大切な場所
「……シェリー?」
堪えきれず泣き出してしまったわたしを見て、ノエル様は心配そうな表情を浮かべていた。
初めて聞いた彼の過去はあまりにも辛くて、悲しくて。それと同時に、自分がどれほど彼に想われていたのかを知り、嬉しさと罪悪感とで胸が押し潰されそうになる。
両親に愛されて育ったわたしに、彼の気持ちはわからない。そんな彼に対して掛ける言葉も何ひとつ見つからなかった。思わず小さな声で「ごめんなさい」と呟けば、彼は不思議そうな、困ったような顔をした。
「どうして謝るんですか」
「っわたしの、せいで……」
わたしのせいで、ノエル様は自身の夢を捨てることになってしまったのだ。あの日わたしが彼に、「一生、ノエル様だけです」なんて無責任な言葉を言ってしまったせいで。
……けれどそうしていなければ今頃、彼は別の女性と結婚していたと思うと、良かったと思ってしまう自分が嫌になる。もしも記憶を持ったまま過去に戻ったとしても、わたしは彼に対して同じ言葉を口にしてしまうのだろう。
ノエル様はそんなわたしに向かって、柔らかく微笑んだ。
「君が謝る必要なんてありません。全て俺の都合で、俺が勝手にしたことなんですから」
シェリーは優しいですね、なんて言って頭を撫でてくれるせいで、余計に涙が止まらない。彼は、わたしに甘すぎる。
『一生、君だけです』
そして彼は、わたしがあの日彼に伝えた言葉をくれたのだ。それはどんな言葉よりも、わたしの心に響いていた。
魔法が解けた後、全てを話せば流石の彼も怒るだろう。そうしたら、彼が許してくれるまで何回でも、何十回でも謝って。その倍、彼に好きだと伝えよう。そう心に誓った。
◇◇◇
「シェリーも明日は休みでしたよね? 君さえ良ければ、二人で出かけませんか」
それから数日が経った、ある日の晩。向かい合い夕食をとりながら、ノエル様はそんなお誘いをしてくださった。
……あの後わたしは部屋に籠るのをやめ、今まで通りの生活に戻っていた。職場では、急に休みを貰ってしまったことを皆に謝れば、もっと休んでいてもいいくらいだと言われてしまい、自分はとても恵まれているのだと実感した。
あの数日で少し痩せてしまったせいか、ノエル様はどんなに忙しくとも毎日朝晩は共に食事をとってくれていて、食卓にはわたしの好物ばかり出てくるようになった。本当に、甘やかされすぎている気がする。
魔法が解けるまで、残り1週間と少し。
正直これ以上余計な言動をしないよう、なるべく大人しくしていたい気持ちもあるけれど。わたしがノエル様にデートのお誘いをして頂いて断るなど、出来るはずがなかった。
「勿論、君のことは俺が必ず守ります」
その上、誰よりも素敵な騎士である彼にそんな胸ときめくセリフまで言われてしまっては、頷くよりほかはない。
何度もその言葉を頭の中で繰り返しているうちに胸がいっぱいになり、それからはほとんど食べ物が喉を通らず、再び心配をかけてしまったのだった。
そして当日。わたしは気合を入れて目いっぱいお洒落をし、ノエル様と共に馬車へと乗り込んだ。今日の彼も、絵本から飛び出してきた王子様のように麗しい。
それからは宛もなく街中を歩いてみたり、流行りの舞台を見たり。まるで普通の恋人のようなデートに、わたしはこんなにも幸せなことがあっていいのかと、浮かれきっていた。
人気のレストランでランチをし、午後からはゆっくりと買い物をして楽しんだ。相変わらず素っ気ない態度しか取れないけれど、彼も楽しそうにしてくれていて嬉しくなる。
「先日、君に似合いそうなものを見つけたんです」
そうしてノエル様に連れられて着いたのは、流行りの高級アクセサリーを取り扱うお店だった。
辺りを見回せば、驚くような値段の物ばかりで。こんなところにわたしに似合う物が本当にあるのかと冷や汗をかきながらも、慣れたように店内を歩く彼に着いていく。
「思った通り、よく似合っています」
「……そうでしょうか」
鏡に映る真顔のわたしの首元には、美しいアメジストのネックレスが輝いている。どう見てもわたしに不釣り合いなそれは、ノエル様の瞳にとても良く似ていた。
彼は満足気に微笑むと、すぐに購入を決めてしまって。こんな高価なものは受け取れないと何度言っても、彼は俺が着けていて欲しいんですと言って聞かない。
結局買って頂いてしまい、肌身離さず着け家宝にしようと決めた。浮かれすぎて今なら空も飛べる気がする。
やがて店の外へ出ると、空は既に赤く染まり始めていた。そろそろ屋敷へと戻る時間かと寂しく思っていると、不意にノエル様はわたしの手をとり、微笑んだ。
「あと一箇所だけ、行きたいところがあるんです」
「どこでしょうか」
「俺の大切な場所ですよ」
……ノエル様の、大切な場所。それが一体どこなのか見当もつかなかったけれど、そんな場所へとわたしを連れて行って貰えることが、何よりも嬉しい。
そうして手を引かれ辿り着いたのは、小道を抜けた先にある小さな丘だった。ゆっくりと二人手を繋いだまま登っていく。やがて頂上へ辿り着いたわたしは、思わず息を呑んだ。
「綺麗……」
「とても綺麗な夕焼けでしょう」
そう言って微笑むノエル様の向こう側には、息を飲むほどに美しい、色鮮やかな茜色の空が広がっていた。
「……辛い時はいつも、ここに来ていました」
彼は懐かしげに瞳を細めながら、空を見上げる。
その横顔は幻想的な景色と相まって、この世のものとは思えないほどの美しさだった。
「辛いことがあって逃げ出したくなっても、ここへ来てこの空を見られた日には、まだ頑張れる気がしたんです」
……わたしは、知らないのだ。
彼が騎士団に入った当初は、貴族の息子だから特別扱いされていると周りからの風当たりが強かったことも、いくら魔力が強くとも日頃鍛えていたわけでもない彼が、いきなり訓練について行けるはずもなく、辛い思いをしたことも。
「ここから見える景色は全て、君の色ですから。君との未来を想えば、どんな事でも耐えられました」
──彼にはわたしの瞳が、こんなにも美しく色鮮やかな茜色に見えているのだろうか。
照れたように笑うノエル様を前に、わたしは自分が彼の支えになっていたことや、どれほど愛されていたのかを改めて知り、今すぐにでも泣き出したい衝動に駆られていた。
そしてそんなわたしに彼は、「愛しています、シェリー」と今日も変わらず、愛を囁いてくれたのだった。
◇◇◇
「こうしてたまに街中を通るのも、賑やかでいいですね。ノエルは良く此処へ来るのですか?」
「人混みは苦手なので、たまに来る程度です」
馬車の窓から外を眺めながら、大神官であるルーファス様は小さく笑みを浮かべた。
今日は隣町へと移動する彼の護衛に当たっている。移動の最中、たまには誰かと話をしながら街中を見たいという言葉を受け、俺は彼と共に馬車に揺られていた。
何故か俺はルーファス様に気に入られているようで、こうして護衛に指名されることも少なくない。
そうして俺も何気なく窓の外を眺めていると、人混みの中にシェリーの姿を見つけた。彼女は先日職場で一緒にいた同僚の女性と、楽しそうに何かを喋りながら歩いている。毎日顔を合わせているはずなのに、こうして偶然少し見かけただけでも嬉しくなってしまう。
あまりにじっと彼女を見つめていたせいだろう、知り合いですか? と聞かれてしまって。婚約者ですと答えれば、彼もまたシェリーへと視線を向けた。
「とても綺麗な色をしています、素敵な方なんでしょう」
「はい、誰よりも素敵な人ですよ」
「ノエルもそんな顔をするのですね」
ルーファス様の眼は、特別だ。何もかもを見通す瞳を持っているからこそ、彼は今の地位にいる。魔法やその人間の特性が、色となって見えているのだという。
「ねえ、ノエル。君の婚約者は何故、制約魔法なんてかけているのですか?」
「……制約魔法、ですか?」
「ええ。それもかなり強力なものを」
彼が言うのだから、間違いないのだろう。けれど彼女からはそんな話、一度も聞いたことがなかった。
一方的に誰かに掛けられたのではと思ったけれど、ルーファス様曰く、あの色は同意の上に掛けられたものだと教えてくれた。だからこそ、余計に強力なものだとも。
……シェリーが何故、そんな魔法を?
なんだか嫌な予感がしつつも、とにかく今日仕事を終えて帰宅したら彼女に直接聞いてみよう。そう思っていたのに。
その日、シェリーは俺の前から姿を消した。