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愛も罪も  作者: 銀花。
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第五章 絡まった糸

 


         1



 ダイニングにトーストの焼ける良い香りが漂う。


 重い足取りで階段を下りてくる。


「あら、お早う」


「…はよ」


「めずらしい。お兄ちゃんが一人で起きてきた」


 食卓で紅茶を飲んでいた由貴がからかう口調で言った。


「本当ね。雪でも降らなきゃいいけど」


 夫のお弁当のおかずを詰めていた母の育代も、娘の言葉に賛同する。


「…うっさい。ほっとけ!」


 不機嫌に言って洗面所へと向かう。悠は低血圧なのだ。


「はい、はい。よく顔を洗って、目を覚ましておいで」


 育代が笑って、息子の不機嫌を宥めた。


「悠は今日、朝練か何かか?」


 既に食事を終えて、新聞を広げていた父の慧が妻に訊ねる。


「そんな事は言って無かったけどね」


「やっぱり雪が降ったりして」


 すかさず由貴が口を挟む。


 少しして、洗面所から戻って来た悠が、父親の向かいの席に座った。まだ頭がフル活動されてないらしい。朝食を目の前にして、ただ茫然と座っているだけだ。


「ほらぁ、しっかりしなさいよ。せっかく早起きしたって、そこでボーッとしてたら遅れちゃうんだからね!」


 育代が温かい紅茶を悠の前に置き、抜け殻の様にしている息子に活を入れる。


「…あぁ」


 力無く応えると、紅茶の入ったマグカップを両手で包み、先程洗顔の為、冷たくした手をそれで温める。


「悠、今日、朝練ってわけじゃないんでしょ?」


 次にコーンポタージュスープを持って来て、先程夫に言われた言葉を投げかけた。


「うん、違うよ」


「そうよね。だったら早くなくて、遅刻だものね」


 黙って会話を聞いていた慧は、広げた新聞の向こう側で悠の顔を盗み見るが、何を言うわけでも無く、雑に新聞を畳むと、出勤の準備へと取り掛かる為、席を立った。 




              ❋        ✴        ✷




 食事を済ませた悠は制服に着替え、髪にワックスをつけていた。鏡でしっかりチェックをすると、手についたワックスをティッシュで拭き取る。鞄を持って下へ降りて行き、ベトついた手を洗う。そういう所は気にする質だった。


 テーブルに置いてあるお弁当をバッグに入れると、 


「いってきまーす!」


 大声で言って玄関へと向かう。


「はい。行ってらっしゃーい!」


 夫と娘を送り出し、自分の食事も済ませて、今は洗濯へと取り掛かっていた育代は、息子の耳に届くよう、負けじと大声を上げた。




        2




 いつもは慌ただしく迎える朝も、今日は時間のゆとりがあって、清々しく感じられた。


「あ………」


 宿題に歴史のプリントが出されていたのを思い出す。今になるまですっかり忘れていた。勿論白紙のままのプリントが、そのまま教室の机の中に入っている。


「ま、いっか」


 そんな事には全く動じない性格だった。何故なら、歴史の授業が何時間目に行われるかしっかり把握していて、それまでに誰かに写させてもらえばいいと、瞬時に計算したから。こういう事は悠にとっては珍しく無い事だ。


「あれ? ハル?」


 後ろから声を掛けられ、振り向く。


「おぉ。お早う」


「どうしたの? 今日、早くない?」


 何時もは自分の後ろから悠が声を掛けてくるのに、今日は珍しく、理奈よりも前を歩いていた事に驚いている。


「なんかね」


「珍しい事もあるもんだね。もしかして雪なんか降ったりして」


「あ、それ、もう親に言われた」


「やっぱり?」


 理奈は小バカにする様に笑い、それにつられて悠も笑った。


 理奈にからかわれるのは何時もの事だ。それに慣れてしまっている悠は、多少の事では腹を立て無い。もしここで何か言い返したら、強硬な理奈の事だ、むきになって攻撃してくるだろう。つまらない事で喧嘩をして、結果、理奈のご機嫌取りをしなければならないのは目に見えている。だったら最初からそこを避けるのが利口だと考える主義だ。


「昨日ね、今まで好きになった人の事とか考えてみたんだ。どこかにヒントがあるかもしれないと思って」


「ん? …あぁ、赤い糸の事?」


 まだそんなSFの事を考えていたのか? と、少し呆れながらも、悠は黙って理奈の話を聞く。


「ほら、ハル言ってたじゃん。状況が変わったって事は、相手が現れたからじゃないかって。だから今までの事を思い出してたの。でもね、その人達が今どうしてるとか全然知らないし、思い当たる節が無いんだよね。本当に出会ってるのかな?」


「あぁ、理奈は男に縁が無いからな」


 悪気無く言ったその言葉が、理奈の神経を逆撫でた。


「何それ? 偉そうに! じゃあ、自分は縁があるわけ?」



 頭にきたっ! ハルだって、大してあたしと変わらないくせに、偉そうな口を訊くんじゃない!



「まぁ、少しはね」


「………っ!」


 悠の言葉に理奈は目を見開く。一瞬息が止まるようなショックを受けた。今迄、自分と同じレベルだと安心していたのに、いきなり出し抜かれたような気になって、驚きを隠せない。見開いた目と共に口が開いたままだ。


「何? 何時? 何時そんな事があったの?」


「んー、中学ん時」


「中学の時? どうしたの?」


 必死だ。初めて聞く話題に、嘘であって欲しいと願っていた。


「2年の時、バレンタインにチョコ貰って。その内の一人から告白されて、別に嫌じゃなかったし、顔見知りのコだったから、なんとなく付き合った」



 本当なの⁉

 ハルが2年といったら、その頃あたしは男子にからかわれて、町田と話さなくなった時じゃん! 本当は好きだったのに、仲がぎこちなくなっちゃって、バレンタインだって本当はチョコをあげたかったのに、もうきっと貰ってはくれないと諦めて、胸を傷めてた時じゃない! そんな時にぬけぬけと…っ! しかも“その内の一人”って! 他からもチョコを貰ったって事でしょ? なんという贅沢者っ! てか、自慢? 何気に自分はモテますアピール?



「そんな事全然言って無かったじゃん!」


 むきになって問い質す。


「だって、オレ部活してたし。付き合うって言っても、部活の無い休みの日に遊ぶくらいだったし。現に、理奈だって気づかないくらいだろ? そう大した仲じゃ無かったって事だよ」


「で? そのコとはまだ続いてんの?」


「いや。学校が違うし、もう会って無いよ」


「そう」


 現在は続いていないと聞いて、少し安堵する理奈だった。


「それにしてもハルがモテるとはね…、意外」


「モテる? …別に、モテては無いと思うけど」

 


 謙遜するところが憎らしいっ。



「今年は? どのくらいチョコ貰ったの?」


「え…、えっとぉ…8コくらい?」


「!!」


 再びショックを受ける。念わず口が開く。


 

 幼馴染という誼で、バレンタインの存在を知った時から、ハルにチョコをあげてはいたけれど、それは一つも貰えなかったら可哀想だという情けからの行為だった。ハルも喜ぶわけでもなく、それは気遣っているあたしに悪いと感じ、恐縮しているからだと思っていたのに、それは単なるあたしの思い違いで、本当は貰い慣れているから感動が無いだけだったんだ。

 10年以上も一緒にいたのに、何も気づかなかったなんて、悔しいよっ!



 なんだか独り取り残された気分になって、寂しくも感じ、複雑な思いがあった。


「ハル…、もしかして高校に入ってからも、誰かに告白された?」


「あぁ…、まぁ、ね」


 悠は、なんだか話が嫌な展開になってきていると感じながらも、理奈に気遣う口調で答える。


「………」


 もう驚かない。悠が女の子達にとってどういう存在なのか、だんだん把握が出来てきた。



 そうなのか。



「その人とはどうしたの?」


「いや…、別に」


 気の無い返事をする。


「別に何?」


 そんな悠に、何を勿体つけているの、と言わんばかりの勢いで促す。


「何も無いよっ。たまに遊んだりした事もあるけど、部活やってるし、マメに付き合うことは出来ないからね。そういうの、告白された時にちゃんと言ってるし、向こうも判ってて声掛けてくるんだろ? 別に見境なく楽しんでるわけじゃないよ」


 少し腹立たしそうに言う。


 理奈は頭が痛くなりそうだ。


 話の内容が複数形な事に、一人の女の子からだけではない事が窺える。



 あぁ、知りたいっ! 一体今迄、何人の女の子から告白されて、何人と付き合ったのか。



 だが、すんなりと答えないところに、質問にあまり答えたくないという意思が見受けられる。それを判っていながらしつこく問い質すのも気が進まない。どうにかして事実を知ることは出来ないだろうかと理奈は考える。




            ❋        ✴        ✷




 二人が通過した道から70メートル離れた所に公園がある。そのフェンスに凭れて様子を窺っていた人物がいた。


 全身が黒い衣装に首からゴーグルを掛けている。朝の陽射しに眩しそうに目を細め、サラサラと風に揺れる癖の無い髪。一瞬、何処かの雑誌の撮影でもしているのではないかと、見惚れてしまう程美しい情景だった。


 実は理奈に渡した指輪は、盗聴器付きの発信機になっており、遠く離れていても鮮明に会話は聴こえる為、今の会話も全て伝わっていた。


 会話から、理奈の状況を詮索する。恐らく自分が訪ねた時と何も変化はしていないと判断。無事仕事が進行して行くのか不安に思えたが、約束の期日が来るまでは黙視するしかなかった。



 厄介な人物の担当になったな。



 a2には、この先何か面倒な事が起こりそうだと、嫌な予感がしていた。





        3




「おはよう」


 悠は教室に入り、自分の席へ着いた。


「ハル、昨日のドラマ見た?」


 同じサッカー部で仲の良い、沢井圭三が声を掛けてくる。


「あ?」


 気の無い返事をする。


「何? 機嫌悪いの?」


 確かに、普段より少し早めに起きた為、多少の寝不足気味であるのと、朝から理奈に何人の女の子から告白されたのかと問い質されたおかげで、不機嫌度が増していた。


「あ、そうだ。歴史のプリントやった?」


 済ませていない宿題を圭三に見せて貰おうと訊ねてみる。


「まだ」


「堀ちゃんは?」


 すぐさま矛先を変える。


 堀ちゃんというのは、このクラスで一番成績の良い堀友介の事で、宿題や授業でのプリント提出の時、何時も悠がお世話になっている生徒だ。


「まだ来て無いんじゃない?」


「ダメだ! 眠てぇぇー! オレ、今日一日機嫌が悪いかも」


「寝不足?」


「んー、それだけじゃないけどね」


 重たげに机に顔を伏せる。


「サトちゃん、おはよう」


 隣の席の、中西夏子がやって来た。


「んー」


 顔を伏せたまま目だけを開けて返事をした。


「あ、機嫌悪いの?」


 悠を一目見て気づき、横に立っている圭三に訊いた。


「寝不足だってさ」


「ゲーッ! 最低」


 夏子は不満げに自分の席へと着く。


 何故、自分が寝不足だと夏子が最低になるのか理解出来ない。そんな発言をする夏子に対して鬱陶しくさえ感じる。何時もの悠とは違って、友人のそんな些細な言葉にも過敏に反応してしまう。


 しかしそんな感情を表に出しても仕方ない。それより今は目先の宿題だ。


「中西、歴史のプリントやった?」


「うん」


「写させて」


「いいよ。プリント写させてあげるから機嫌直してね。ほら、イェーイ!」


 言って、悠の手を取り、自分とハイタッチさせる。


「もう、いいって」


 無表情で夏子の手を振り払う。


 何時もならそのノリに合わせる悠だが、生憎今日は機嫌が悪い。悪乗りする夏子に苛立った。


「中西ー…。ハル、本当に機嫌が悪いんだって」


 不穏な空気に、圭三がフォローを入れる。


「サトちゃん、おはよう!」


 去年同じクラスだった、隣のクラスの女子生徒二人が教室に入ってきた。


 悠たちには見えない所で、夏子との間に女同士の火花が散る。


 その内の一人、明るい髪の色でショートヘア姿の早苗が、とびきりの笑顔で悠に近づき、机の横に屈み込む。


「ね、文化祭だけど、一緒に回らない?」


 二週間後に行われる文化祭で、他に先を越されない内に悠を予約する為、逸早く先手を打ちに来たのだ。


「あー、オレ忙しいから無理」


 プリントを写しながらサラリと拒んだ。


「えー! もう誰かと約束しちゃったの?」


 チラッと横目で夏子を見た。夏子もそれに気づいて、長い髪を片手で後ろに払い除けながら視線を逸らす。


「オレら今年部活で屋台出すんだよね。焼きそば屋。食いに来てね」


 卆無く宣伝する圭三。


「なんだぁ、ガッカリ」


 言いながらも、ライバルに先を越された訳では無かったので、少し安堵した様子。


「サトちゃんが作るの?」


「別に決まって無いけど、1年がやるんじゃない?」


「オレらは売り子ね」


「じゃ、売上に協力するよ」


「まいど」


 今日初の悠の笑顔が見られた。


 悠の屈託の無い笑顔につられ、周りの女の子達も顔が綻ぶ。


 手早くプリントを写し終えると、礼を言って夏子に借りたプリントを返す。


「いる?」


 そして、今、写したばかりの自分のプリントを、圭三に差し出す。


「サンキュー!」


 言って圭三は、早速プリントを写す為、自分の席へと戻って行った。


「じゃ!」  


 と言って、この煩わしい状況から逃げ出す為、悠も圭三に着いて席を移動する。宿題も無事に済ませた事だし、やっと誰にも邪魔されずに仮眠を取る事が出来ると胸を撫で下ろし、また机に顔を伏せた。


 明らかに自分達から逃げたと判る様子に、流石にあそこへ着いて行く訳にはいかず、無言で視線を送る、取り残された女子達。


「………」




        4




 教室の後ろのロッカーに凭れて、理奈は昨夜の考えを美都に話して聞かせた。


「で? どっちにすんの?」


「………」


「まだ答えが出てないんだ? 時間が無いよ」


 顰め面で俯いている理奈を見て察する。


「そうなんだよね! どうしよう、どうしたらいい?」


 切羽詰まった顔で、美都に迫り寄る。


「あたしに訊かないでよっ。でも、あたしなら断然情熱的な男ね! その方が激しい恋が出来そうじゃない?」


 目をキラキラと輝かせて、頭の中に空想を浮かばせる。



 激しい恋? 別に望んでないけど…。幸せになれればそれで良いし。



 美都を横目に、自分との考え方の差に、冷めた心情の理奈。


「情熱的な男にも心当たりは無いわけ?」


 小さく頷く理奈を見て、溜息を吐く美都。


「じゃ、アミダにする?」

 

 手っ取り早く決めるにはこの方法が一番だと思い、後ろにある黒板にチョークで2本の線を書き出した。



 マジで?



 理奈は焦って、黒板消しでそれを阻止した。


「ちょっ、ちょっと! 止めてよっ! そんなので決めないでっ!」


「だってぇー。じゃあ、どうするの?」


「それは…」


 一時間目が始まる合図の鐘が鳴った。話の途中だが、二人は自分の席へと戻る。


 恰幅の良い中年男性教師が教室へ入って来ると、早速、一時間目の国語の授業が始まる。理奈は教科書を開き、教師の話す声を聞いているものの、その声は頭の中まで入っては行かず、先程の美都との話の続きを考えていた。



 そうだ、もっと現実を見なければっ! 情熱的な男なんて、あたしが勝手に考えただけで事実ではないんだ。そんな、激しい恋だの何だのと言っている場合じゃない。ちゃんと冷静に考えよう。



 集中して考えようとするのだが、何も頭の中に浮かんでこない。



 あーっ! 全然判らないっ!

 情熱的な男、どうして自分の道を外れたりなんかすんのよっ! おかげであたしに皺寄せが来るじゃないの! 自分の罪は自分で責任…。



 ちょっとした錯乱状態に陥っていた。しかし、そこまで考えて不意に疑問が湧いてくる。



 そういえば“始末する”って、どういう事だろ? 赤い糸を切るって事かな? 切られた糸は何処へ…ずっと独りぼっち? そういえば昔『蜘蛛の糸』って観たな…。



 『蜘蛛の糸』。残忍な罪を犯してきた男が、遂に地獄へと落とされたものの、小さな蜘蛛を殺さず逃してやった唯一の仏心に、助けられた蜘蛛の慈悲で、その地獄の底から蜘蛛の出す一本の糸を伝って、極楽に昇る事を許された。


 男が糸を上って行くのを、下から見ていた同じ地獄にいた者達も、上へ行こうと糸を掴む。それに気付いた男は、大勢の人の重みで糸が切れる事を恐れ、自分だけが助かりたいという欲が働き、他の者を蹴落としてしまう。


 その様子を一部始終見ていたお釈迦様にその糸を切られ、男は再び地獄へと落とされてしまうという有名な物語。


 その話と今回の赤い糸を重ねて考えてしまう理奈。



 これは罪? もしそうなら、切られるべき糸は自然に決まってくるかな…。



 理奈はノートの端に美都への手紙を書いた。


 『 “予定外の者” は犯罪者なのかな?』


 それを手で契って小さく折り畳むと、教師の目を盗んで、美都の座っている席を目掛けて思い切り投げた。


 運良く、その手紙は美都の腕に当たり、机の上に乗る。それに気づき手紙を読んだ美都から、暫くして周りの者達を伝って、理奈の所に返事が届いた。


 そこには先程とは違い真面目な答えが書いてあった。


『人を好きになる事は犯罪では無いと思う。自然な心の成り行きよ。その想いは誰にも止められないし、止める権利も無いと思う。事実、浮気や不倫は犯罪にはならないし。( だからといって、認められた行為でもないけどね。) ただ、自分でもコントロール出来なくなるくらい、相手を愛してしまったのよ。やっぱり“情熱的な男”なのよ、きっと。(笑) 』


 美都の言葉に納得させられてしまう。多少の思い当たる節があるからだ。



 確かに、あたしが麻生さんを想う気持ちは誰にも止められないし、麻生さんに彼女がいたとしても、この想いは罪にはならないよ。どうしようもない事だもんね。

 “予定外の者” を一方的に悪く言うのも良くないかな。彼には彼の感情が存在してるんだし。やっぱり問題はあたしがどっちを撰ぶかなんだ。



 理奈は手を開いて指を眺めた。


 毎週月曜日の朝礼で服装検査をする程、理奈の通っている学校は校則が厳しい。a2から渡された指輪を学校で着ける訳にはいかず、今はポケットに忍ばせている。



 ここに二本の糸が繋がってるんだ…。本物はどっちなんだろう?





          5




 昼休み、美都は理奈の手を引っ張って、図書室へと連れてきた。


「ほら、そんな暗い顔してないで、少しは頭を休めた方が良いよ。ここにある本でも読んで気分転換して。もしかしたらこの中に赤い糸の答えを出すヒントになる物があるかもよ」


 そう言って理奈の肩を軽く叩き、本棚へと勧める。


 図書室へ来たのは、気分転換を図る為に来たのでは無い事を、理奈には判っていた。本当の理由は今日新刊が入る為、美都自身が来たかっただけなのだ。それを証拠に、早速美都は入ったばかりの新刊をチェックしている。


 気は進まないが、仕方ないので、理奈もその辺にある本棚に目をやる。するとそこには、幼い頃に読んだ事のある童話など、懐かしい本が並んでいた。



 へぇ、高校の図書室にもこういうの置いてあるんだ。

 あっ、思い出すなぁ…。これ好きでよく読んでた本だ。これも…、昔、家にあったやつ。



 本の背表紙を指でなぞりながら、懐かしい記憶が甦る。



 そういえばあの頃、町の図書館へ行って、ハルと一緒に紙芝居とか見てたっけ。



 シンデレラを手に取り、ペラペラと中のページを捲る。幼稚園から帰って、悠と一緒に母親に連れられ、図書館に通っていた時の事を思い出す。


 図書館の一角に児童コーナーがあり、そこで一番のお気に入りの舞踏会のページを開いて、理奈が片方の靴を脱ぎ、その片方を悠が手に持って、シンデレラごっこをよくしていたものだ。


『しんれれら、きみがぼくのさがしていたおひめさまだ。ぼくとけっこんしてくだたい』


『ありがとう。おーじさま』


 悠が理奈に靴を履かせ、そのお礼に理奈が悠に抱きつく。


『はるね、りなだいしゅきっ! はる、おーきくなったら、りなとけっこんしゅるね』


『りなもはるかだいすきっ! りなもはるかとけっこんする。おーきくなっても、りなとはるかいっしょだね』


『いっしょ!』


 微笑ましい幼少の頃を思い出して、念わずプッと吹き出す。



 ああいう頃もあったなぁ…。純真で可愛かったよね。何をするにも一緒で、本当にずっと一緒にいられると信じてたっけ。まぁ、今でも同じ高校だから、ずっと一緒にいてるわけだけど…。あんなに可愛かったハルが、今では女ったらしになっちゃって、人間どう変わるか判らないものだね。



 理奈は悟ったように悠の事を非難する。そして持っていたシンデレラの本を閉じて、元のあった棚へと戻した。




         6




 放課後、理奈たちが下駄箱置き場で靴を履き替えていると、部活へと向かう悠がジャージ姿で横を通る。


「あ、今から部活?」


「うん」


「頑張ってね」


「おう」


 休み時間の度に仮眠を取っていた悠は、もうすっかり機嫌が直ったようだ。


「じゃあね!」


 理奈が手を振ると、悠はひょいと片手を上げて応える。悠の後ろにいた圭三はぺこりと軽く会釈をして、二人の元を去って行った。


 悠の姿が見えなくなると、理奈は美都に向き直って、小声で悠の秘密を話し始める。


「美都、ハルの事なんだけどさ、信じられないかもしれないけど、アイツって結構モテるみたいなんだよね」


「うん、判るよ。体育祭で下級生、3人くらいに囲まれて、一緒に写真撮ってたから」


 

 えっ? そうだったのか…。それは初耳…。そんな事までしていたとは、あの野郎めっ!



「それだけじゃなくて、今年に入って後輩から2人、同級生に1人、3年から1人、計4人に告白されたんだって。去年は同級生から2人、上級生1人から告白されて、その中には、ほら、2組の中村富美世っ! 今もたまに遊んでる仲なんだってよ? もぅ、聞いてびっくりだよ!」


 結局、今朝のあの会話の後、理奈は我慢できなくて、悠に今迄の女の子関係を事細かく問い質したのだった。


「今頃そんな事言ってるなんて、理奈鈍いよ」


「えーっ!?」


 美都の言葉に驚く。


「美都は気づいてたの? ハルがモテるって不思議じゃないの?」


「うん。だって、キュートじゃん」


「………っ‼‼」

 


 キ…キュ、キュート? あのハルがキュート⁉



 思いも寄らぬ反応に、自分の耳を疑った。



 幼稚園の頃、豪雨で朝から雷が鳴り止まない日、怖いと泣きじゃくって、結局、幼稚園を休んでしまった、あの弱虫のハルがキュート?


 小学生の時、クラスの女の子とふざけて物を投げ合って、自分の手提げ袋でその女の子の頭を叩いたら、運悪くその袋の中に鋏が入ってて、相手の頭から血が流れて、三針縫う怪我をさせちゃって、おばさんと一緒にお詫びのマドレーヌを持って、そのコの家まで謝りに行った事のある、あのハルがキュート? 


 文化祭でお腹が空いたからって、ただでバナナとジュースが貰える献血に参加して、血を抜いたら貧血で倒れちゃって、暫く保健室で眠ってたという、格好の悪いハルの一体何処がキュートなの? あたしには全く理解不能だわっ!



 姉弟のように接してきた理奈には、悠を異性として見る事が出来なくて、女の子達が悠の何処を見て、好きになるのか判らなかった。



 しかも、その理由がキュートだなんて何か間違ってる。



「例えば何処が?」


 美都に質問してみる。


「?。…例えば顔? あの人懐っこい笑顔とか可愛いじゃない」


「っ‼」


 

 笑顔が人懐っこくて可愛い? そうか…、あの眠たそうな童顔は、他の人からしたらそういう風に見えるのか…。初めて知った。



「あと、サッカーしてる姿もポイント高いかな」



 あぁ、そうかっ! その手があったか! 爽やかさを売りにする。たしかにそれはポイント高いな。でも、みんな騙されている! あれはただコドモなだけで、だらしなくて、抜け目なくて、世渡り上手なズルイ奴で…。


 そう、思い出した! あれは小学生になったばかりの頃、ずっと欲しくて我慢していたリカちゃん人形を、7歳の誕生日プレゼントにやっと買って貰える事になって、ハルの家族と一緒にショッピングへ出かけたんだ。そこの玩具売り場で精算するぞって時、ハルが玩具の剣を気に入って手放さなくなって『リナはかってもらうのに、ズルイっ!』なんて、駄々を捏ね始めた。その場から動かなくなったハルを放って置く訳にもいかず、仕方なく買って貰える事になったのだ。


 あたしはちゃんとした誕生日プレゼントという名目があっての事なのに、ズルイのはどっちだ! っての。その後ハルは買って貰った剣で『たたかいだ!』とか言って、あたしのお尻をペシペシ叩いて廻ったんだ!


 みんな判ってないんだ! ハルは全然キュートなんかじゃない! 悔しいっ! みんな騙されてる! 気づけっ!



 昔の記憶と共にその時の感情も甦り、どうしようもない歯痒さを、どうにかして伝えられないかと、血が逆流する思いだった。


「もしかして美都もああいうのが好き?」


「ううん。あたしはジュリアン一筋♡」


 指を組み、お祈りのポーズで頬を染める美都。



 そうよね…。いくらなんでもね。



 悠の事をキュート等と言い出したので、美都も悠がタイプなのかと心配したが、疑いが晴れたので、ホッと胸を撫で下ろした。


 実は、嫌がっている悠にあれこれ訊いておきながら、とても知りたいのに訊けない事が一つだけあった。


 それは、その女の子達とどこまで仲が進展していったか。


 今迄自分と同類と思っていたので、そこの所が凄く気になる。だが弟の様に思っていた悠の、異性として生々しい部分を知ってしまうのは…なんというか……できれば知りたく無い部分でもあり…しかしとても気になる事でもあり……。触れたく無いけれど覗き見したいという…なんとも複雑な感情が理奈にあった。


 …その時の悠との会話を思い浮かべる。


「その人達とは彼氏彼女として、ちゃんと付き合ってるんだよね?」


「そうだよ」


「それって……」 


 続く言葉が言い辛い。


「?」


「…だから……」


 理奈は悠と視線を合わせず、体の前に両手で持っていた鞄を、右の膝でコツコツと当てて、何度も軽く浮かせる。


 出せない言葉に気持ちも詰まって、それが動作に出てしまう。


 理奈の様子が急におかしくなって、悠は会話の前後から、理奈の心情を読もうとした。


 少しして、何かに気づいた様に悠は口を開き、途端に耳は赤くなり、視線を理奈から外した。


 それを目にした理奈は、自分が何を訊きたいのか、それに悠が気づいたのだと察した。


 理奈は悠を凝視する。


 理奈が自分に視線を送っている事に、悠の耳は更に赤くなった。



 ! これは……。



 お互い何も言わなくても、相手の考えている事が判った。


 沢山並んでいる下駄箱を眺めながらも、理奈の頭の中にはその時の光景が浮かんでいた。



 あれは……チューはしてるな。 その先は……して……



 と考えて、目を瞑り頭を振った。



 ダメだ! ダメだ! ハルのそんなの考えたく無い! 中止! 中止!



 考えるのを止めるよう、脳に命令を出した。



 はぁ…。それにしても、何故ハルばかりがモテるのだろう? あたしだって、赤い糸とか言う前に、素敵な彼氏が欲しいなっ。



 面白くないと思っていると、何か気配を感じたので後ろを振り向いた。そこには、一人の見慣れた男子生徒の姿があった。


 それは同じ中学出身で、去年同じクラスだった、武田芳朗だった。身長165センチ、痩せ型、ツンツンした黒い短髪、三角の眉毛、銀の縁に楕円形の眼鏡。あまり話した事は無いが、無口で目立たないタイプだった印象がある。


「竹宮、ちょっと話したい事があるんだけど」


 静かな口調で言う。


「え? 何?」


「あ…ちょっと…」


 チラッと横目で美都を見た。美都もそれに気づいて気を利かす。


「あ、じゃあ、あたし、少し外してるね」


 ただならぬ空気を察して、ぎこちなく離れて行く美都。二人から少し離れた所に待機する。


 以前、感じた事のある重たい空気に、独特の重圧感が胸にのしかかる。


「あの…実はさ、前から竹宮の事が気になってて、それで今度の文化祭に先約が無ければ、一緒に回ってもらえないかと思って」


 彼は俯いたまま理奈の顔を見ずに話した。



 これはもしや告白されているのでは?


 

 理奈は答えに困った。二週間後に控えている文化祭。クラスの催し物は休憩所に決まり、何もしなくて済む事になっている。それに部活をしていない理奈には確かに予定は無かった。だが、ここで正直に答えてしまっていいのだろうかと悩んだ。予定は無いし、はっきり好きだと言われている訳でも無いのだが、ここで安易に受け入れてしまって、勝手に彼の気持ちが盛り上がって、後で取り返しのつかない事になったらと不安が過る。


「えっと…。少し考えさせて欲しい…かな」


 彼は少し耳を赤くして


「判った」


 と、満足した顔で帰って行った。きっと断られなかった事に、僅かな期待を抱いたのだろう。


「何? どうしたの?」


 美都が興味津々に近寄って来る。


「文化祭、一緒に回りたいって…」


「へぇー! 武田って、理奈の事好きだったんだ? じゃ、2年からずっと?」


 面白がって理奈を冷やかす。


「知らないよ。そんな事まで聞いてない。それに好きだとも言われて無いし」


「何言ってんの。そりゃ告白だって」



 あ…。やっぱり?



 美都の言葉を聞いて力が抜ける。


「で? 一緒に回るの?」


「まだ何とも言ってない」


「いいじゃん、一緒に回ってあげなよ。あたしだって劇部の舞台観に行くしさ、どうせ理奈独りで暇なんでしょ?」


 美都は演劇部のOGとして、舞台の準備を手伝いに行くので、事実その日をどうやって過ごそうかと考えあぐねていた。


「そんな事…。真弓たちと一緒に回ろうかと思ってたもん」


 同じクラスの帰宅部である友人の名を挙げる。


「でも、まだ約束したわけじゃないでしょ? 先約が無かったら武田でいいじゃん」


「そんな勝手に決めないでよ」


 彼氏が欲しいという気持ちに嘘は無いのだが、いざとなると怖気づいてしまう。



 こういうのじゃなくて、もっとこう…映画みたいな…、少女漫画みたいな…、ドキドキして、切なくて……。



 理奈の頭にある顔が思い浮かび、眼には切ない光が広がる。



 ……違う。

 好きだから付き合いたいんだ…。

 ……好きでないから付き合えない。

 ………。



「理奈?」


「あ? うん。へへ…」


 美都に笑顔を向けて、気持ちを切り替えた。



 あぁ神様、さっきの彼氏欲しい宣言は撤回します! まだ自由な身でいさせて下さい。



 決してクリスチャンでは無いのだが、あくまで神頼みをする時の理奈の中にあるイメージとして、心の中で跪き十字を切った。


「あ! もしかしてこれが、赤い糸の相手だったりして…?」


「えっ‼?」



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