第八章 開かれた扉
1
午前8時。理奈の部屋にアラームが鳴り響く。目覚ましを止めようと何時もの様に頭の上に手を伸ばすが、そこに時計は置かれていない。
?。 ……あ、そっか。
直ぐに止めてまた眠ってしまわないように、昨夜、ベッドよりも離れた机の上に時計を置いた事を、朦朧とした頭で思い出した。そうしておけば時計を止める為には態々歩かなければならないので、さすがに二度寝をする事は無いだろうと考えての事だった。だが、実際に机まで歩いて時計を止めるのは面倒で、中々布団から出る気にはなれなかった。枕に顔を俯せて眠気と戦っていると、そのうち時計の方が根負けをしてアラームが止まってしまった。
「………」
数分して渋々顔を上げ、一時停止している。
あ、そっか…映画。
仰向けになり両手を挙げて大きく伸びをするとやっと起き上がった。
アラームが鳴り止んでから既に12分が経過していた。
カーテンを開けると、今にも雨が降り出しそうな、重々しい曇り空だ。
「えーーーーーっ!」
天候に影響され、理奈の気分も一気に曇ってしまった。
布団から出ると寒くて、猫背になりながらも、とろとろと支度にかかる。
なんでこうなっちゃうの? 久々にハルと遊ぶのを楽しみにしてたのに、なんでこんな天気なわけ? …日頃の行いのせい? だとしたら責任はハルにあるな。まさか雨が降ったりなんてしないでしょうね? そうなったら最悪! せっかく可愛くキメて行こうと思ってるのに、服が汚れちゃうじゃん。
眉間に皺を寄せて、そんな事を考えながら階段を下りて行った。
2
「お待たせ」
「おう、行こっか」
態々迎えに来てくれたのを外で待たせるのは忍びないと、理奈の母が招き入れ、悠にリビングで待ってもらっていた。
「おばさん、ありがと」
言って、理奈の母が出してくれたお茶請けのピーナッツチョコレートを一つ口に放り込み、悠は軽く手を挙げた。
「楽しんでおいで」
「はーい」
二人は声を合わせて返事をし、家を出た。
悠が先に歩き出し、慌てて理奈もその後を追う。悠の横に並び、顔を覗き込む様にして嬉しげに話し出した。
「今日、寒いね」
「あぁ」
「今年は寒くなるのが早いよね」
「あぁ」
「もう冬って感じだよね」
「あぁ」
「冬服とか出してる?」
「ぼちぼち」
「冬って重ね着できるから楽しいよね」
「そう?」
「フワフワしたのとか着たくならない?」
「………?」
理奈の話しに素っ気無く返事をしていた悠が足を止めた。それに合わせて理奈も足を止める。
今日は何時もの理奈と何かが違う。機嫌良く理奈の方から話し掛けてきたし、何時もは、こんなどうでもいいような話を長々と話題にはしない。それに昨日までの苛々モードが嘘のように消えている。悠は何かあると察した。
右手を軽く握り口元へ持って行く。理奈の態度を疑って、まじまじと顔を見た。
やだ、ハルったら…。もしかしてあたしに見惚れてる? スカート姿で何時もと雰囲気が違うからって、そんなに真剣な顔して見られたら、あたしだって恥ずかしい。
理奈は柄にも無く、両手を後ろに回し、脚をクロスして見せた。
今迄、悠が女の子ウケする事に気付かなかった理奈は、悠はモテて、自分だけ男の子に縁が無いという事が悔しくて、自分もその気になれば、その辺の女の子には負けていないのだという事を悠に見せておきたくて、悠への対抗心から、今日は何時もと違う可愛らしい服装をしていた。
理奈の考える可愛らしい服装というのはスカートを履いている事で、例えば好きな人に会う時だとか、大好きなアイドルのコンサートに行く等といった気合の入っている時で、大概はデニムといった動きやすい格好をしていた。
だから普段、友達と映画を観に行く程度なら、Tシャツにデニム、スニーカーで済ませるのだが、今日は丸襟の白いブラウスに胸元にピンクのアーガイルの模様が入っているチャコールブラウンのセーターを重ね着して、ボトムスはライトグレーの地にピンクのチェックで膝下丈のボックスプリーツスカート、チャコールグレーの靴下は両サイドにセーターのアーガイルと合わせたポイントがあしらってあり、チョコレート色のストラップシューズといった格好。それにラインストーンでキラキラ光る星のチャームを付けた、キャラクターが描いてある黒い小さなトートバッグを持っていた。
『こうやって改めて見ると、理奈って可愛いじゃん』なんて思ってるんじゃない?
フフフ……。
そういう事は恥ずかしがらずに素直に口にして良いのよ。さぁ、言ってごらん。『今日の理奈は可愛いね』って!
理奈は信じてその言葉を待った。そんな理奈とは反して、悠は不審を抱いていた。
ぶ、不気味だ…。なんだか知らないけど顔が笑ってる。この天気だ、もしかしたら雷が落ちて来るかもな。
悠は何時もの理奈と態度が違う事には気づいていたが、残念ながら理奈の服装の変化には全く関心を持っていなかった。
理奈にとっては気合を入れた服装でも、世の女の子にしてみれば粗だからだ。
だが理奈は悠が恥ずかしくて何も言えないのだと勝手に解釈し、その言葉を諦め、再び歩き出す。
「でも、ハルのそのパーカも可愛いよ」
と、唐突に珍しく悠を褒めた。
ちなみに悠はシンプルな空色のパーカを着ている。
「?」
あ、そっか…。そういう事?
何の脈絡も無い理奈のその一言で、今日の理奈が何故機嫌が良いのか、悠には謎が解けた。
「理奈には負けるよ」
悠は気を利かせて、理奈に話を合わせてあげる。
「やっぱり?」
理奈は今にもワルツを踊り出しそうな足取りで、悠の周りをクルクルと嬉しそうに回った。
幼い頃からの長い付き合い、理奈の扱いに慣れている悠の方が、一枚上手だった。
単純…。でも、スカートを履いて見せて喜んでるなんて、理奈は子供だな。下ろし立てなのか? それか、他に見せる相手がいないから、それではしゃいでるのかも。可哀相に…。まだ青春を知らないのか。もう18歳なのに…。
悠は勝手な思い込みで理奈を憐れんだ。
お互い相手の心情を履き違えているにも拘わらず、何故か会話が成立している事が不思議だ。
「なんか心境の変化でもあった?」
「え?」
「違うの?」
「………」
普段と違う行動を取るのには何か意味があるのかと考えた悠。だが、実際には心境の変化など無く、只の悠への対抗心からきているものであり、それを正直に言ってしまうと、発想が子供っぽいと馬鹿にされるに違いない。(実際には勝手な憶測から既に馬鹿にされているのだが)口が裂けても本当の動機は言えない。そこでなんとか他の言い訳をしなければと考えを巡らせる。それで昨夜考えていた事を思い出した。
「…心境の変化って程のものじゃないけど…、自分がすべき行動が一つ決まったかな…って」
「何?」
悠は疑わず理奈の言葉に耳を傾ける。
「武田の事…。やっぱり断ろうと思って。お互いの気持ちを考えると、そうする事がいいかな…て」
「ふーん」
「あたしはハ…、」
言おうとして口を接ぐんだ。
「?」
話の途中で言葉を切ったので、どうしたのかと悠は理奈の顔を窺った。
理奈の言葉の続きはこうだった。
『あたしはハルと違って、みんなに良い顔はしないからね』
だが、せっかくの休校日、せっかく久々に悠と過ごす休日、せっかく服装をキメてきたのに、こんな売り言葉を吐いてしまうのは良くないと、思い留まった。
今日くらいは気分の良い一日でいたいし、ハルとは休戦だな。
「なんでもない。今日は仲良くしようね」
言って理奈は、悠の右腕に自分の左腕を絡め、頭を悠の肩に押し付けて戯けて見せた。
「はい?」
普段なら絶対に考えられない行動に、何か裏があるのではないかと (例えば何か強請られるとか) 疑ったが、仲良くするのに越した事はないので、悠もそれ以上は敢えて追及しない事にした。
3
裕弥は大学の講義が午前だけだったので、昼食を取らずにそのまま帰宅する所だった。門を出て欅の並木道を下って行くと、コンビニの前で立ち止まっている人物と目が合った。
「………」
一瞬にして気不味い空気が漂う。
「あ…元気?」
先に声を掛けてきたのは相手の方だった。久々にその声を耳にし、仕舞っていた想いが甦ると共に、切なさが込み上げてくる。
声を掛けられて無視をする訳にもゆかず、裕弥は少し距離を置いて足を止めた。
「今日、お昼までなんだ? あたしも…。それで今、友達を待ってたんだけど…」
彼女は目を合わさず、俯いて静かに微笑んだ。
裕弥は不可思議な感覚に捉われた。こうして距離を取って向き合い俯いている彼女の顔を見ていると、つい今し方まで当時の感情が溢れ出していたのに、既にその想いがスッと退き、客観している自身に気づく。
辛く苦しい想いを必死に忘れようと悩んでいた日々を遠く感じ、意外にも冷静に彼女を見つめる事が出来る。そこに時間の流れを感じていた。だからといって開き直れる程、彼女との心の距離を完全に修復が出来ている訳でもなく、どう接したら良いのか戸惑っていた。
「元気だった?」
裕弥に訊かれ、少し驚いたように彼女は顔を上げる。
「あ、うん。あたしは相変わらずで、…裕くんも元気そう」
「あぁ…。…… 」
裕弥は襟足を撫で、視線を伏せた。
交わす言葉が見つからず、触れてはいけない場所を避けながら、お互いに何か話題を探しているようだった。
彼女の髪は明るい色のストレートで、肩に掛かる程のセミロング。前髪は左から分けられ、キラキラ光るピンク色のカットガラスで出来た小さな花が一つ付いているヘアピンで止められている。手入れの行き届いた眉は緩やかな曲線を描き、長い睫毛、幅の広いはっきりとした二重瞼で、おっとりとした印象を受ける眼。ぽってりとした唇には自然な色のピンクベージュの口紅が塗られており、ふっくらとした白い頬は玉子形の輪郭を作る。
赤色のVネックのリブニットを着て、その上にブラウンのジャケットを羽織り、ウエストに大きなリボンの付いた膝丈のピンクベージュのフレアスカートを履いて、足元は踵の低いダークブラウンのラウンドトゥパンプス。ライトグレーの地に持ち手や底がネイビーのキャンバストートバッグを肩に掛けている。
一見、大人しい印象を受けるこの女性の名は泉澤里美。彼女は以前、裕弥が交際していた相手だ。今迄何度か遠くから見掛ける事はあったが、こうして目の前にして話をするのは、別れてから初めての事だ。
この重苦しい空気に思い悩んでいると、タイミング良く彼女の友人が手を振りながら走って来た。裕弥は、きっとこの友人が空気を換えてくれる事だろうと期待した。
「お待たせ! あれ? あ…、あっ、いいよ、あたし邪魔しないから。二人で一緒に帰りなよ。じゃあね!」
と、気風の良い口調の彼女は救いの手を差し伸べるどころか、気を利かせたつもりか二人を残して足早に去ってしまった。
「………」
どうしたら良いものか、お互いがばつが悪そうに顔を見合わせていた。それで居た堪れなく感じ、自ら空気を換える為、裕弥が口を開く。
「じゃあ、ごはん食べに行く?」
そう誘われると、彼女は再び驚いた表情をしたが、次に軽く頷き明るく笑った。
4
カフェに入り、通りの見える窓側の席に向かい合って座り、昼食を終えた二人はお茶を飲んでいた。お互いに他愛も無い話題を一頻り終えた所で会話が途絶えてしまった。その沈黙を埋める為に、二人はお茶を口にする。レモンティーの入ったマグカップを持つ里美の右手に裕弥の視線が止まる。その右手の薬指には、3つの小さなハートが並んだシルバーリングが輝いていた。
数ヶ月前までは、そこに自分がプレゼントをしたリングが嵌められていた事を裕弥は思い出し、里美のリングにそれを重ねて見ていた。
それは、ブラウンマーブルが少し入り交じった、透明な樹脂で作られたリングで、中央にはピンクゴールドのハートに小さなスワロフスキーガラスが鏤められたパヴェが載せてあった。交際を始めて二ヶ月が経った頃、里美と一緒に選んでプレゼントした物だ。
そんな里美と過ごした日々を思い出していると、裕弥の脳裏にどうしてもあの事が浮かんでくる。
いっその事、封印していた扉を開いて、中に閉じ込めていた想いをぶちまけてしまおうか?
だが、そんな事をして平常心を保っていられるだろうか。一度傷を負った心の穴が、これ以上深く広がってしまったらどうしよう。それどころか女性に対して曲折心を抱いてしまうかもしれない。そう考えると、その扉を開く自信が無かった。
恋愛をする都度その扉の前に立ち止まってしまうのか。
このままその傷を意識しながら過ごして行くのも非常に辛い。この蟠りをここで処置すべきなのか、裕弥の心は揺れていた。
不図、手元にあるマグカップを見下ろす。中には温かい烏龍茶が入っており、そこに裕弥の顔と共に心情も映し出されていた。
その暗い表情を目にして、強い自己嫌悪を感じた。
こうして二人が会話をする機会を得たのだ。ならば今、扉を開く時が来たのではないだろうか? もう苦い想いを抱えなくても良いのではないかと考え、裕弥は決心した。扉を開いてドロドロした汚い気持ちは綺麗さっぱり洗い流してしまおうと。
そして、その核心に触れる。
「…その後どう? …奴とは?」
裕弥の言葉に、里美は驚き大きく目を見開く。そして表情が曇り、両手で包んでいたマグカップに視線を落とした。裕弥もつられてその視線を追う。カップの縁に口紅の淡いピンク色が付着しているのを、右の親指で拭いながら里美はゆっくりと話し出す。
「…最近、あまり会ってなくて。友達と騒いでる方が楽しいみたい」
彼は里美のいるスポーツ観戦やライブ観覧をするサークルの他に、旅行プランを立てるサークルにも入っていた。最近はその旅行プランサークルに頻繁に顔を出していて、そのサークルでの旅費を稼ぐ為にアルバイトに精を出しているので会う機会が少なくなっているとの事。
眉を顰める里美の眼に哀思の光が広がる。
裕弥はそのまま黙っていた。
彼女が心変わりした相手を、同じサークルにいた裕弥は当然知っていた。確かにいつも男同士で合コンだのプロレスだのと馬鹿騒ぎしていて、こまめに彼女に尽くすタイプとは思えなかった。里美との交際は三ヶ月が過ぎており、二人の仲が安定して気が抜けてきているのであろう。それでまた友達の所へ足が向くのも想像できた。
「…今になって、こんな事を話すのはどうかと思うかもしれないけど、裕くんの気持ちも考えないで、あの時は自分の気持ちを伝える事にしか気が回らなかった。だけどもっと、きちんと話し合うべきだったって反省してる。それにもっと言い方があった気がするし。ただ、好きな人が出来たから別れて欲しい、なんて…」
その聞き覚えのある言葉によって、裕弥の心臓は強く握られたかのようで、切ない痛みが広がった。そしてその情景が甦る。
それは突然の事だった。ある日、話したい事があるので大学の裏庭に来て欲しいと呼び出され『あたし…裕くんを嫌いになったわけじゃないの。でも好きな人がいて…だから別れて欲しいの』そう言われ、ショックで何も言えなかった。そして里美は翌日から、裕弥を避けて姿を見せなくなった。どうしてそんな急に別れが訪れる事になったのか、問い詰めて引き止める事も出来たのだろうが、裕弥にはそんな勇気は無かった。そんな事をしても自分が傷付いて、惨めになるだけだと思えたからだ。それでそのまま、その想いは封印してしまったのだった。
裕弥のカップを持つ両手に念わず力が入る。そんな裕弥の様子には気づかず、里美は話を続けた。
「あの時、あたしは教習所に通っていて、雨が降っていたある日、歩道を通っていると、前から来た自転車と擦れ違いざまに傘がぶつかり、落としそうになったのを両手で掴むと、持っていた教習所の本を落としてしまって。そしたら横を通る車の水飛沫で本がびしょ濡れになったの。もう最悪でしょ?」
里美はその場面を思い浮かべて、鼻先に指を添えクスッと笑う。
「そこへ同じ教習所に通っていたあの人が通りかかって『あー、泥まみれじゃん』って、本を拾って言って。見ると本当に泥水で汚れてて、その言葉に泣きそうになってしまって…。そんなあたしに気づいて『オレ、教科書とかマジメに見ないし、交換してやるよ』って、自分の持っていた本をあたしにくれたの。その日から後も泥水で汚くなってた教科書をずっと使っていたのを見て、悪い事しちゃったな…って、でもその優しさが嬉しかった。
それから彼の事が気になり始めて…。裕くんの事を嫌いになったわけじゃなかったけど、でも裕くんと付き合いながらも、他の人の事を考えるのはいけない事だと思って、そんな気持ちで付き合っていたくは無かったし、だから別れて欲しいって言ったの。今更だけど、きちんと話さなくてごめんね」
そう言って、裕弥の目を真っ直ぐ見つめた。それは今話した事が作られた嘘では無く、真実だという事を示していた。
裕弥は今迄、相手と親密な関係になり、比べられ、その結果自分が見限られたのだと思っていた。だが今の話からするとそうでは無く、一方的に里美の中で相手の存在が大きくなり、その状況に耐えられなくなって別れを切り出したようだ。
里美の交際相手と裕弥は全く違うタイプだ。だから相手と比べられて捨てられたのなら、自分がつまらない人間だと言われた気がして、それで傷付き、彼女の事を避けていた。今、真相が明らかになり、裕弥は幾分里美に対する過去に句点が付く気がした。
感じる事は、その時に欲しくて手に入れ、大切にしていた物でも、時間が経過し、その物に対しての執着心が薄れ、新たな物を求めるという、物欲が湧き起こるのではないかと。それは誰もが備え持っている感情であって、裕弥も理解出来ない訳では無かった。
高校時代に二年間交際していた彼女がいた。付き合い始めた頃は、一時も離れたくない程お互いを必要としていたが、半年を過ぎる頃にはその感情も安定し、一年以上ともなれば、当初と比較すると、情熱も薄れて行く。そして高校を卒業し、彼女は英文科の短期大学へ、裕弥は今の大学へと進学し、其々別々の時間を過ごすと同時に気持ちの擦れ違いも多くなり、どちらが原因というわけでもなく、その恋は終わりを迎えた。
形は違うが、一年間交際していた里美との仲も、時間の経過と共に慣れが生じた末の結果だったのだろうか。
話を終えて、裕弥は別れ話の時に理由を聞かなくて良かったと感じた。あの時にこの話しを聞いていたら、嫉妬で逆上していたかもしれない。だが時間が経った今では、里美に起こった一つの出来事として聞く事が出来た。
裕弥は烏龍茶を口に運ぶ。温かいお茶が喉を通り体を解すと共に、心に痞えていた蟠りも解けて行く様な気がした。そしてゆっくりとテーブルの上にカップを置く僅かな間に気持ちを静めた。
「話を聞けて良かったよ」
口調は落ち着いていて、そこには先程の暗い表情は無く、口元に笑みさえも零れる。過去のドロドロとした感情は形を崩し、本来あるべき姿へ戻ろうとしていた。
そんな裕弥を目にし、裕弥に対しての罪悪感も、僅かながらに軽減される様な気がして、里美の表情も解れていった。
5
「見て、カワイイよ!」
理奈は指差して店頭のディスプレイに近づく。カントリー調の温かい雰囲気の雑貨店だ。
映画を観終わり、昼食も済ませ、二人は時間を持て余してショップを見て回っていた。嬉しそうにディスプレイを見つめる理奈を横目に悠が近づいてくる。
「これ本物? 食えるのかな?」
悠は小さな南瓜を手にし、重さを確かめる様に、片手で何度か軽く跳ね上げ、手から浮かせた。
ハロウィンが間近という事で、街はハロウィングッズで溢れていた。このお店では店頭に麦の穂のリースが飾られており、そのリースに重なる様にしてリンゴ程の大きさしかない、小さなオレンジ色の南瓜が一盛置かれ、その両脇にそれとは異なる、緑色で二色の縦縞の物や、苦瓜のようにゴツゴツとした表面の山吹色した南瓜が、麦の穂を座布団に疎らに転がっている。
「もう、どうしてそういう事しか言えないの?」
無粋な悠に不満を感じる理奈。無視をする様に店内へと入って行く。それを目にして失敗したと顔を歪めて、首を擦りながら理奈の後に続く悠。
店内には、フルーツの香りがするアロマキャンドルや、キラキラした硝子のキャンドルホルダー、シンプルなマグカップに、多種類の紅茶など、その他にも雑貨好きの理奈には、見ているだけでも充分に楽しめる物ばかりが並べられていた。そして籠に入ったキーホルダーに目が止まる。
「見て、これカワイイっ‼」
理奈はその中の一つを掴み悠の目の前に差し出して見せる。悠はそれをマジマジと眺めた。
それは眼球の中心にターコイズブルーの点があり、驚いた様に目を見開いている。口は裂けそうな程三日月形に開き、歯を食いしばり、鼻は無くて、一見意地悪な顔に見える。耳は三角の猫耳で、顔の周りにはライオンの様な鬣らしきものがある。体はてるてる坊主の様に巾着形で、全体は僅かに青く見える透明色。そのフィギュアにホルダーの金具が付いていた。
「なんだコレ?」
悠は持っているキーホルダーを指でつついて、クルクルと回した。
「んー…なんだろう? ハロウィンだからお化け??」
首を傾げながら、そう答える理奈。
「確かに。化けモン以外の何者でもねーな。こんなのが可愛いのか?」
「カワイイじゃん! 見てて飽きないじゃん!」
「んーー?? ……… 」
鼻の下に指を押し付け、悠は眉を顰める。
初めはこれの何処が可愛いのか理解に苦しんだが、理奈に感化されたのか、よくよく見ている内に不思議な事に、悠もこの得体の知れない物に愛嬌を感じ始めた。
「意外と、そうかも」
「でしょ?」
嬉しそうにキーホルダーを見ている理奈に、何故だか奉仕精神が湧き起こる。
「買ってあげようか?」
「うぇっ⁉」
悠から思いもよらぬ言葉を聞き、理奈は驚いて悠に向き直った。
「何? どうした? 急に」
「?。別に」
「だって、いつもはそんな事言ったりしないじゃん。変だよ」
「…気に入ったから。オレも買おうと思って」
え? じゃあ、ハルとお揃い?
少し不満に思ったが、自分が損する訳でも無く、こういう時は人の厚意は素直に受けるべきだと思い直し、その気になった。
「それでは、お言葉に甘えて…」
言って、理奈は悠に向かって丁寧にお辞儀をする。
「どうぞ、御遠慮無く」
それを受けて、悠も深々と頭を下げた。
店内での二人の姿に、他の客が視線を向けている。
悠は言葉通り、そのキーホルダーを理奈にプレゼントしてあげ、お店を出ると理奈は早速それに鍵を付け替えた。
「ハル、ありがとね!」
「ん、」
理奈に礼を言われ、悠は短く返事をし、照れ隠しに態と無表情で視線を逸らした。
「あと、他にも行きたい所があるんだよね」
「オレも、スニーカーが見たいんだけど」
二人が次に行く場所を話していると、前方から向かって来た人物がこちらに気づき、声を掛けてきた。
「理奈ちゃん、デート?」
聞き覚えのある声に理奈は視線を向けた。念わず呼吸をする事も忘れてしまう程、理奈は驚き目を見開いた。心臓は締め付けられる様に痛み、途端に速く脈打つ。
そこには裕弥が立っていて、その隣には可愛らしい女性を連れていたからだ。ショックのあまり声も出ない。理奈は只そこに立ち竦んだ。
そんな理奈の様子に気づき、悠が代わりに答えた。
「あ、違います」
「?。今日は寒いから遅くなって風邪を引かないようにね。じゃあ、またね」
裕弥は優しく言って、軽く手を挙げ横を通り過ぎて行く。その直ぐ後ろを彼女が着いて行き、擦れ違いざまに理奈に軽く会釈をして微笑んだ。
胸が苦しくて、理奈は震える両手で胸元を押さえながらその場に屈み込んだ。疑心と嫉妬心とが入り混じり、理奈の胸に暗い影を落とす。その重さに耐えかねて、吐き気さえも感じてしまう程だった。裕弥の隣にいた女性の顔が頭から離れなくて、裕弥にとってどんな存在なのか気になって仕方が無い。
「おい、どうしたんだよ? 大丈夫か?」
一変した理奈の様子を心配して、悠が顔を覗き込み声を掛けるが、ショックを受けている理奈には、その声も届いていなかった。
どうして? 彼女はいないって言ってたのに…! ……とても素敵な感じで麻生さんともお似合いだった。あの人は麻生さんの今好きな人なの…?
あたしはこんなにも不安になっているのに、麻生さんはあたしが男の子と一緒にいても全く気にも止めていない感じだった。それって、あたしに関心が無いって事だよね…。
せっかく頑張ってみようと決心が着いたのに、こんなのってないよ…!
理奈は涙が浮かびそうになるのを必死に堪えて、力無く歩き出した。そんな理奈の姿を見て声を掛ける事が出来ず、後を黙って着いて行く悠。
沈黙はその後も続き、軈て二人は家の近くの公園まで帰って来た。
理奈がどうしてこんなに落胆しているのか、何も訊かなくても悠には大体予想がついた。雑貨店を出てから、表情を無くし何も話さなくなった理奈をこのまま独りで返しても良いものかと迷ったが、自分が附いていた所で理奈にしてやれる事がある訳でもないし、そのままそっとしておいた方が良いだろうと考えた。
そして二つに別れた道を、理奈が左へ歩いて行くのを見送った後、悠は右の道へと進み、其々の家路を辿るのだった。
その頭上には陽を遮り、天を覆い尽くした重厚な雲が、今朝にも増して色濃く濁り、灰が降り落ちそうな程不気味な空に、幾重にも広がっていた。