第四章 奔放な枷
1
カーテンの隙間から明るい光が零れる。
「…………」
朦朧とした意識の中、昨夜の苦悩がうっすらと浮かび上がる。
あれは現実だったんだろうか? それとも夢…? あたしの運命の相手…。
右手を布団の中から出して目の前に広げてみる。その小指にはa2から貰った銀の指輪が輝いていた。
「……現実だ」
自分で運命の相手を選ばなければならないという重荷に、理奈の胸は苦しくなる。
あと三日…。それまでに答えを出さなきゃ……。
「はぁーっ……」
溜まった不安を吐き出すかの様に大きな溜息を吐いた。
2
気分は最悪だった。
考えなければならない事で頭がいっぱいで、他の事を考える心の余裕は無かった。いっその事学校を休んで、その事だけに集中していたかった。だが当然そういう訳にもいかず、理奈は受験生で、受験生には出席日数というものが成績の次に大事で、逃げ出したくても逃げ出せ無い現実がそこにあった。それと比べたら運命の赤い糸とは、なんて現実からかけ離れた言葉なのだろう。
嫌がる足を引き摺る様にして、何時もの通学路を力無く歩いていると、後ろから声を掛けられる。
「理奈、おはよう!」
元気だけが取り柄だと言わんばかりの笑顔で少年が立っている。
力強い眉毛。眠そうな二重瞼に長い睫毛。キラキラと輝く瞳。笑うと愛嬌のある八重歯が左右から覗く。ワックスをつけたパサパサの短い髪。身長は167センチと低く、女子にはあまり男を意識させずに、親しみを感じさせるタイプだ。
佐藤悠。理奈の近所に住んでいて同じ学校に通う、一つ年下の幼馴染だ。
「何? 元気無いじゃん」
あぁ、ハルには悩みなんて無いんだろうな。もしあるとすれば、今日の昼はどんなパンを食べようかなんて、きっとくだらない事に違いない。昨日まではあたしもその類に近かったのに…。
悩みの無い日々を愛おしむ理奈だった。
そんな理奈の心情には気づく筈も無く、悠は屈託の無い笑顔で理奈を覗き込む。
「どうせ、今日の昼メシは何を食おうか、とか考えてたんだろ?」
それは、おまえだろうがっ!
このデリカシーの欠片も無い男に悩みを打ち明けたところで、何の解決の糸口も見つからないだろうが、打ち明けた事によって気が楽になるかもしれないと、藁をも掴む思いで昨夜の出来事を悠に話してみた。
❋ ✴ ✷
「理奈がSF好きだったとはね。映画の観過ぎだな」
理奈が昨夜の出来事を話して、悠の最初の一言がこれだった。悠は呆れた様に口元に微笑を含み、微量の冷たい視線を送る。
そんな悠の態度に、理奈は顕に感情を顔に出し、悠を無視して足早に歩き出した。
「…………」
やはり話すだけ無駄だった。気が楽になるどころか、悠の無神経な態度に気分を害す。
一方、悠には時々判らない事がある。それは急に理奈の機嫌が悪くなる事だ。何が原因か判らないが、普段普通に二人で会話をしている最中に、突然それは起こるのだ。それに気づき、なんとか機嫌を直して貰おうと、他愛も無い会話で修復に励む。そして今もそうしなければならない事に気づいた。
悠は焦る事も無く、慣れた調子で修復に取り掛かる。
「ああいうのって相手に会った瞬間に、この人が運命の人だ!って、判んのかな?」
「……………?」
「理奈は赤い糸を信じるわけ?」
「……………」
悠に言われて、改めて考えてみる。
いつかは運命的な出逢いがあって、その人と結婚するんじゃないかと漠然と思っていたけど、こういう形で二人いるからどちらか選べと言われてもなぁ……。
「ハルならどうする?」
「うーん、難しいな…」
そう言って、空を見据えて、手を軽く握り口元へ持って行く。悠が考え事をする時の、お決まりのポーズだ。そして、少ししてから答えを出す。
「可愛い方」
と、真顔で答えた。
「もう、いいよっ!」
理奈は真面目に話していた自分が悔しくて、悠を置いて再び歩き出す。
「なんだよ?」
「そういう事じゃないでしょ! 例えば気が合うとか、一緒にいて楽しいとか、そういうのがどうなのかって、そういう事を聞きたかったのに…カワイイとかなんとかそういう事じゃなくてね…赤い糸なんだよ、大事な将来かかってんだよ、ていうか、赤い糸だから外見なんか判んないんだよ…何言ってんのよ、全くデリカシー無いよ…少しはあたしの気持ちも判ってよ…どうしてそうダメなのかね、ハルは小さい頃からそうよ、てか、女の子の気持ち全然判って無いよ……」
理奈の不満は止まらない。足早に歩きながらブツブツと永遠に文句を言っている。
そんな理奈を追いかけて、悠も負けじと自分の意見を言って述べる。
「バカ! 何言ってんだよ」
バカだとおぉぉーーー‼‼
悠の言葉に振り返って、眉間に皺を寄せて目をつり上がらせる。だが、構わず悠は手振りをつけながら話しを続けた。
「目の前に段ボールの箱と宝石が散りばめられた宝石箱、同じ大きさで2つ並んでたらどっちの箱を開けて中を見る?」
「………」
「宝石箱だろ? つまりはそういう事だよ。外見は大事って事だ」
「………」
理奈は眉根を寄せて口を歪ませ、何とも言えない表情をした。
「そうかもしれないけど、でも違う! そうじゃなくて…そこじゃなくて…」
自分の思いが伝わらない事に苛立ち、理奈は一人で勝手に歩いて行く。
機嫌を損ねた理奈の背中を見て、悠は大きく鼻から息を吐いた。
理奈の後ろを着いて行きながら悠は声をかける。
「でもさ、突然現れたって事は、今までと何か変わったって事だろ? 何か思い当たる節はないわけ?」
ん?
足を止め、悠の言った言葉を脳に送り込む。
「ハル頭良いよ! そこを考えればいいんだよね!」
運命の人に、もう既に会っている?
理奈の表情が一気に明るくなる。藁も掴んでみるもんだと諺に感謝し、そして藁にも感謝の意を込めて、その肩に手を置いて力強く掴んだ。
3
第二校舎から体育館へ向かう渡り廊下の途中に自動販売機が二台並んで設置してある。通路を挟んだ向こう側には剣道場と柔道場があり、その道場の前に幾つかのベンチが並んでいる。
理奈たちはお昼休みに何時もここに座って過ごしていた。今日も何時もと同じく昼食を済ませて、買ったばかりの紙コップに入った温かいココアを両手で包み込む様に持って、ベンチに座って話している。
「なんだか、すごい話だねぇ」
隣に座っているのは、河多美都、17歳。
お人形の様にクリクリとした大きな眼、長い睫毛、透明感のある白い肌にうっすらと頬が紅く、ぽてっとした唇をしている。黒く真っ直ぐとした髪は腰の辺りまで伸びていて、キューティクルたっぷりのその髪には、当然の様に天使の輪が輝いている。身長162センチのすらりとしたモデル系だ。
高校に入学して間もない頃、掃除当番で一緒になった時に、当時好きだった芸能人が同じだったという事で、意気投合したのをきっかけに、それ以来ずっと同じクラスという事もあって、今ではお互いに何でも話し合える親友となっていた。
「自分で相手を選択出来るなんて、まさに運命的だけど、その反面、責任重大だよねぇ」
今は受験生という事で部活を引退してしまったが、元演劇部であった美都には少し妄想癖があって、こういった類の話が好きなのであろう。興味津々に聞き入って、大きな目をキラキラと輝かせながら、独り言の様に言った。
「ねぇ、理奈は誰だったら嬉しい? あたしは、ジュリアンだったら最高に幸せ!」
美都の頭の中には、今、ジュリアンの顔が浮かんでいるのであろう。トロンとした目で頬を紅潮させている。
ジュリアンというのはアメリカの映画俳優で、正式にはジュリアン・グリーンといい、二十代前半のブロンド美青年の事で、美都が今一番お熱を上げている相手だ。本人曰く、名前の通り綺麗なグリーンの瞳に一目惚れしたらしい。
美都に誰だったら嬉しいかと訊かれ、理奈の頭に一番初めに思い浮かんだのは、家庭教師の裕弥の顔だった。それで念わず赤面する。
それとは関係なく、美都はずっと話し続けていた。
「それでね、それでね、ジュリアンが映画のPRで来日する時、あたしは花束を持って空港まで出迎えてね、勿論そこには他にも大勢のファンが駆け付けていて、ギュウギュウに押されながらも必死でジュリアンの傍に寄って、ジュリアンはそんなあたしに気づき、何百人もの中からあたしの花束だけを受け取ってくれるの! それが初めての出逢い。で、今度はあたしの方がお金を貯めてロスへ会いに行くの。勿論、そう簡単には会えないんだけど、お洒落なカフェで偶然会ったりして、それが何度か重なって出逢いのきっかけになるの。どう? どう? 素敵だと思わない?」
美都は完全に空想の世界へ行ったらしい。持っているココアをチャプチャプ揺らしながら力説している。
恐らく、実現しないであろうシュミレーションを、本人も決して本気で言っている訳では無いのであろうが、(と、これは理奈の予測に過ぎないが)とても幸せそうに語っている。理奈はそんな美都を見て羨ましく思う。そこには明らかに他人事であるという安心があるからだ。
今朝、悠が言ってた言葉を思い出す。
運命の相手の一人に会っているかもしれない。だが、理奈は今現在、恋愛などしていないし、今迄だって片想いが殆どだ。どう考えてもそんな出会いは思い当たらない。自覚が無く出会っているとするならば、クラスの男子など学校内の者か、いつも利用しているコンビニ、ファストフード店のバイトであろう人物か、それに家庭教師である裕弥くらいだ。
最後に挙げた人物に念わず期待が高まる。しかし裕弥は大人だし、一度もそういう話しはしていないのだが、きっと彼女もいるだろうから、その可能性は極めて低いと、直ぐにリストから外された。
ここまで考えてみたものの、やはり答えは出そうに無い。
隣にいる美都は、あれだけ顔を輝かせてジュリアンとの将来を語っていたのに、在る所に考えが行き着いたのか、今はガックリと首を項垂れている。
周りでは楽しそうに昼休みを過ごしている生徒達が行き交う。その中で座っている二人の姿だけが暗く沈んでいた。
そんな二人は、共にカップの中のココアを見つめ、同時に大きく溜息を吐いた後、ココアを口にしたのだった。
4
お風呂から出て体重計に乗る。針はいつもの数字を指していた。
理奈は不服に思い、目の前の鏡を覗き込む。だが、そこにも何時もと変わらない顔があった。
どうして? 昨日からずっと頭を悩ませているのに、少しも窶れた感じが無いじゃない!
と、不満を顕にした。
それもその筈、理奈は朝、昼、晩と一日三食しっかりと食事を摂っていたのだから当然の事だ。それに、昨日の今日でそう簡単に、人間は変化しないものだ。而も理奈はストレスを感じると食べるという行為で解消するタイプだった。だからこれからは、窶れるどころか、肌の張り良く太ってしまう可能性大なのだ。
理奈は鏡に映っている自分の顔を見て、両手の親指と人差し指で頬の余分な肉を掴み、横に引っ張ってみる。
「いらない肉…」
幸せな事に、自己分析を出来ないでいる理奈は、不純な動機ながらも、この贅肉を落とす為なら、どんな困難にも立ち向かおうと、運命の赤い糸に対する解決の決意を改にするのだった。
「よっし!」
目を輝かせながら、左手でガッツポーズをとり、鏡の中の自分に誓いを立てた。
❋ ✴ ✴
部屋に戻りベッドに寝転がると、今迄の恋について考えてみた。
初恋は小学5年生の時だ。同じクラスの後島健太君。スポーツ万能で他のクラスの女子からも人気があった。
恥ずかしがり屋の理奈は、自分の想いを告白する事が出来ず、後島君に彼女が出来て失恋に終わったのだった。
中学に入り、生徒会長をしていた3年の先輩に恋心を抱いたのだが、先輩には既に彼女がいて、好きだの何だのと舞い上がる間も無く終わった。
3年生になって、同じクラスで隣の席の町田京司と仲良くなり、一緒に下校をしていて、自然と理奈も恋愛感情を抱いていったのだが、或る日二人の仲をクラスの男子にからかわれて、以来彼とぎこちなくなり、次第に会話もしなくなってしまった。
高校生になって、一つ年上のサッカー部の西本良助に興味を抱いたが、接する間も無く、相手が転校してしまった。
2年生の時、以前から気になっていた隣のクラスの藤井規彦に、思いきって体育祭で告白したら、OKを貰って付き合う事になった。これで楽しい学生生活を送る事が出来ると、天にも昇る想いだったのだが、彼は理奈よりも男友達と一緒にいる事の方が多かったし、たまに二人で過ごしていても、彼は口数が少なくて、理奈にはそれが不満だった。次第に会う回数が減って行き、二ヶ月で自然消滅となったのだった。
そして現在に至る。
自分から好きになるばかりで、男の子の方から誘いが無いのかというと、そういう訳でも無かった。
2年生の夏休みにコンビニでアルバイトをしていたのだが、或る日、突然他校の男子生徒から『バイトが終わったら話しがあるから』と、告白された事がある。痩せ型で背が高く、第一印象は綿棒みたいだと思った。
話を聞くと、何時もそのコンビニを利用していて、見ている内に好きになったとの事。知らない者からでも好きだと言われる事に、正直悪い気はしなかったが、相手に少し陰気な空気を感じたので、即答で断った。
相手の事を何も知らないのに、而も好意を持ってくれているにも拘らず、嫌悪に感じて断ったなんてとても失礼な話だが、告白され慣れていない者は、慣れていないが故に、もしされる事があるならば、それなりの理想というものが漠然と頭の中にあって、それとあまりにも形がかけ離れていたが為に、気持ちが退いてしまったのだ。決してジュリアンの様な美青年でなくては受け入れないという程、理想が高いわけでは無いのだけれども…。今考えると、とても失礼で贅沢な話だったと反省している。
理奈は小さく溜息を吐くと勢い良くベッドから起き上がり、机の上に置いてある、ピンクのフレームにビーズが鏤めてある、小さなスタンドミラーを手に取り間近に覗き込んだ。
「……………」
顔全体が映るように鏡を正面に置き直し、背凭れに反り返る姿勢で座った。
濃く、きりりと形の整った眉。二重の目尻が多少上がり気味で猫目っぽい眼。鼻は決して高いとはいえないが、そこは東洋人なのでマイナス点という程でも無いだろう。下唇が多少厚めなのに対して薄めの上唇とバランスの悪い唇。(本人はとても気にしている)髪の毛はさっぱりとしたショートヘア。身長は157センチという平凡な体型。
そう、決して見た目は悪く無いのだ。悪くは無いのだが飛び抜けて良くも無く、平凡と言ってしまえばそれまでなのだが…。だがしかし、平凡な女性でも彼氏のいる人は多々いるであろう。だからルックスで恋愛が出来ない、という理由では無いのだと信じたい。(では内面か? ん??)と、考えを巡らせようとするが、今そこを考えても仕方ないと、直ぐにシャットアウトした。
腕を突っ張って手で机を軽く押し、座っている椅子の後ろ脚に体重を乗せ、前脚をプカプカと浮かせながら、自分の足でバランスをとる。目は焦点の定まらない宙を見つめ、そしてまた赤い糸の事を考え始めた。
『本来結ばれるべき相手と、突如道を外し接近して来た者、どちらを選ぶかは君の自由だ』
昨夜の不審人物の言葉を思い出す。
「どちらを選ぶかはあたしの自由…」
『阻む者を私が始末する』
「阻む者を始末…? 始末って何だろう?」
椅子の前脚を下ろし、机に左手で頬杖を着く。
多分ハルが言ったように、運命の相手の一人ともう出会ってると思う。その人がきっと“道を外して接近して来た者”なんだ。だからa2が現れた。
理奈の頭の中にあって理解出来ないでいた沢山のクエッションマークが、少しずつ一例に並んで行くかのように、現状を把握し始めた。今迄は運命の相手という言葉に舞い上がって、全く事態を呑み込めないでいた。
“本来結ばれるべき相手”とは出会っているかどうかは判らない。これから先に出逢いがあるのかもしれない。もし今、既に出会っている“道を外して来た者”を選んだとしたら、このまま“本来結ばれるべき相手”とは、出逢う事さえも出来なくなってしまうって事なのかな? その逆を選んだら“道を外して来た者”とは知り合いのまま?
そこでa2の言っていた“道を外して来た者”について思い返す。
『中には自分の運命に逆らう者もいてね。他の運命に割り込んでしまうんだ。本来結ばれるべき相手か、それを阻止しようとする予定外の者か…』
そこまでしてあたしに歩み寄ってくる相手。考えようによっては情熱的なのかもしれない。
そう思うと、心の底から熱いものが湧いてくるのを感じた。体を起こして仰け反り、両腕を頭の後ろに組む。
「あぁ、どうしよう!」
そして再びベッドに寝転んだ。
もう一人の相手と会わないままというのも勿体無いし、情熱的な男も捨てがたい。どっちも赤い糸があるなら両方でいいじゃん! 二本がダメってんなら編んで一本にするってのはどう? ん? 二本って事は一度離婚してからまた再婚…? えーっ! それはちょっと嫌だ。全然運命感じないじゃん!
仰向けになり、左右交互に足をバタつかせ、顔を歪めて頭を抱え込む。
理奈の頭の中のクエッションマークが、また列を乱して動き出したらしい。