甘い鎖
やがて唇がゆっくりと離れ、熱を帯びた紫色の瞳に映る自分と目が合った。わたしは今しがた自分の身に何が起きたのか分からず、呼吸をすることさえ忘れていた。
「…………っ」
そして再びノエル様の綺麗な顔が近づいてきたかと思うと、唇が重なる。今度は触れるだけの、ひどく優しいもので。二度目にしてようやく何が起きたのか理解したわたしの瞳からは、ポロポロと涙が零れ落ちていく。
……まさか初めてのキスの相手が、ずっとずっと恋焦がれていたノエル様だなんて思ってもみなかった。自分の中にこんなにも満ち足りた感情が存在することも、知らなかった。
そしてあまりの嬉しさに涙が止まらないわたしを、ノエル様は何故かひどく傷ついたような表情で見つめていた。
「……今日はもう、帰りますね。シェリーがどんなに嫌がったとしても、婚約はこのまま進めますので」
その上、こんな態度をとり続けているわたしとの婚約を進めてくれる気らしい。彼はどこまで心が広いのだろうかと、また胸が締め付けられた。これ以上ノエル様のことを好きになってしまっては、わたしの身が持たない。
嫌われたと思っていたノエル様から婚約を申し込まれ、愛していると言われ、二度もキスをされて。わたしは今日、一生分の幸せを使い果たしたような気さえしていた。
「君はこのまま此処に居てください。泣いているところを誰かに見られては困りますから」
「……っわかり、ました」
「可愛いシェリー、また会いに来ます」
そう言って柔らかく微笑むと、ノエル様はわたしの部屋を後にした。一人残されたわたしは一通りの出来事を思い出した後、幸福度が限界の限界を超え、意識を失ったのだった。
◇◇◇
そして一週間後、ノエル様は再び我が家を訪れていた。あっという間に話は纏まり、今日はわたしと彼の婚約が決まった日でもあった。
彼は改めてわたしの両親に挨拶をしてくれて、その後は二人で有名なレストランにて夕食をとっている。彼の両親に会う必要は無いのかと尋ねれば、彼は少し戸惑うような様子を見せた後、「大丈夫ですよ」と困ったように笑った。
「勝手に婚約を進めたこと、怒っていますか」
「いえ、別に」
「それなら良かったです」
相変わらず冷ややかな反応しか出来ないわたしに対して、ノエル様は眩しい笑顔を浮かべ、話しかけてくれていた。
……そもそも制約魔法の効果期間を三ヶ月にしたのは、ここ数年間、ノエル様に会えるのは良くて一ヶ月に一度くらいだったからだ。だからこそわたしの計算では、彼に対して素っ気ない態度をとるのはたったの2、3回のつもりだった。
こんな頻度で会えるとは思わず嬉しい半面、残り一ヶ月近くこれが続けば、流石に嫌われて婚約破棄すらあり得るのではないかと、わたしは恐怖に包まれていた。
「こうして二人で食事をするのは初めてですね」
「そうですね」
「シェリーは肉と魚、どちらが好きですか」
「お肉ですが」
「俺も、肉の方が好きです」
「そうですか」
「………………」
「………………」
素っ気ない返事のせいもあり、少し言葉を交わしてもすぐに沈黙が続いてしまう。本当は、こうして二人で食事に来れて嬉しかった。わたしがこの過去6年間、ノエル様に会えるのは学園か社交の場だけだったのだから。
ノエル様ともっと話をしたいのに、彼を傷付けるようなことを言ってしまうのが怖くて、わたしは黙々と口に食べ物を運んでいた。ちなみに彼の行きつけだというこのお店は、出てくるもの全てが美味しい。
そんな場所に一緒に来れたこと、顔見知りの従業員に婚約者だと紹介されたこともまた、嬉しくて仕方がなかった。
「……俺は、シェリーに甘えていたんですね」
「えっ?」
「ずっと、君から向けられる好意に甘えていたんです。会話だって、いつも君が一生懸命に話を振ってくれていたから続いていたのだと、今頃になって気が付きました」
そんな彼の言葉に、食事をする手を止めて顔を上げる。
「俺は今まで、君に好きだと伝えることすら出来なかったのに、シェリーはずっと俺だけを見ていてくれた」
「………………」
「いつも笑顔で、まっすぐに好きだと言ってくれる君が可愛くて、愛しくて。本当に嬉しかったんですよ」
好きだと伝えることすら出来なかった、とはどういう意味なのだろうか。そして何より、ノエル様がそんな風に思ってくれていたなんて知る由もなかった。その上可愛い、愛しいだなんて言葉をさらりと言う彼に、わたしの心臓は今にも飛び出すのではないかという位、激しい鼓動を打っている。
過去の自分の想いが彼に届いていたのだと思うと、報われたような気持ちになる。少しだけ、視界がぼやけた。
「けれど今はもう、シェリーが俺を好きでも嫌いでも関係ありません。俺と結婚して、一生側に居てもらうだけです」
そんなプロポーズにも似た言葉に、わたしは息を飲んだ。
そんなに、幸せなことがあっていいのだろうか。わたしなんかがずっとノエル様のお側にいられるなんて。夢でも見ているとしか思えない。
けれどわたしの口から出たのはやはり「そうですか」という淡々としたもので、浮かれた気分は一瞬で落ちて行った。
「……本当に、嫌われてしまったようですね」
わたしが彼を嫌いになるなんて有り得ない、何をされたって嫌いになれる気がしないと言うのに。けれどそう思われても仕方ない態度を取り続けているのは、わたし自身だった。
好きな相手に嫌われていると思っている彼の心情を想うと、胸が張り裂けそうになる。ノエル様、今も変わらず好きです、大好きですといくら心の中で叫んでも、それが彼に伝わることはない。もどかしくて悔しくて、泣きたくなる。
「それでも、君はもう俺の物だ」
そんなわたしに向かってノエル様はぞっとするほどの美しい笑みを浮かべ、そう言った。その言葉は甘い鎖となって、全身にきつく絡みついていくような錯覚を覚えた。