第六章 穏やかな流路
1
理奈は美都と放課後に寄り道をして遊んだ帰り、偶然、部活帰りの悠を見掛ける。少し前を歩いていた悠に追いつき声を掛けた。
「ハル、今帰り?」
「おう。何、遊んでたの?」
「そう、カラオケ。スッキリしたよ」
満足した顔で言う。
「受験生のくせに、気楽だな」
全然気楽なんかじゃない。あたしはこの二日間、赤い糸の事で今迄に無いほど頭を使っているのよ、狂いそうなくらいっ! その息抜きとして、たった2時間カラオケに行っただけなのに、そんな言われ方はされたくない。
悠の言葉に気分を害し、あからさまにそれを顔に表す。
「ハルにはあたしの苦労なんて判んないのよ」
理奈が苦労するタイプではない事を、悠は充分に熟知していた。それでも理奈がそんな事を言うのは、きっと受験のストレスが溜まっているからだろう。それで気分転換に協力でもしてあげようと考える。
「明日休みじゃん。オレも部活ないし、久々にどっか遊びに行く?」
明日は平日だが、学校の創立記念日の為、休校となっている。
「あっ、いいね!」
何時も部活で忙しくしている悠と、一緒に休日を過ごすのは久しぶりの事だ。理奈の表情が一気に明るくなった。
「どっか行きたい所とかある?」
「あのね、気になってた映画があるんだよねぇ」
理奈は両手を合わせて、それを口元へ運び、映画のCMを思い浮かべた。
「どんなの?」
「あのね、もう長くは生きられない彼女の為に、主人公の男性が精一杯の愛情を注ぐ、ってやつ。凄く感動するらしいよ!」
「恋愛もの…? もっと、ババババババ…ッ! って、凄い撃ち合いとか爆発とか、そういう面白いものがいいよ」
悠は両手で銃を構えて、銃弾を撃つ仕草をして見せた。
「ヤダ、そんなのつまんない。絶対ラブストーリーだよ」
悠はラブストーリー等全く興味が無い。何を観ても同じに思えてしまうからだ。きっと理奈の観たい映画も自分には退屈で、観ている内に眠ってしまうに違いないと予測できる。だが、今回は理奈の受験のストレスを解消させる事を目的としているので、理奈に趣味を合わせるしかないと諦める。
「いいよ。じゃあ、それ観に行こうか」
「イェーイ!」
両手を挙げてガッツポーズをする。この時の喜びは、ラブストーリーの映画を観られる事より、自分の意見が通ったという喜びの方が大きかった。何にしても、理奈は悠に対して負けず嫌いだった。
「そういえばさ、今日図書室で、昔読んだ懐かしい童話とかあって、当時の事を思い出しちゃった。覚えてる? ハル、あたしにプロポーズしたんだよ」
「そんな事してないよ」
悠は無表情で即座に否定した。
「してるってば! ハルは小さくて覚えてないかもしれないけど、理奈と結婚するって言ったんだから」
「小さくてって、1コしか違わないじゃん。そんな昔の事より、今、口説かれたりしないわけ?」
悠が意地悪な笑みを浮かべる。
そんな悠に理奈は遂むきになり、口を滑らす。
「あるよ。今日だって誘われたもん」
意外な反応に悠が興味を示す。
「なんて?」
「文化祭で一緒に回ろうって」
あ、皆、手口が同じだな…。
悠も今日、女の子達から同じ理由で誘われたので、この時期に考える事は、皆同じなんだと実感する。それで、どんな人物が誘ってきたのか訊いてみる。
「誰に?」
「誰って…、同じ中学だった武田」
「武田…?」
悠は自分の記憶を探った。親交が無いので自信は無いが、悠も同じ中学なので、名前を聞くと薄っすらと顔が浮かんだ。
「…あぁ、あの眼鏡の?」
「そう、眼鏡の」
「へぇ、あの人と仲良かったんだ?」
「………」
言葉が出てこない。
「まぁ、良かったじゃん。顔出せば、焼きそばおごっちゃるよ」
ニッコリと笑顔で言ってくれる。そんな悠に反して、理奈は複雑な心境だった。
表情を曇らせた理奈の姿に悠は直ぐに気づいた。
「あんまり嬉しそうじゃないね」
確かに喜びよりも戸惑いの方が強かった。何故なら美都の、あの一言が気にかかっていたからだ。
『赤い糸の相手だったりして…?』
それを考えると、どうしたらいいのか判らなくなる。以前から出会っていたのに、敢えて今、声を掛けてくるのは、やっぱり何か縁があるからなのか。
「でも、どうせ暇なんだし、一緒に回る相手ができて良かったじゃん」
あ。………。美都もハルも、どうしてあたしに予定を訊かない内から、当日が暇だと決め付けるのだろうか? 本人を全く無視してる!
そう考えると悔しさが込み上げてきたが、はっきりと否定できないところに、悔しさに加えて寂しさも感じられた。
「身近に王子様なんていないし、シンデレラの様にはいかないよ」
悠のその言葉に、理奈の心の中でほんわりとしたものが広がって行く。
あ。なんだ、ちゃんと覚えてるじゃん。飽きずに何時もしてたからな。さすがに覚えてるよね、やっぱ。
理奈は先程童話と言っただけで、物語のタイトルは言わなかった。それなのに悠はシンデレラと口にした。悠の記憶の中にも、幼い頃に理奈と二人でシンデレラごっこをしていた思い出がしっかりと残っていたのだ。だからここでシンデレラと言葉が出たのに違いない。きっと先程は恥ずかしくて忘れたフリをしていたのだろう。
悠が昔の事を覚えていた事に理奈は嬉しく思い口元が緩んだ。憎まれ口を叩くのもきっと照れの反動だろう。ここは一つ心を広くして聞き流す事にした。
理奈はすっかり寛大な気分になっていた。
「それにしても、世の中には物好きな奴もいるもんだな」
「!!」
すかさず理奈の人差し指が悠の口の端を引っ掛け、その口が引き裂かれんばかりに思い切り引っ張られたのだった。
2
木曜日、午後8時52分。理奈は僅かな至福の刻を過ごしていた。
部屋のドアをノックして、母親が顔を覗かせる。
「どう? 捗ってる? 今夜は肌寒いから、温かいお茶を持ってきたよ」
母が持ってきたトレーには、バナナのパウンドケーキとキャラメルティーが載っている。
「ありがとうございます」
裕弥が温和な笑顔で応える。
「冷めないうちにどうぞ」
理奈の母もつられて、とびきりの笑顔をしてみせる。しかし笑顔を作る事によって顎の贅肉が強調されて、二重顎となった母の笑顔が、理奈には暑苦しいとしか思えない。それで理奈は恥ずかしくて肩を竦めた。
スタンド付きのトレーをドア付近に置いて、母は部屋を出て行った。
母がこんなサービスをするのは、うちには子供があたし一人で、若い男の子がいない為、好青年である麻生さんがお気に入りだからだ。
「じゃあ、お茶が冷めないうちに休憩しようか」
「はい」
理奈はトレーを部屋の真ん中へ置き、座布団代わりにフカフカのクッションを二人分用意した。
早速そこへ座って、お茶を口にする。物静かに紅茶の香りを楽しんでいる裕弥の姿に念わず見惚れてしまう。そんな理奈の視線に裕弥が気づいた。
「どうした? 何か話でもある?」
「や、あの、甘い物大丈夫かなーって…」
まさか、ここで見惚れていたとは言えず、咄嗟に、自分の気持ちを悟られない様にと焦って、意味不明な事を口走る。それに対して何の疑いもなく、裕弥は素直に答える。
「甘い物は、和洋関係なく大好きだよ」
「あたしも好きです!」
裕弥の言葉に衝動的に反応する。言った後で、頭の中で都合の良いセリフだけを切り取って、今のはまるで告白のようだと感じ、勝手に盛り上がり赤面する理奈。
「あつ…」
手で火照った顔を扇ぐ。
「あ、猫舌?」
「あ、いえ…」
理奈の心情が読み取れない裕弥との間には、ずれた会話がやり取りされる。
この6ヶ月間、勉強の合間の休憩に話す事といえば、勉強のコツと他愛も無い雑談だけ、理奈は裕弥のあまり多くを知らなかった。お茶で和やかな雰囲気になっている事だし、この際勇気を出して、今迄触れなかった一番知りたい事を訊いてみようかと思い、小さく深呼吸をするとその核心に迫った。
「あ、麻生さんは…彼女はいるんですか?」
緊張の為、やや声が上擦った。
「何、突然?」
「あ、いや、その、あの…、今日、文化祭を一緒に回らないかって、男の子に誘われて、どうしようかと困って…」
これも緊張の為なのか、何故か唐突に自分の話を持ち出した。
「へぇ、理奈ちゃんモテるね」
「いえ! そんなんじゃないです!」
両手を突き出して、掌を裕弥に向けて頭と共にブンブンと振る。
理奈の強い口調に少し驚く裕弥。
「あ、あの…、麻生さんならどうしますか?」
「えっ? 俺?」
自分を指で差して、どうして自分にそんな事を訊くのかと、驚いた表情をする。それを見て、理奈は慌てて理由を付け足す。
「その…、気が進まなくて…、でも知らない人でもないし…、どうしたらいいのか…、その、アドバイスを……」
遂、言ってしまった事に、言葉に困りながらも、裕弥の反応を気にする。
「ん…そうだな、気が進まないなら断る? 相手に気を持たせても悪いし」
襟足を撫でながら、視線を外して一点を見つめて答えた。
「そ、そうですよね」
裕弥の言葉に、自分を納得させるように頷いた。
「それは…彼女がいるから?」
本題に戻る。
「あ、俺が? 彼女はいないよ」
言って、軽く首を振る。
やった!
理奈の心の中で花火が打ち上がる。
そんな理奈とは逆に裕弥の表情が曇った。
訊いちゃいけなかったかな…?
裕弥の顔を見て少し後悔する。
元気なく俯いている理奈を見て、裕弥は自分がそうさせてしまった事に気づき、ゆっくりと話し出した。
「彼女はサークルの仲間だったんだ。1年程付き合ったんだけど、サークル内の他の奴を好きになったから別れようって言われて。…人の気持ちが変わってしまうのは仕方ない事だから」
「そのサークルは…?」
「辞めた。やっぱ、ちょっとね…。でも、もう大丈夫だから。そんな顔しなくていいよ」
裕弥は沈んだ表情をしている理奈の頭に手を載せた。裕弥の優しさが嬉しくて、瞬間、赤面する理奈。
あ…、やっぱり好きだな。この人。
湧いてくる熱い感情に、理奈は自分の気持ちを再確認する。
「あたし断ります! 文化祭の件。こんな気持ちじゃ、相手にも失礼だし」
「そう」
裕弥は穏やかな笑顔を見せる。だが、理奈の言葉の本当の意味は理解していない事に、この時はまだ気づかないでいた。
3
夜、理奈はパジャマを着てベッドに仰向けになり、天井を眺めている。
部屋では、ベッドの横に備え付けてある金平糖の形をしたスタンドライトの、青く淡い和らかな光だけをつけて、洋楽ばかりを流しているラジオを、小さな邪魔にならない程度の音量で聴いていた。
理奈は考え事や眠れない時には、何時もこのBGMにしている。英語の歌詞は理解出来ないが、その分、曲調だけが頭の中へ入って行き、音楽を意識する事無く、とても心地好くしていられるからだ。
そして今日一日を振り返ってみた。
想いを寄せていた裕弥に彼女がいない事が判ったが、裕弥の失恋話に、素直に喜ぶ気にはなれなかった。
麻生さんは優しいからああは言ってたけど、本当に彼女に対して、もう吹っ切れてるのかな? もしかしたらまだ少し気持ちが残っているかも…。だとしたら新しく恋をするなんて、まだ考えられないだろうな。
今日、話を聞くまでは、自分が裕弥と付き合うなんて絶対に有り得ない事だと思っていたが、彼女がいないともなれば、その可能性が全く無いとは限らないと、少し欲が出てきた。だが、今、想いをぶつけてみた所で、裕弥にとって理奈は、只の教え子でしかない。玉砕するに違いないだろう。だから今はまだ告白する時期ではないと思った。
そうだ、理奈は告白するのではなく、された立場だった。
告白してきた武田芳朗に対して、好きでもなければ嫌いでもなく、ただ同じ中学出身の顔見知りの同級生としてしか見ていなかった。だから告白の事も無く、文化祭で暇をしていて声を掛けられれば、何の躊躇も無く一緒に楽しんでいただろう。だが、事は起きてしまった。周りがそう言うのだ、これは理奈の早とちりではなく、やはり告白を受けたのだろう。だとすれば裕弥の言っていた通り、軽い気持ちで応える訳にはいかない。自分には好きな人がいると、はっきり断るべきだ。
日頃恋に関してあまり縁の無い理奈には、少し勿体無いようにも思えたが、そういう問題ではない、気持ちの問題なのだから仕方ない。相手に期待させないよう、早い内に断っておこう。そう決意する。
それより明日は久々に悠と遊ぶ約束をしたのだ。その事が理奈にとってはとても楽しみだった。
幼い頃はよく遊んでいたが、悠が小学生で町内のサッカークラブ、中学でサッカーの部活と、忙しくしていてからは、遊ばなくなってしまった。今では学校へ登校するまでの通学路で会話する程度だ。おまけに、今日発覚した悠の恋愛話など、以前は何でも知っていると思っていたのに、悠に対して知らない部分が増えてきていた。二人の距離が少しずつ離れてきている気がして、理奈にはそれが少しショックでもあった。
普段は憎たらしくて、口喧嘩ばかりしているけど(というより、理奈が勝手に腹を立てていると言った方が正しいが)その分、明日は楽しく過ごそうと考えていた。
まずは映画を観るんだっけ。どんな服を着て行こうかな? いつもはデニムにTシャツとかラフな格好が多いけど、少しは女の子らしい部分を見せて、ハルを驚かせてやらなきゃ。
フフ…、ハルはあたしの事を女として魅力が無いとバカにしてるけど、あたしだって捨てたもんじゃないのよ! スカート姿の女らしくしているあたしを見て、あたしだって磨けば光るって事を判らせてやる。
理奈は変な所で負けず嫌いな性格が現れる。悠が女の子たちにモテて、自分の知らない面を持っていたのが悔しかった為、悠の知らない自分も見せびらかせたいのだ。それが理奈にとっては、女の子らしくスカートを履く事に繋がるのだった。発想がとても単純で貧困だ。それが悠に伝わるかどうかは疑問だが、理奈は思い通りに事が進むのを信じて疑わず、悠が自分の事を見直す顔が浮かんで、嬉しくて顔がにやけた。
あ、この曲…。
ラジオから何度か耳にした事のある曲が流れる。勿論誰が歌っているかは知らなかったが、歌っている声と曲調が切なく感じてお気に入りの曲だった。
体勢を横向きに変えて、頭の中を無にして聴いた。
数分後、理奈は寝息を立てて気持ち良さそうに眠りに落ちていた。