第七章 冠絶の誤算
1
早朝、空はまだ薄暗く、白い月がくっきりと浮かび上がって見える。
吐く息は微かに白く、空気は肌寒く感じられた。数分もすると空気に触れた肌は次第に感覚が鈍くなり、冷たくなった指先を交互に掌で包み込む。両手で頬を覆うつもりで手を挙げると同時に、頭の上に掛けていたゴーグルから電子音が聞こえてきた。
ゴーグルを顔に掛け直し、縁のボタンを押す。
《仕事だ。データを送信する》
低く嗄れた声の持ち主は、ディスポーザーに指示を与える高齢の指揮官だ。a2のゴーグルのレンズに新たな個人資料が映し出される。
《前件の報告がまだだが、どうした?》
送られてきた資料をレンズに登録しながら、僅かに苦痛に顔を歪ませ、重たげに口を開いた。
「…まだ、本人が選択出来ないでいるので」
《なにっ! まだ始末してないというのか? 何をしてるんだ、状況が変化してしまう前に、早く答えを出させるんだ!》
苛立たしく声を上げ、急き立てる。
「今日にでも決断されると思いますが…」
この数日間の理奈の生活から察すると、答えが出されるとは考えられなかったが、短期間で仕事を片付けられなかった自分の責任も大きい。極力問題視されない為にそう答えた。
《いいだろう。では、今回の件と並行してやってくれ。速やかにだ》
「はい。了解」
プツッ! と、小さく音がして通信が途絶えた。
念わず小さく溜息を零す。模範生のa2が上官から注意を受けるのは珍しい事で、自分の仕事を手間取らせる理奈を煩わしく思った。
陽はまだ昇らないものの、辺りはすっかり明るくなっており、東の空に漂う雲は、ペールピンクに染められていた。a2はゴーグルを外しそれを首に掛け、太陽の光に反射した雲を見て目を細めた。
そんな目の前に広がる美しい景色に見惚れる事も出来ず、一先ず今受けた仕事に取り掛かる事にし、その人物の許へと向かった。
2
指令を受けてから既に約18時間が経過していた。
資料から考えられる場所は全て捜査したが、何処を探してもその人物を見つけ出す事は出来なかった。a2は主のいないアパートのドアの前で、これからどう動いたらよいかと懸念していた。
夜風は冷たく、その風によってサラリとした癖のない髪が靡く。a2のすらりと整った指が反転し、乱れた髪を耳に掛ける。だが張りのある髪はまたサラサラと頬に滑り落ちた。その顔には疲労が見受けられた。
その時、通りから黒い車が接近しa2の前に停止した。
車は四輪駆動の4ドアで、今は閉じてあるが屋根が開閉式のアメリカ車だ。見るからにどんな泥濘んだ道も、ガンガン進んで行けそうな車の形をしている。
「どうしたんだ?」
全身黒ずくめで見慣れたコスチューム、20代前半の人物が車のドアを開けながら声を掛けてきた。
同じディスポーザーのJ168だった。身長180センチのガッチリとした体形で、パサパサした質で肩にかかる程度の無造作な黒髪が風に乱れる。ゴーグルを外すと、きりりとした凛々しい眉毛、ぱっちりとした眼が現れる。全体的に野生感が漂う。
「別に」
同情される事を嫌悪するa2は、自分の置かれている状況を説明せず、J168の言葉に素っ気無く返した。
「なんだか表情暗いけど? トラブルでも起きた?」
車に凭れて腕を組む。
「いや、問題ない」
感情を漏らす事無く、無表情に言って退ける。
「そうか、ならいいけど。なんだか顔が疲れてるな。優等生のお前の事だから、寝る間も惜しんで機動してるんじゃないのか? 少しは休憩した方がいいぞ」
「大丈夫だ。心配なんてしなくていい。自分の仕事に戻れ」
冷たく言って、J168を突き放す。
「傲慢な奴だな。やっぱり好かん」
露骨に嫌な顔をすると、またゴーグルを装着しながら運転席へと戻り、車を発進させた。
J168が去って行くと、a2は顔を歪めて大きく息を吐いた。夜風で冷たくなった髪を掻き上げ、一点を凝視する。
まいったなぁ…。動く事が出来ない。だからといってあいつが言ったように休憩を取る訳にもいかない。
片方は恐らく未だに頭の中で自問自答している事だろう。何かこの状況を動かす、見落としていた点があるのか…。
瞬時にファイルされた情報と、これまでの経路を重ねて考慮してみるが、やはり情報から考えられる全ての捜査は経た。となると残るは自己で、選択者の交友関係者など接点のある周囲から情報収集をするしかない。
普段から世間とは余り関わりたく無いと渋面しているa2には苦痛に感じられる作業だ。
仕方ない…。
我を通している場合ではない。任務遂行の為、考えを柔軟にさせるしかなかった。
晩秋も近い夜、空では月も既に高い位置に定位し、空気も一層冷え込んでいる。今日一日の疲労もかなり蓄積しており、結局J168の言う通り、今夜は明日に備えて切り上げる事にした。
3
a2は選択者の家族、学校、アルバイト先、住んでいるアパートの周辺住民のどこから調査し始めるかを考えていた。
辺りは静まり返って人影も無く、まだ空には星が輝きを放っていた。体を休める為、一度は自分の部屋に戻ったのだが、仕事の事が気になり、僅かな睡眠を取っただけで、また選択者の部屋へと訪れたのだった。だが、やはりまだ彼は帰宅しておらず、それで一呼吸置こうと喫茶店へ向かっている途中であった。
冷たい風が身を覆い、a2の足を止めさせる。背中から風を受けて、耐えるのに、自然と腕組みをして猫背になる。
忙しい毎日に、ここの所の気温の変化が影響して、体調は芳しくなかった。温かい物でも飲んで気を落ち着かせようと、また歩き出す。
とその時、曲がり角から黒い大型バイクが現れ、a2に向かって突進してきた。a2は反射的に身を捩らせ、バイクとの衝突を避けようとするが避けきれず、相手と接触し、その勢いに体のバランスを崩し、コンクリートに強打した。
バイクはバランスを失い左右に大きく蛇行し、左に傾くと、火花を散らしながら地面を滑った後、停止した。運転していた者は、後ろを振り返り倒れているa2を目にすると、怯えた腰つきで辺りを見回し、誰もいない事を確認すると、慌ててバイクを起こしてそのまま発進して行った。
その場はまた何も無かったかのように静まり返り、道路脇に残されたa2は、暗闇に同化して気配が消えていた。
美しい顔を歪ませ、その顔からはうっすらと汗が滲み出る。息苦しくて呼吸をする度に胸に激痛が走る。先程コンクリートに叩きつけられた瞬間、鈍い音が体に響いたのに原因はあった。
「痛っ…」
体を起こそうとするが痛みで体に力が入らない。支えようとした右手にも異変がある事に気づく。a2は無力にその場に横たわっているしかなかった。
すると運良くそこへ車が通りかかり、ライトに照らされてa2の姿が浮かび上がった。それで運転手は車から出て来てa2の許へと走り寄る。
「おい! どうした! おまえ…何があった?」
見るとそれは同じディスポーザーのJ168だった。
青ざめて脂汗をかいているa2を目にして、J168は慌ててa2の体を抱き起こした。
「痛っ…」
a2が左手で胸を押さえる。それに気づきJ168は慎重に自分の肩にa2の頭を凭れさせ、体に負担を与えないようにしっかりと支えた。
「何があった?」
「バイクと…接触した…」
J168の呼びかけに、a2は息も絶え絶えに答える。
「判った。しっかりしろ! 直ぐに医療部へ連れて行ってやるからな!」
その言葉に安心したのか、a2は僅かに頷いたかと思うと目を瞑り、そのまま気を失ってしまった。
J168は軽々とa2を抱え上げると、慎重に車の後部座席まで運び、急いで付属するセンター内の医療部へと車を走らせた。
4
a2が目を覚ましたのは、治療が終わった後のベッドの上だった。辺り一面真っ白で扉だけがガラスで出来た部屋に、a2が身を沈めているベッドが置かれていた。
a2の白い肌は灯りによって反射していた。それで、身体が空間に浮光しているかのように映り、今にも周りに同化して消えてしまいそうだ。その姿は、まるで映画の一場面の、王子様の口づけで目覚める事を待つ、果敢無く美しい姫君を思わせる。
《気がついた?》
部屋に艶のある声が響く。その声の持ち主を探そうと視線を動かした。すると部屋の天井の隅に監視カメラが設置されている。どうやら声は、そのカメラの許に取り付けられたスピーカーから聞こえてくるようだ。
a2は再び目を閉じて、その声に耳を傾けた。
《ここに運ばれる時の事は覚えているかしら? 一般人が発見して救急車に連絡されなくて良かったわ。J168が貴方をここまで運んでくれたのよ。後でお礼を言っておかなくちゃね。
負傷した箇所は三箇所、右手の薬指の罅。小指の骨折。右肋骨の骨折。後は多少の擦過傷。脳に異常は無かったから心配しないで。それと少し風邪を引いているみたいね、扁桃腺が炎症を起こして発熱があるわ。暫くはここで大人しくしていた方がいいわね。》
そう説明され、見ると右手の薬指と小指は副木と共に二本が一緒に包帯で巻かれており、胸にはコルセットが着けられていた。あちこち擦り剥いた所にガーゼも当てられている。
a2の頭に直ぐさま任務の事が浮ぶ。
「今、何時?」
《午前11時だけど?》
「暫くってどの位?」
《そうね…本当は二週間と言いたいところだけど、最低でも一週間はここで安静にしていた方がいいわね。動けない間は筋力も弱まるから、その後のリハビリも大切よ》
とんでもない! そんなに休めば任務を降ろされてしまう。ペナルティを科せられるかも…。そんなに時間を掛けている暇は無い、早くここを出なければ…。
a2の胸の奥に焦りの染みが広がって行く。
だが今のa2には押し切って行動を取る程の力は残っておらず、只そこに仰向けになって静聴しているしかなかった。
《もうすぐ昼食だけど食欲はあるかしら?》
「………」
《不規則な食生活を送っていたでしょ? 食欲が無いのは判るけど、体力をつける為にも食事は摂取した方が良いわね。ここなら貴方に不足している栄養分を考慮してそれを食事で補う事が出来るわ。無理にとは言わないけど、早く復帰したければ、きちんとした食事を取る事をお薦めするわ》
鎮痛剤が作用しているのか、頭の中がじんわり痺れているような感覚がしていた。
「…いえ、今は食欲が無いので。暫く眠ります」
そう言ってa2は再び堅く目を閉じた。