やさしい世界へ
食事を終えて帰りの馬車に揺られながら、わたしは向かいに座るノエル様をそっと盗み見ていた。
窓の外を見つめる彼の横顔は、柔らかな月明かりに照らされており、この世のものとは思えないくらいに美しい。不眠不休で三日くらい眺めていられる気がする。
「……お願いですから、そんなに睨まないでください」
眉を下げ困ったように笑うノエル様にそう言われて初めて、いつの間にか盗み見るどころか、じっと見つめてしまっていることに気が付いた。
しかもわたしは彼の前では基本真顔になっているのだ、睨んでいるように見えてもおかしくはない。余計に彼を嫌っていると思われたかもしれないと、心の中で頭を抱えた。
「実は来週、知人の舞踏会に呼ばれているんです。君さえ良ければ、婚約者として一緒に行ってくれませんか」
「わかりました」
「ありがとうございます、シェリー」
けれどノエル様は、そんな愚かなわたしを舞踏会のパートナーとして誘って下さった。こんな素っ気ない返事にも、心の広い彼は嬉しそうに微笑んでくれている。
彼の婚約者として初めて社交の場に出るのだ、失敗など出来るはずがない。けれど制約魔法のことを思うと、やはり不安でいっぱいになってしまうのだった。
数日後、ノエル様から舞踏会用にと最高級のドレスや靴が屋敷に送られてきた。とても素敵なデザインのそれらは既製品ではなさそうな上、どう考えても数日前に発注して作れるものではない。
一体いつから用意していたんだろうと思いつつ、初めてのノエル様からの贈り物にわたしは嬉し涙を流していた。長年わたしのノエル様話に付き合わされていたメイドのダリアもまた、そっとハンカチで目頭を押さえている。
「ノエル様はお嬢様のことを良くわかっていらっしゃいますね……! 本当にお似合いです」
「そ、そうかしら。本当に似合ってる?」
「それはもう! 世界一お美しいですよ」
昔からわたしに甘すぎるダリアに煽てられ、余計に浮かれてしまう。そうして他愛ない話をしながらドレスや靴を眺めていると、ふと思い出したように彼女は口を開いた。
「……そういやお嬢様、またあの手紙が来ていましたよ」
「あら、良く飽きないわね」
「外ではお一人にならないよう、気をつけて下さいね」
「大丈夫よ、あんなの悪戯に決まっているもの」
ダリアが言う「あの手紙」とは、学園を卒業した頃から数ヶ月に一回届くようになった、気味の悪い手紙のことだ。毎回差し出し人は書かれておらず、中には「いつでも見ているよ」「君だけを愛している」などと言った愛の言葉がびっしりと書かれている。かなり気持ちが悪い。
初めの頃は流石のわたしも外出するのが怖くなっていたけれど、何も起こらずに3年以上経った今では、タチの悪い悪戯だろうと思うようになっていた。
「あっ、そんなことよりもドレスに合う髪型やアクセサリーを考えないと! みんな集まって頂戴!」
わたしは軽く両手を叩くと手の空いているメイド達を集め、舞踏会に向けての作戦会議を開いた。
◇◇◇
そして、舞踏会当日。正装に身を包んだノエル様の素敵さに何度も意識が遠くなりかけながらも、わたしは彼と腕を組み、会場の中へと足を踏み入れた。
彼と密着しているせいで緊張は止まらず、両手と両足が一緒に出そうになる。けれど最低限のマナーとしてなら、こうして彼に触れられることがわかっただけでも大収穫だ。
「本当に綺麗です、シェリー。皆が君を見ていますよ」
「まさか。皆が見ているのは貴方の方です」
ノエル様は顔を合わせてからというもの、何度も何度もわたしを褒めてくれている。心の中では嬉しくて嬉しくてお祭り騒ぎだったけれど、ぺたりと自分の顔に触れてみると、 相変わらず唇はきつく真横に結ばれていた。
「まあ、噂は本当でしたのね」
「あのノエル様が、シェリー様と…!」
わたし達を見るなり、入口付近にいた人々は皆揃って驚いたような表情を浮かべている。それもそうだろう、未婚の令嬢の憧れの的であるノエル様が婚約者に選んだ相手が、平々凡々男爵令嬢のわたしだったのだから。
きっとこれから、わたしに対する風当たりや見る目は強く厳しくなるに違いない。だからこそ今日は、戦場へ赴くような気持ちで気合を入れて来た、のだけれど。
「…………?」
何故だか、周りの反応はひどく優しいものだった。
まるで親が子を見守るような、そんな温かい視線を向けられていて。目が合ったり近くを通れば、知らない人々も皆「おめでとう」「良かったわね」と優しく声を掛けてくれるのだ。訳が分からず、わたしは完全に動揺していた。
そのうちに、魔法学園時代の同級生達が続々とわたしとノエル様の元へと集まってきていた。
「シェリー、婚約おめでとう! すごいわ! 貴女のことを皆、ずっと陰ながら応援していたのよ」
「えっ?」
「本当、健気だったよな。いつも小型犬のようにアンダーソン様の所に駆け寄って行ってさ」
「ノエル様、どうかシェリーをよろしくお願いします」
「はい、勿論です。一生大切にしますよ」
そんなノエル様の言葉に、女性陣はきゃあと小さな悲鳴を上げている。わたしも勿論、心の中で叫び声を上げた。「一途に思い続けた恋がこうして実るなんて、まるで小説のようだわ」なんて皆口々に言っている。
どうやら、いつも人目をはばからずにノエル様に好きだと伝えては大人しく去っていくわたしの姿を見て、皆いつしか心の中で応援してくれるようになっていたのだと言う。
あの周りからの温かい視線の理由が、何となくわかった気がした。それと同時に、とても恥ずかしくなる。そんなわたしを見て、ノエル様は嬉しそうに微笑んでいた。
それからは彼と共に挨拶回りをし、沢山の人から祝福されたわたしは、あまりに幸せでどうにかなってしまいそうだった。扇子で口元を隠すことで、常に真顔だったのも大分カバー出来ていた気がする。何もかもが順調だった。
そしてそろそろ、ノエル様とダンスを踊れるのでは…? とわたしはひそかに期待していた。なんて言ったって今日は舞踏会であり、わたしは彼のパートナーなのだ。未だかつて彼と踊ったことはなく、実は今日一番の楽しみでもあった。
けれど丁度ノエル様は騎士団の偉い方に呼ばれてしまったようで。何やら大事な話らしく、一人になってしまうわたしを気にかけてくれる彼に「大丈夫ですので」とぴしゃりと言ってしまった後、そっとその場を離れた。
やがて少し離れたところに友人を見つけ、声をかけに行こうと歩いている途中で「シェリー!」とわたしの名を呼ぶ声が聞こえてきて、足を止める。
「あら、久しぶりね」
「いよいよあのアンダーソン様と婚約したんだって? 一体どんな魔法を使ったんだ? すごいな」
「ええ、そうなのよ! 本当に夢みたいよ」
「お前、ずっと好きだったもんな。おめでとう」
「……ありがとう、ウォルト」
わたしに負けないくらい嬉しそうに笑い、祝ってくれるウォルトにつられて、思わず笑顔になる。制約魔法には苦しめられてはいるものの、本当にわたしは今幸せだ。
……ああ、ノエル様の前でもこうして笑えたらいいのに。
そんなことを考えながらウォルトと盛り上がっていると、不意に腕を引かれ、視界がぶれて。何事かと慌てて顔を上げれば、すぐ目の前に整いすぎたノエル様の顔があった。
「……ノエル、様?」
「君は本当に、俺を煽るのが上手ですね」
そう言って彼は笑顔を浮かべたけれど。その目が欠片も笑っていないことに、わたしは気が付いてしまっていた。