアはその一言でライナスのそれを誰も届かぬ彼方へと吹き飛ばした。

 俺は……っ、な……なんにもお前にしてやれなかったのに……。

 もらったわ。ちゃんと……生きてる……わたしも、あなたも。

 たまらずに、ライナスはアリシアを抱き寄せた。その心の中には、今度は悔いではなかった。

 ありがとう、ありがとうアリシア。

 彼女の中に、かつて優しかった母親を見た気がした。

 紡ぐ言葉はもう、そのすべてが生きていることに繋がっていた。

 懐かしい過去だ。ほんの数日しか一緒にいなかったのにな。

 ライナス……?

 ――アリシア、きみに出会えてよかった。

 ひしと抱きしめた温もりは確かに、自らの腕の中。

 俺も、こいつも、きっとジェフとルーシーも。

 生きてく(*11)ってこういうことなんだ――。

 ライナスはアリシアの涙を拭った。それでもなお、彼女のブルーの瞳からは雫が零れたが、それはもう悲しい涙ではなかった。

 ルーシー?

 ん?

 耳の調子はどう?

 ん……もう平気だよ。

 ジェフとルーシーは山を下り、土埃が積もったコンクリートの上を歩いていた。

 前方には今にも崩れそうな、木と紐で括り付けただけの店が立ち並んでいた。どうやらここにはなんでもあるらしく、世界に残った文明の部品が集結しているようだった。

 そっか、よかったね。今更だけど、薬とかはないの?

 あったけど、なくなっちゃった。どこにもお医者さまがいないんだもの。

 そうだね。

 ねぇ、あれっ!! お姉ちゃんだ!

 ふと先ほどまでいた山の裾をふり返ったルーシーは、山の麓を指差してはしゃいだ。その先にはアリシアとライナスが手を取りあって倒れた木をまたぐ姿があった。

 兄さん! 無事だったんだね、よかった!

 ジェフ……ルーシー、ふたりとも無事でなによりだ。

 アリシアは走ってルーシーを抱きしめた。

 あぁ、ルーシー。怪我はない?

 うん、大丈夫だよ。ジェフお兄ちゃんとずっと一緒だったよ。

 ルーシーの笑顔を見たアリシアはホッと安堵のため息をつき、ルーシーの頭を撫でた。

 するとそのとき、上を見上げていたルーシーの顔が一瞬にして驚きと嬉しさに明るくなった。

 鳥! 鳥だよ、お姉ちゃん!!!

 それは三羽いた。とても優雅に羽ばたいて風に乗り、気持ちよさそうだった。

 親子かな?

 幸せそう!!

 初めて見たよ、僕。

 みんなで見れたね。

 やがてそれらは木々に阻まれ見えなくなった。

 行こうか、みんな。

 行くってどこへ?

 そうだな……とりあえず、今晩の食料でも探しに。

 うん、もう食べる物がないよ。そうだよね、ジェフお兄ちゃん?

 ルーシーはジェフの手を掴んで言った。

 そうだね。水も足さないといけない。

 そうと決まれば早く行きましょ。またすぐに日も暮れるわ。

 お互いに、歩いて来た道がある。苦労の積み重ね、苦難の試練と思われる出来事を数々乗り越えてきた。人恋しさから集まりともに始まった旅は、この先なにが待っているか分からない。それでも彼らは手を取り合うだろう。今までのように。

 あ、ちょっと待っててくれ。

 なに? どうしたのライナス。

 あれを買ってくる。

 お金があるの?

 言ってなかったが、奴らから銃と弾丸を少しだけ拝借してきた。

 ライナスは露店の一つに姿を消した。

 ジェフお兄ちゃん、あれってなにをするもの?

 あれは方角が分かるんだ。僕たちの行くところは南だよ、Sって表示されてるところ。

 行きたいところに行けるの?

 そうだよ。

 ママもあれを持ってるかな?

 持っていると思うよ。

 わたしたちはあれを持つから、ママのところに行ける?

 ルーシーがお母さんを忘れなかったら、いつか行けると思うよ。

 うん。わたし、ママを忘れない。ママもパパも、きっと忘れない。

 お待たせ。ほら、あっちが南だって針が言ってる。

 もちろん、お姉ちゃんも、ジェフお兄ちゃんも、ライナスお兄ちゃんもだよ!

 なんの話だ?

 ほら、行くわよ。まだ交換できるものはある?

 あぁ、弾丸が少し余った。食料もこれからは買えるだろう。

 ライナスは安堵する。盗んでも生き伸びることを、世界は理不尽にも自分に教えたが、これから少しはそれをしないで済むからだ。それはとてもよい兆しだった。

 Sだよね!

 そう、暖かい南へ。

 予想していたこの土地はまだ寒すぎるからな。

 だから、まだまだ歩くんだね。

 暖かく住めるところを目指して。

 あ、さっきの鳥! なんだか案内してくれてるみたいだね。

 着いていってみようか。

 アリシアたちは歩み出した。いつか、まぶたに焼きつけた希望を実現させるその日を夢見て。今はまだひどく廃れた道の先を目指しながら。

 それ(*12)でもなお彼らの頭上には灰色をした厚い雲が、一縷の光さえ遮って、地上にそそがないまま静止していた。


 Fin.

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