湖底の冬~冬来たりなば~
投稿型サイト「ノベルデイズ」にあげた「チャットノベル」の文章版。
よろしければそちらの方もご賞味を!
淋しい。
冴え切って深い水の底、起きているのは自分独り。
そう考えて、乙女は深く吐息をついた。
このホルンフェルス湖の水底にそびえる城の中、城主の妻である乙女には何一つすることがない。
メイドも執事も一人もいない城の中、夫の顔すら見られないのだ。
それもそのはず、夫の水神は冬の初めに愛しい妻を置き去りに、「永い眠り」についてしまったのだから。
(……このお城で独りぼっちになってから、もう幾月が経ったのかしら。
わたしの夫のルンフェ様が深い眠りについてから、わたしの心はずっと冬だわ。湖の上は、とっくに春を迎えたのに……)
内心でさめざめ嘆きつつ、妻のシルトはぼんやりと目の前の菓子を見つめる。
テーブルの上におざなりに出してみた、夫の好物のハニーローストナッツにも、手を伸ばす気にはとうていなれない。
幼い頃には存在すら知らなかった美味しいお菓子、結婚して初めて夫が食べさせてくれた甘いナッツは、今では自分も大好物だ。
しかし元気な顔の夫が目の前にいない今となっては、口に入れて物を噛むのを想像しただけでうっとうしい。
シルトは数日洗うのも忘れた栗色の髪をざわりと揺らし、また吐息した。吐息しながら、テーブルの上の水晶玉を見るともなくぼうと眺めた。
水晶玉はあたかも魔法の鏡のように、花の咲き乱れ蝶の舞う、湖のほとりを映している。この水晶は夫のルンフェの持ち物だ。
春が来ている。
世界には春が来ようとも、わたしの心はいまだに真冬。
同じことを心中で幾度もつぶやきながら、シルトはもう涙も涸れた翠緑玉の瞳をまばたき、いかにも気だるげに眠いように目をこする。
目の奥に染みついて離れないのは、愛しい夫の面影だけ。
シルトは思わず声に出して、今の状況を芯から嘆く。自分以外に、誰も聞く者はないというのに。
「ああ、淋しい、心が日に日に凍てついてゆく!
ルンフェ様……お逢いしたい……わたしの愛するだんな様……」
けれども相手には意識はなく、永いながい眠りの邪魔になると思えば、夫の部屋にもうかつに出入りは出来ないのだ。
「ルンフェ様……この湖の主、水神で人外で……。
でもこの『異端』のわたしに優しかったのは、真実ルンフェ様だけだった……」
何を言っても独り言、言葉に返る言葉はない。
テーブルの水晶に映る春も、遠くとおく目に映る。
ため息で命が縮むなら、明日にも自分は死ぬのだろうか。
そう思いながら、口からしょぼんと息を吐くのを止められない。
ふと思いついてハニーローストナッツを一粒つまんで、やっぱりそのまま皿へと戻す。もう何をする気力もないシルトは、ぼんやりと自分の幼い頃を想い出す。
いつものように同じ村に住む子供たちにいじめられていた時だった。
見知らぬ大人がそれを見とがめ、シルトを救けてくれたのだった。
そうして、それが今の夫だ。
ルンフェはそこらをふらっと歩いている旅人のようななりをして、幼かったシルトの前に現れたのだ。
「こら、お前たち何をしている!?
幼い子供でありながら、同じ子供を虐げるとは!
実にけしからん、お前ら、そのうち天罰が下るぞ!!」
『わあ! うるさい大人が来たぞ! 知らない顔だぞ! きっと魔物だ! 逃げろ! 逃げろ~!!』
子供たちはわっとばかりに逃げ出して、残ったのは幼いシルト独りだった。
いつものいじめに慣れることも出来なくて、しゃくりあげて泣くシルトの頬へひたとルンフェは手をあてた。びっくりするほど冷たい手だった。
(――手の冷たいひとは、心があたたかい)
いつかどこかで聞いた言葉を思い出し、その冷ややかさが傷ついた頬に心地よく、シルトはようやく泣き止んだ。
泣き止んで見上げた青年の顔立ちは、ぞっとするほど美しかった。
淡い青紫の髪は女性のようにさらりと長く、その切れ長の瞳はシルトとおそろいの翠緑玉色。
そうしてその瞳は一見すると冷ややかだが、目の奥に確かな優しさが灯のように点っていた。
「……ひどいケガだ、血が出ている……。なんて奴らだ、お前のような可愛い子の柔らかな肌にこんな傷をつけるとは……!」
ぷつぷつとぼやく青年の言葉に、シルトは夢見心地になった。
可愛い子。
そんなことを言われたのは、真実生まれて初めてだった。
ときめきよりも「自分を肯定してくれた」という安心感が先に立ち、少女は眠くなりそうだった。
そんなシルトの頬をしみじみ撫でながら、青年は何ごとか口の中でつぶやいた。
「……どうだ?
さしあたり、痛みは大分ひいたはずだが……」
遠慮がちにささやく青年の言葉に驚き、シルトは自分の頬へ手をやる。
確かに痛みはひいている。
それどころか、たった今ついた生傷さえほとんどなくなっているではないか!
「……お兄さんは、魔法使い?」
シルトの問いかけに黙って微笑って首をふり、青年はふっと真顔になった。
「……なあお前、名は何と言う?
そうしてお前、なぜ虐げられていた?
よく見ると顔も体も古いのや新しいのや、傷あとだらけではないか……!
こんな可愛い子供をいじめる、やつらには何か理屈があるのか?」
青年の当然の質問に、ふうわりと柔らかだったシルトの気持ちが硬くなる。
少女はきゅっと桃色のくちびるを噛みしめた後、他人事のように口を開いた。
「……シルト。わたしの名はシルトです……。
そうしてわたし、人間じゃないから……だから邪険にされるんです」
「……人間ではない?」
「……はい。わたしは妖精の父と、人間の母が恋して生まれた子供……。
妖精界では『別種の生き物と愛し合うこと』は禁忌なので、妖精の王が命じて父はわたしの生まれる前に、異世界で処刑されました」
顔も知らない父のことを、シルトは淡々とした口調で語る。
そういう口調で自分をセーブしなければ、涙が出てきてしまうから。
青年はまじめな顔をして、ただただ黙って聞いている。
「……母は、わたしの生まれる時にお産が重くて死んでしまって……。
だからわたしは独りなんです。
妖精にも、人間にもなれず、どちらにとっても厄介者で……。
今はこの村の教会で養われているんですが、でもわたしは知ってるんです。陰でみんながわたしを『異形』と呼んでいるって……」
語り終えたシルトは、うっすらと笑みすら浮かべてみせた。その笑顔は青年の目に、泣くより哀れな表情に映った。
青年は美しい瞳をすっとまぶたで隠し、またゆっくりと目を開けた。
そうして今度はにっこり微笑い、さらさらとシルトの頭を撫でて訊ねた。
「……そうか。
ならシルト、いずれは我の嫁に来るか?」
「……は? はい!?」
「何を隠そう、実は我も『人外』でな。
ほら、この村のはずれに小さな湖があるだろう?」
シルトは思わず首をひねって考える。村のはずれに確かに湖はあるけれど、正直子供の目には「海のように広い」ところだ。
「小さくは、ないと思うけど……ホルンフェルス湖のことですか?」
「そうだ。申し遅れたが我が名はルンフェ、あの湖の主で水神だ。
湖の底の城に独りっきりで棲んでいる」
目をしばたたくシルトの頭をなおも撫でつけ、人間とは思えぬほど美しい青年は、べろりと長い舌を出しておどけながらはにかんだ。
「我もお前も、独りっきりが淋しいのはどうやらお互い様らしい。どうだシルト、お前十八になって大人になったら、我のところに嫁に来ないか?」
「……ふふ! それじゃあふつつか者ですが、いずれはよろしくお願いします!」
「ようし決まった! それではふたりで指きりだ!」
はしゃぎながらした指きりは、すっと冷ややかな指がもうたまらなく心地よかった。
もちろん当時の幼いシルトは、その話を本気にしてはいなかった。
通りすがりの心優しい青年が、シルトの身の上を哀れんでついてくれた、甘い嘘だと思っていたのだ。
きっとこの人は魔法使いで、旅のとちゅうにたまたまわたしに行き会って、流れでなぐさめてくれただけ。
そう思っていたシルトのことを、不思議な青年はずっと見守っていてくれた。
『シルトには妙な魔物が憑いている』
そんな汚名を着せられながら、青年は時には兄のように、時には父のように、シルトをかばっていてくれた。
そうしていつか十年が経ち、シルトは十八歳になった。
そうして「悪夢でお告げを見た」村長の命により、質素な花嫁姿で「生け贄」としてホルンフェルス湖に連れていかれ、重りをつけて沈められた。
ここはもう、黄泉の国かしら――。
あっけないくらい苦しくもなく、ふっと目を開けたシルトは、いつしかこじんまりした城の中に立っていた。
そうして彼女の目の前には、いつもよりずっとおめかししたルンフェが微笑んでいたのである。
それからは夢のように幸せだった。
愛しいひととお茶を飲み、お菓子をつまみ、ふたりで料理を作って食べ、つきっきりで文字の読み書きを教えてもらい……。
そんな甘い日々はもう、遠いとおい記憶のかなた。
まさかこれほどまでに早く、逢えない日々が訪れるとは!
「……ああ! もう堪えられない! もう一日でも、いいえもう一秒でも、お元気なルンフェ様のお顔を見られなければ、わたし孤独で死んでしまうわ!」
「……おやおや、それではぎりぎり間に合ったかな?」
どこかからかうような声音に、シルトががばりと振り返る。
寝間着姿で少しぽうっと立っていたのは、最愛の夫そのひとだった。
「……る、ルンフェ様……!!」
「おはよう、シルト。
久しぶりだな……夢の中では逢っていたが……少しやつれたのじゃないか?」
起き抜けに妻を気づかう水神に、シルトは今さら泣き出しながら微笑いながらうなずいた。
「……ええ、ええもう大丈夫です……! あなたがお起きになったから……!
冬眠からお目覚めで、お体の調子はいかがです?
何かお召し上がりになりますか?」
「……そうだな……体を温めるのに、まずは人肌の白湯を一杯もらおうか。その後ダージリンティーと……我の好物の、ハニーローストナッツでもかじろうか」
にっこりして首をかしげる、いつもの夫の可愛いくせが、むせび泣きたいくらい嬉しい。
首をかしげた湖の主は、それから気がかりなように少し顔をくもらせた。
「しかし初めての湖底の冬は、お前にとってだいぶん永かったようだなあ……!
我とおそろいのその翠緑玉の瞳、淋しさにひどく濡れている……!」
シルトはあわてて涙をぬぐい、心の底からはにかんだ。
「……ええ、ええもう! 本当に!
でももう大丈夫です、あなたの目覚めたお顔を見られて、凍てついていた心もきれいに溶けました!」
こうして二人が結ばれて、初めての冬は終わりを告げた。
たかがひと冬、されどひと冬。
蛇神の夫は毎年冬には深いふかい眠りに落ちる。
その間の孤独が、「本当に独りぼっち」だった今までの辛さとは全然違う種類のものであることを、シルトは心底思い知った。
けれどもきっと大丈夫。永い別離の後の再会がどれほど幸福なものであるかも、シルトはもう知っている。
春が来たのだ。
水底の城にも、シルトたちの心にも。
冬眠を終えた湖の主と、その妻は今年初めてのふたりのお茶を味わった。
何でもないことを語り合い、何でもないことを話せる喜びに、またお互いに微笑い合う。
(おやおや、なんともお熱いこと!)
城の窓から見える水中、小魚がつんと窓をつついて、ひやかしているようだった。