第二章 始まりの合図
1
「じゃ、また明日」
そう言って、裕弥は玄関のドアノブに手を掛けた。
「ありがとうございました」
理奈は満面の笑みで裕弥を見つめる。
落ち着いた雰囲気のこの青年の名は、麻生裕弥、二十歳。今年の春から理奈の家庭教師をしている大学2年生。少し癖のある短めの髪。整ったアーチ型の眉。二重瞼の大きな黒目が実年齢より幼さを表しており、口角の上がった厚みのある唇は潤いを含んでいる。男らしいというよりは、どちらかというと和らかな顔立ち。身長170センチの中肉中背。服装は、白地に袖が水色のラグランTシャツに、ベージュでハーフのカーゴパンツ。カーキ色のショルダーバッグを肩から斜め掛けにし、黒のコンバースのスニーカーを履いている。見るからに好青年だ。
裕弥はドアを開け、三歩外に出てから理奈に向き直った。
「おやすみ」
清潔感溢れる爽やかな裕弥の笑顔に、理奈の鼓動は反応し、高鳴る。
「おやすみなさい」
心情を裕弥に悟られまいと、無表情を装おうと努めるのだが、声が心に反応し、裕弥を見ているだけで、理奈は無意識に笑顔になってしまう。
裕弥は優しく微笑み、右手を挙げて理奈に振ると体を反転し、その場を去った。
濃紺の透明感のある空に星が疎らに輝き、月は何時にも増して大きく姿を浮上させている。穏やかに流れる風は、何処からか金木犀の甘い香りを運んできて、理奈の心を優しく包み込んだ。
「はぁ…」
金木犀の香りのせいか、胸の奥が締め付けられるように切なくなり、念わず小さく溜息を漏らす。そして、裕弥の背中が小さくなるまで、理奈は手を振って見送ったのだった。
2
机の上に置いてある、ピンクのタイルで出来た小さな置時計を見る。時間は午後10時17分。
今日は17分、麻生さんと長く居られた。嬉しい!
両手を挙げてベッドに仰向けになって倒れ込む。
どんな些細な事でも、理奈にとっては幸せに感じる。さっきから理奈の顔は緩みっぱなしだ。
竹宮理奈、18歳。来年、女子短期大学を受験する高校3年生。
だが、困った事に数学の成績が少々喜ばしく無い。それを心配した理奈の母が、娘の家庭教師をしてくれる人はいないだろうかと、近所の知人に話を持ちかけたところ、裕弥を紹介して貰ったのだった。
それで、火曜日と木曜日の週二回、午後8時から10時までの2時間、数学を教えて貰っている。
当初、家庭教師の話を聞かされた時には、どうにかしてその危機から抜け出そうと頭を悩ませたものだった。
高校を受験する時期でさえも、塾に行く事を避けたのに、学校以外でも教師を付けて、しかも嫌いな数学を勉強するだなんて、考えただけでも頭が痛くなる程の拒絶感でいっぱいになった。
勿論、言われるがままに従順になる気にはなれず、必死で抵抗した。しかし理奈が力説した所で、強硬な母が納得する訳も無く、それどころか『そんな事言って、もし受験に失敗したらどうするの! きちんと社会人としてやっていく程の心構えと大勢が整っているとでもいうの!』と、反撃を受け、何も言い返す事が出来ずに見事なまでの敗北に帰した。そして、渋々と当日を迎えたのだった。
ところが、目の前に現れたのは二つしか歳の違わない爽やかな青年。
それに加え、勉強の教え方も親切丁寧ときている。それで会う回数を重ねて行く毎に、自然と、理奈は裕弥に恋心を抱くようになり、今では週二日の裕弥の来る日が待ち遠しくてたまらなかった。
あぁ、早く、木曜日が来ればいいのに!
先程まで一緒に居て、今別れたばかりなのに、理奈の心の中は、少しでも裕弥を見ていたいという想いでいっぱいだった。
3
勉強を終え、お風呂から出た後部屋に戻り、明日の学校の準備をする為、理奈は机に向っていた。まだ少し湿った髪を気にしながらも、片手で鞄を開け、中に入っている教科書を指で器用に捲りながら、必要の無い物を探している。
すると、ドアの閉まる音が小さく聞こえた。
確か部屋に入る時には、きちんとドアを閉めた筈なのに、どうして再び閉まる音がするのだろうかと不審に思い、後ろを振り返る。
理奈は、ドアの前に異様な光景を目にして、驚いて目を見開き動きを止めると共に、暫し思考回路が中断してしまった。
そこには、全身黒ずくめの服に覆われて、しかも顔には半分が隠れてしまう程の大きなゴーグルを着けた者が立っていた。
その服装は、長袖のカットソーの上に膝丈まである袖の無い詰め襟の上着を着ており、その喉元から腹部にかけてジッパーが閉められ、両方の腰の位置から裾にかけてスリットが入っていた。そしてワークパンツの様なやや幅広なパンツに、安全靴の様な重みのある編み上げブーツを履いている。
一体そんな出で立ちで何をするつもりなのだろうか。新種のパイロットの服か何かだろうか? まだ十月だというのにそんな厚着をしていて熱くは無いのだろうか? ハロウィンの仮装? …にしても、まだ少し早い……いや、そんな事より、こんな夜中に人様の家へ上がり込んで来るなんて、なんて非常識な人なんだろう。
普通、常識のある人ならば、人の迷惑を考え、いくら急用があったとしても、せめて電話で済ますか、あるいは翌日に回すとかするのではないだろうか。きちんとした教育を受けているのならば、それが礼儀というものであろう。それを、ノックもせずに図々しく人の部屋に入って来るなど、失礼にも程がある。と、そこまで考えて不図気づいた。
一体この人は誰なんだろう…。
理奈の思考回路がやっと元に戻り始める。
「あなた、誰?」