思いがけない嘘
ぽかんとしているウォルトを後目に、ノエル様に腕を引かれ早足で歩いていく。やがて人気のない廊下へと出ると、わたしはあっという間にノエル様と壁の間に挟まれていた。
気が付けばわたしの顔の横には、彼の手があって。鼻先が触れてしまいそうなくらいに、顔と顔が近い。
「……本当に、頭がおかしくなりそうだ」
そう呟くと、ノエル様は硬直しているわたしの肩に顔を埋めた。柔らかな銀髪が首筋に当たり、くすぐったくなる。彼からは驚くほど良い香りがして、頭がクラクラした。
一体、これは何のご褒美なんだろうか。わたしの心臓はとうに限界を超えており、悲鳴を上げ続けている。
「……君が俺を好きでも嫌いでも関係ないなんて、嘘です。そう思いたかっただけなんだと、たった今思い知りました」
そう言ったノエル様の声は少しだけ震えていて。浮かれていたわたしは一瞬にして、冷静になっていた。
「俺が悪いのはわかっているんです。君に甘えて安心しきっていた、俺が悪い。もっと出来ることはあったはずなのに」
……ノエル様は、何を言っているのだろう。彼に悪い所など一切ない。彼に嫌なことをされたことなど無いし、むしろずっと良くして頂いていた記憶しかない。
悪いのはむしろ、馬鹿なことをして彼を傷つけてしまっているわたしの方だ。だからこそ、ノエル様が何故そんなにも自分を責めているのか分からなかった。
やがて彼は顔を上げると、縋るような瞳でわたしを見た。
「それでも、もう一度君に笑いかけてもらいたい、好きになって貰いたいと思ってしまうんです」
その切実な声に、言葉に。彼にそんなことを言わせてしまっている自分の愚かさに、心の底から泣きたくなる。
「また君に好きになって貰えるよう、努力します。勿論、すぐにとは言いません。けれどせめて、俺の前で他の男に笑顔を向けないでください。流石に、耐えられそうにない」
ノエル様がわたしなんかの為にここまで言ってくださるなんて、信じられなかった。それと同時に、自分は本当に彼に愛されているのだと思い知らされていた。
「わかりました」という言葉が口から溢れると、ノエル様はひどく安心したような表情を浮かべていた。
「……もうひとつだけ、お願いしてもいいですか」
「なんでしょう」
「チャンスをくれませんか?」
「チャンス、ですか」
「はい。君に好きになって貰えるように、頑張る機会です」
「勝手にしてください」
そんな冷ややかな返事に対しても、彼は「ありがとうございます」と礼を言い、嬉しそうに微笑んでいたのだった。
◇◇◇
それから二日後の朝。慌ただしく駆け回る使用人達を見つめながら、あっという間に空っぽになっていく自室の真ん中で、わたしは呆然と立ち尽くしていた。
「……好きになって貰えるように、頑張る機会」
ぽつりとそう呟けば、先程から誰よりも忙しそうにしているダリアは、沢山のわたしのドレスを抱えたまま「何か仰いましたか?」とこちらを向いた。
「い、いえ、何でもないの。ごめんなさい」
「何か忘れている物があれば、仰ってくださいね」
「そう、ね……」
ぎこちない返事しかできないわたしは、何故こんなことになってしまったのだろうかと、頭を悩ませていた。
そもそもは今朝、「お嬢様、お嬢様!」と鬼気迫る勢いのメイド長に起こされたことから始まった。せっかくの休日だと言うのに、何事かとまだ重たい瞼を擦りながら起き上がれば、「なぜノエル様と一緒に住むお話を今まで黙っていたのですか! こんなにも急では困ります」と怒られたのだ。
ノエル様と一緒に住む話、という言葉が鼓膜に届いた瞬間、眠気など一瞬にして吹き飛んでいた。何故黙っていたのかと言われたけれど、わたし自身が初耳だからである。
どうやらわたしは、今日からアンダーソン伯爵家で暮らすことになったらしい。
……わたしの口は「勝手にしてください」と言った。確かに言ってしまったけれど。まさかまだ結婚もしていないのに一緒に住むと言い出すなど、想像もしていなかった。
両親はわたしの同意があること、とっくに成人しているいい歳だということ、あとはそれっぽい理由でうまく丸め込まれたらしく、ノエル様に失礼のないようにしなさいと、きつく言われてしまう始末だった。
昨日感じた罪悪感や、まだ続く制約魔法への恐怖は大きい。けれど愚かなわたしは、ノエル様と同じ屋根の下に暮らせるという事実に、湧き上がってくる喜びを隠せずにいた。
休みの日なんて、朝から晩までノエル様を見つめていられるかもしれない。当たり前のように日に何度も一緒に食事をとることだって出来るかもしれないし、もしかしたらお風呂上がりのノエル様を見られる可能性だってあるのだ。
そしてパジャマ姿のノエル様を想像したあたりで、わたしは最早立っていることすら出来なくなっていた。
結局、午前中のうちに荷物とわたし自身は馬車に押し込まれ、アンダーソン伯爵家へと出発してしまったのだった。