すれ違っていく
「す、すごいわ! こんなにも簡単に両思いに…!?」
翌日すぐに、わたしはクラリスに教えてもらった例の本を購入し、読んでみた。話の中では、今まで好きだとアピールしていた女性が急に冷たくなったことで、男性は「失って初めて、君の大切さに気が付いた」などと言い、二人はあっという間に結ばれていたのだ。思わず感嘆の声が漏れる。
その上、押しの部分が強ければ強いほど、効果があるとか。流石にノエル様がこんな風になるとは思えないけれど、少しくらい変化があるかもと期待してしまう自分がいた。
けれど問題は、引くこと、つまりわたしがノエル様に冷たくしなければならないということだった。わたしは最早長年の癖で、彼の顔を見ただけで好きだと言ってしまうのだ。間違いなく不可能だった。
そして悩みに悩んだわたしはお父様のツテを頼り、貴重な制約魔法を使える人物の元を訪れることにした。
「とにかくノエル・アンダーソン様に、好きだと言えないようにして頂きたいのです。あとは彼の前で笑わないようにもお願いしますね。それと後は、とにかく好意を示すような態度を取れないように…うーん、引くためにはもう素っ気ない態度を取るようにしてもらった方が良いのかしらね」
「かしこまりました。期間はどうされますか」
「とりあえず、三ヶ月くらいでお願いします」
そうして魔法使いのお爺様は、わたしの頭の上で聞いたこともない呪文を唱えた。そしてすぐに「はい、終わりです。次の方」と部屋を追い出されてしまった。なんと一年先まで予約でいっぱいなんだとか。無理やり予約を入れてくれたお父様には感謝してもしきれない。
とは言え、何かが変わったような感じはない。それでもわたしの給料の半年分も払ったのだ、効果がないと困る。
ちなみにこの魔法をかけているということは、人には話せないらしい。紙に書いて伝えることすらできない強い魔法なのだという。とにかく、あとはノエル様に会うだけだ。わたしは硬く拳を握りしめたのだった。
◇◇◇
制約魔法をかけて貰ってから、一ヶ月が経った。タイミングが悪く彼は遠征に行っていたようで、ようやく今日、ノエル様が参加するというパーティへわたしはやって来ていた。
会場には既にノエル様の姿はあったものの、彼のいる辺りを通り過ぎて窓際へと向かう。一瞬目が合ったけれど、わたしはそのまま歩き続けた。最早これだけで、いつものわたしからすれば大分「引く」ことができている気がする。
本には引くときは徐々にと書いてあったのだ。とりあえず今回はこれくらいで十分かな、なんて思いながら、シャンパンを片手に知人と他愛無い話をしていた時だった。
「よお、シェリー」
「あら久しぶりね、ウォルト」
「あれ? お前今日はアンダーソン様の所に行かないのか」
「え、ええ。そうよ」
「はあ!? どうしたお前、熱でもあんのか?」
そう言って慌ててわたしの額に手をあてた彼に対し、うるさいわねとその手を振り払う。余計なお世話である。
「わたしにも、そういう時はあるのよ」
「お前、本当にシェリーか? ……まあお前もいい歳だし、いよいよ現実を見たってとこか」
「うるさい、放っておいて」
「もしも売れ残ったら、俺が貰ってやろうか」
「はあ? 何言ってるの。つまらない冗談ね」
「ホントお前は昔からつれねえな」
こうして冷たくあしらっているにもかかわらず、結局ウォルトは知人に呼ばれるまでずっと、わたしの側で下らないことをぺらぺらと話し続けていたのだった。
ようやくウォルトから解放されたわたしは、そろそろ帰ることにした。このパーティ自体に用はないのだ。駆け引きの大きな第一歩を踏み出したことで、わたしは満足感でいっぱいになっていた。
そうして一人、出口までの廊下を歩いていた時だった。
「シェリー!」
聞き間違えるはずのないその声に反射的に振り向けば、こちらへと走ってくるノエル様がいて。急いで追いかけて来たらしく、柔らかな銀髪は少しだけ乱れている。
こんなことは初めてで、もう引いてみる作戦の効果が出ているのかと驚きを隠せない。
心の中ではひどく浮かれきっていたけれど、窓ガラスに映っているわたしの顔は、恐ろしいほどに真顔だった。
「どうして今日は、声をかけてくれなかったんですか?」
「そうしなければいけない決まりなど、ないでしょう。貴方に声をかける気分じゃなかったんです」
驚くほど冷たい声が勝手に口から溢れてきて、わたしは慌てて自分の口元を押さえた。わたしのそんな言葉に、目の前にいたノエル様もひどく驚いたような表情を浮かべている。
思ったよりも強すぎる魔法の効果に、わたしは冷や汗が止まらなかった。これでは引くというより、最早喧嘩を売っているに近い。この調子では好かれる前に嫌われる気がする。
「俺はなにか、君の気に障ることをしましたか」
「いえ、何も」
「……それなら、どうして」
「理由なんてありませんよ」
いつもとは態度の違いすぎるわたしに、ノエル様はかなり戸惑っているようだった。段々とその表情は悲しげな、傷付いたようなものへと変わっていく。
そんな彼の様子を見ていると、胸が張り裂けそうになる。これ以上、ノエル様に冷たい言葉を吐くなど耐えられない。そう思ったわたしは、この場から逃げることにした。
「すみません。馬車を待たせておりますので」
そう言うとわたしは一礼し、くるりと彼に背を向け、急いでその場を後にしたのだった。
◇◇◇
翌日、わたしは昨晩のことを思い出しては、胸の痛みに苦しみ続けていた。わたしなんかがノエル様にあんな顔をさせるなど、万死に値する。けれど今夜も上司の付き合いで、夜会に出席することになっていた。適当に挨拶を済ませてこっそりと帰ろうと思っていた、のに。
完全に気を抜いた装いで参加した先には、なんと昨日会ったばかりのノエル様がいて。こんな小さな夜会に彼がいるとは思わず、固まってしまう。
昨日のように心無い言葉をぶつけてしまうのが怖くて、わたしは彼に背を向けるとすぐに離れた場所へと移動した。ちらりと彼のいる方を見れば、沢山の華やかな女性に囲まれていて、またちくりと胸が痛んだ。
「良ければ僕と、踊って頂けませんか」
「えっ? あっ、はい。喜んで」
一人でぼうっと壁際に立っていると、突然声をかけられて。同い年くらいであろう可愛らしい顔をした男性は、そう返事をすると嬉しそうに微笑んだ。
差し出された手に自身の手をそっと重ね、ホールの中心へ向かう。
「いつも笑顔のあなたをずっと、可愛らしいなと思っていました。けれどアンダーソン様に思いを寄せているのは分かっていたので、諦めていたんです」
「そ、そうなんですか」
「はい、けれど今日は声をかけていなかったのを見て、もしかしたらチャンスなのかと思いまして」
わたしがノエル様を好きだと言うのは、そんなにも有名だったのかと恥ずかしくなる。それと同時に、自分を可愛いと思ってくれている男性がいることにも驚いていた。
音楽に合わせて軽快なステップを踏みながら、男性とこうしてダンスをするのも久しぶりだということに気が付いた。クレイグと名乗った彼は、子爵家の息子らしい。目が合うたびに照れたように笑う彼に、ノエル様の前でのわたしはこんな感じなのだろうかと思ったりもした。
そうしてダンスを終えたあとも彼はわたしの側から離れず、楽しそうに色々な話をしてくれた。とても感じのいい素敵な人だとは思うけれど、やはりノエル様以外の方を男性としてみることはないのだと、改めて思っていた時だった。
「シェリー、君も来ていたんですね」
突然現れたノエル様に、心臓が大きく跳ねる。
昨日あんな態度をとってしまったにもかかわらず、こうして話しかけてくれる優しい彼に泣きたくなる。好きだと叫びたくなるけれど、喉が詰まったように言葉は出てこない。
「良ければ少し、話しませんか」
「すみません、今は彼と話していますので」
ノエル様の方から話をしようと言って下さるなんて、夢のようだった。けれど相変わらずわたしの唇はそんな心ない言葉を紡いでしまう。今すぐにでも泣き出したい気分だった。
流石に嫌われてしまっただろうと、恐る恐る目の前のノエル様を見上げれば、彼の顔からは表情が消えていて。
「……俺を、裏切るんですね」
「えっ?」
それだけ言い、ノエル様はわたしに背を向け歩き出した。
彼のあんな顔を見るのは、初めてだった。間違いなく、怒っている。彼に好きになってもらいたいだけだったのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
遠くなっていく彼の背中を見つめながら、わたしの瞳からはぽろぽろと涙が溢れ出していた。