第十章 憂いの序曲
1
頭上で鳴っている電子音に気づきa2は目を覚ます。反射的にゴーグルを手にし、それを顔へと持って行く。ボタンを押し、朦朧とした意識で力無く応答する。
「…はい」
「やっと繋がった! 一体、今、何処にいるんだ?」
苛立ちと安堵する感情を抑えながら、上官が問い質す。
訊かれてa2はゆっくりと目を開き、ここが何処なのか状況を把握しようと周囲を見回した。
そこは見覚えの無い部屋で、何故自分がここにいるかも、全く理解出来ないでいた。
「…解りません。他人の部屋です」
「まぁ、位置はいい。こちらで探知する。それより体調はどうなんだ?」
たった今意識が戻ったばかりで、高熱が原因の為か、思考回路が鈍っていた。
起き上がろうとするが力が入らず、体が重くて自由が利かなかった。関節が痛み、痺れた様に皮膚の感覚が鈍い。扁桃腺は腫れ、唾を飲もうとすると耳の奥まで激痛が走り、実際にはその唾も水分を失い、喉は異常に渇いていた。病に拘束された体は、骨折した箇所の感覚をも奪い、重いのか痛いのかさえも解らなかった。それでもa2は気丈に答える。
「…少し体が重いですが、大丈夫です」
上官はa2の声の響きから体調が芳しく無い事を察知した。だが、当人の性格上、弱音を吐かぬ事も理解していた。そんなa2の気を汲んで、敢えてその言葉を受け入れる。
「なら良いが、暫くは無理をしない様に、落ち着くまで休息を取っていろ。それと、住田要の件は完了した。後は自分が動ける様になってから任務を続行してくれれば良い。充分に静養しておけ。判ったな?」
「…はい、了解」
プツッ…と、小さく音がして、通信が途絶えた。
a2は自分の無力さが腹立たしく思えてならなかった。自分が眠っている間に、他の者がその任務を熟し、もう一つの指令に際しては、既に5日を迎えたというのに、苦困して未だに任務を遂行出来ずにいるという。こんな事なら医療部を抜け出さなければ良かったと後悔した。言われた通り素直に大人しく治療に専念していれば、悪化する事無く、これ程まで不首尾に終わらずに済んだであろう。
ただスムーズに事が進まずにa2は気持ちを焦らせていた。それで医療部を出て、答えを訊ききに理奈の所へ行くつもりだった。なのに気づけばこんな事になっている始末。不甲斐ない思いだ。
それに勝手な事をして評価を下げてしまい、これから信用を取り戻す為に、時間を費やさなければならない事が、居た堪れなかった。
ゴーグルを外そうと手を伸ばすと、上着を着ていない事に気付いた。そして先程は気付かなかったが、額には自分の体温で温かくなった、冷却シートが貼ってある。それを左手で剥ぎ取り、そのまま床に落とした。
そこは8畳程のこざっぱりとした部屋で、机と椅子の間に革が擦り切れて汚れた、随分と使い古してあるサッカーボールが置いてあった。その横の壁には外国のサッカー選手のポスターが貼ってある。入口付近の本棚には少年漫画雑誌とサッカー雑誌が並んでいて、横には学生鞄が立て掛けてある。またa2の服も壁に掛けてあった。
どうやらここは男子学生の部屋らしい。
机の上に置いてある時計は午前9時7分を指していた。紺のカーテンが取り付けてある窓の向こうは曇っており、耳を澄ますと雨音が聞こえた。a2が使っているベッドの直ぐ横にある出窓には、恐らく病人に配慮してそこへ置いたと考えられる、未開封のミネラルウォーターが入ったペットボトルがあった。a2は左腕で支えながら上体を起こした。
「っ……!」
胸に激痛が走り呼吸が出来ない。だがそれを無理して体を伸ばし、右手でペットボトルを掴むと、その体勢を長く持たせる事が出来ずに、直ぐにまたベッドへと身を沈めた。荒い呼吸がa2の胸板を上下させる。満足に動けない程、今のa2の体力は弱っていた。そんな惨めな自分に嫌気が差す。
左手でキャップを開け、軽く体を起こすと、水を口に含んだ。その水は渇いた喉を潤し、空腹の体へと染み渡る。充溢する安らぎに生きている事を実感させられ、軽く息を吐くと、また一口水を飲んだ。
そしてゆっくりと体をベッドへ戻すと、額に滲んだ汗を手の甲で拭い、ペットボトルを床に置くと、再び眠りへと落ちた。
2
朝から降っていた雨は止み、昼食を済ませ暇を持て余していた理奈は、情緒不安定で勉強をする気にもなれず、気分転換に散歩をする事にした。ベージュに袖とフードがネイビーのラグランのパーカにグレーのデニム、バーガンディーのスニーカーといった軽装に、何も持たず手ぶらで家を出た。そして目的を持たずに足の赴くまま、川沿いの道を歩く。
考えたい事があるはずなのに、実際それについて考えようとすると、脳がそれを拒否するかの様に、頭の中には何も浮かんでこない。その顔の表情も生気が失せて沈んでいた。
静かに流れる風は、先程まで降っていた雨の匂いと草の匂いを運んでくる。こうして頭の中を空にして、風に吹かれるのは心地好い。乱れた心も次第に落ち着いてくる。
「理奈! 何処へ行くんだ?」
呼び止められて声の聞こえた方へ視線を向けた。
「あ、ハル…」
そこには黒いジャージ姿で、抹茶色の傘を持って、大きな2 way バッグを肩から斜めに掛けている悠がいた。
「別に何処にも…。ただの散歩だよ」
「散歩?」
「そ、気分転換に」
「付き合おうか?」
「………」
理奈の暗い表情を見て心配し、悠はそのまま散歩に付き合った。
「オレ、昨日、人を拾ったんだよね」
「えっ?」
突拍子も無い事を言い出す悠に、理奈は目を見開いて驚いた。
「神社の下の道路があるだろ? そこで蹲ってて、顔色が悪いから救急車を呼ぶって言ったら止めてくれって言うし、雨は降ってくるし、でもそのまま放って置く訳にもいかないじゃん。だから家に連れて帰ったんだよ」
「そんな見ず知らずの人、危ないよ。警察に連絡した方が良いんじゃない?」
「んー…」
悠は右手を口元に当てて暫し視線を伏せ、少ししてから口を開いた。
「でも、その人怪我をしてたし。そんな危険人物にも見えなかったよ」
「怪我をしてたら尚更だよ。何かの事故に巻き込まれたのかもしれないよ?」
「だとしても、ちゃんと手当はしてあるんだよ。だから何か訳ありなんじゃないかな…」
何言ってんの⁉ 訳ありを泊めるなよっ!
本当にその人物が善良なのか不確かな事なのに、疑念を抱かずに呑気な事を言っている悠に、多少の苛立ちを湧かせる理奈。
「家の人は? 反対されなかった?」
「実はまだ内緒」
「えーっ⁉ 大丈夫なの⁉」
「適当な事言ってゴマカシてる」
「そんな呑気な事言って、何かあっても知らないからね!」
お人好しな悠を心配して、少し呆れた口調で言った。
二人はのんびりとした歩調で10分程歩くと、軈て小さな屋根付きの停留所へ辿り着き、そのベンチに腰を下ろした。
「そういえば今日、練習試合だったっけ? どうだった?」
訊かれて悠は右手でピースサインを出し、それを嬉しげに理奈の目の前へと突き出した。
「2−1で勝った! しかも2点目は、後半38分にオレが決めたんだ。すげぇだろ? オレもやるときゃやるよ!」
満面の笑みで得意げに話す。
悠はスターティングメンバーの背番号6。ポジションは中盤の右側で、ポジションからして多くは敵の持つポールをカットする事と、味方へのパス回しをするのだが、今日は久しぶりにシュートのチャンスを貰い、見事にゴールを決めた。
「そっか、良かったね」
悠の活躍を喜んでくれてはいるものの、その言葉に力は無かった。
悠はいつもと違って元気の無い理奈に気づいていたし、その原因も大凡察しがついていた。恐らくその原因とは、一昨日街で出会ったあの人物だろう。
以前、理奈から大学生の家庭教師に勉強を教わっていると聞いた事があった。それがどんな人物か実際には会った事は無かったが、何故だか一昨日の人物がその家庭教師だと感じた。そしてその後の理奈の様子からして、きっと彼に好意を持っているのだと気づいた。隣に女性を連れていたのが、落ち込んでいる理由であろう。悠は柔らかな物腰で理奈に真相を訊いてみる。
「この間の奴の事が気に掛かってるんだろ?」
「えっ?」
言われて理奈の心臓は大きく音を立てて反応した。
「あいつ、理奈の家教だろ? あいつの事好きなんだ?」
「………」
悠の言う事は当たっていたが、それには答えずに視線を伏せた。
幼い頃から知っていて、会えば喧嘩腰になってしまう悠には、今回本気なだけに気恥ずかしくて、こういう話はしたくなかった。
悠は何も言わない理奈に、この事についてまだ触れてもいいものか迷ったが、もう少し追及してみる事にした。
「相手に気持ちは伝えたのか?」
「ま、まさかっ! そんな事できないよ!」
念わずむきになって否定した。そんな赤面しながら張り詰めた顔をしている理奈を見て、その気持ちが本気なんだと悠にも伝わった。
「なんで? 家教だからか? それとも女がいるから?」
「………」
訊かれて理奈は言葉に困った。裕弥に対して一言では言い切れない複雑な想いがあり、それで想いを告げるのを躊躇っていたからだ。
もし、告白して断られても、その後も麻生さんとは週二日会わなければならないし、気不味い雰囲気になったり、今迄の様にはいられなくなったら怖いもん。
それに麻生さんは大人だし、あたしの事なんてきっと相手にしてくれないよ。
最近、彼女がいないって聞いたけど、それまでは絶対に彼女がいると思ってたし。なのにこの間は女性と一緒にいたし…。もしかしたらもう彼女ができたのかもしれない。
様々な想いが理奈の胸に湧き起こり混乱した。とにかく告白するにも理奈にはタイミングと勇気が必要で、今はまだその両方が備わってはいなかった。
「ハルには判らないよ…」
その言葉に悠は気分を害した。理奈が落ち込んでいるから気持ちを楽にしてあげようと話を訊いているのに、自分の気持ちを話さず、尚且つ、お節介は止めてくれと言わんばかりに、悠を突き放す言い方をする。その事が悠には気に入らなかった。
「あっそ。で? そいつの何処に惚れたわけ?」
半分投げやりな口調になる。
「え? 何処って…」
訊かれて再び答えに困った。勉強を教えてもらって、気づけば何時の間にか好きになっていた。初めははっきりとした理由があったのだろうが、今改めて訊かれると、それも思い出せない。だが好きという気持ちは確かなものだった。
「それは…優しいし、落ち着いてて大人だし…。他にも沢山あるけど、上手く言えないよ」
「ふーん」
何処かで聞いた事あるような、在り来たりな事を言うな…。女は皆そんなのが良いのかな…?
「そういうのがタイプなんだ?」
「べ、別に、タイプってわけじゃないけど、ただ好きになった人がそういう人だったってだけよ」
耳を赤く染めながら俯いた。なんだか悠に知られたくない秘密を話した気がして、顔が上げられなかった。
そんな好きな人の話をして恥ずかしがっている理奈を見て、悠は不思議な感覚に捉われた。思えば今迄二人で恋愛話なんて滅多にしなかったし、(先日、恋愛経歴を問い質されたのは、悠にとっては恋愛話には程遠い、尋問みたいなものだ。)こんな理奈の顔を見るのは初めてだ。悠の心の何処かに閑散とした感情が芽生える。
「理奈も案外普通だな」
「えっ?」
悠はベンチから立ち上がり、両手を腰に当てる。理奈はその姿を仰いだ。
「どういう意味?」
「別に。ただ、他の女と変わらないって事」
少々、意地悪な笑みを含み理奈を見下ろす。その言葉の口調に理奈は不愉快に感じ、念わず感情的になった。
「何、それどういう意味? 普通だよ。みんなだって普通でしょ」
立ち上がって悠に迫り寄る。
「別に意味なんて無いよ。ただそう思っただけ。どっちみち悩みは早く片付けた方がいいよ。理奈が暗い顔してるとそれが伝わって、こっちまでジメっとしちゃうから嫌なんだよ。じゃあな」
言って、悠は大きな荷物を右肩に担ぎ、左手を理奈に向けて広げた。
「え? 行っちゃうの? 散歩に付き合ってくれるんじゃなかったの?」
「ごめん、オレも忙しいんだ。ほら、怪我人が待ってるから薬局行かなきゃ」
悠は素っ気無く言って去って行った。
「なによ…。冷たいな」
悠が帰ってしまったので急につまらなくなって、理奈も散歩を中止して家へと戻る事にした。
3
「ただいま!」
家に帰って来た悠は、玄関の扉が閉まるか閉まらないかという間に靴を脱ぎ捨て、足早に中へと入って行った。
部活で汚したユニホームとタオルをバッグから取り出し、脱衣所に置いてある洗濯機の中へ放り込む。泥だらけになった靴下を脱いで、それを脱いだ靴下専用の籠へと入れた。洗面所で手と顔を洗うと、廊下にバッグを置き去りにしたままリビングへと入り、そこを通過してキッチンに向かった。冷蔵庫を開け枕型のジェル状冷却剤を出す。
「ああ、お帰り。どうだった、試合?」
勝手口から入ってきた母の育代が帰宅した息子を見て、部活の試合結果を訊ねた。
「まかせて、2−1で勝った!」
得意げにピースサインをして見せる。
「おー、良かったね! じゃあ、お祝いしなきゃね。夕食何がいい?」
「しゃぶしゃぶ」
「しゃぶしゃぶ? じゃあ、豚ね」
「ブター⁉」
眉を反り返して不服な顔をする。
「何? 豚だって野菜と一緒に胡麻ダレで食べると美味しいじゃないの。おまけとしてアイスかプリンね」
「いちごアイス! レディーボーデンで!」
「良かろう」
「うっし!」
喜んで小さくガッツポーズをする。
「買い物に行って来なきゃね。シャワーで汗流しておいで。」
頑張った息子を労い、雨の降る中で試合をしたのを気にして言った。
「ねぇ、上は見てくれた?」
悠は左手の人差し指を立てて、自分の部屋の方向を差す。
「うん。二回程覗いてみたけど、眠ってたからそのままにしておいたよ」
「ふーん」
まだ眠ってんだ? 大丈夫かな? やっぱ病院へ連れて行った方がいいかな?
牛乳をコップ一杯飲んでから、廊下に置いていたバッグを手にすると、二階の自分の部屋へと上がって行った。
昨日、怪我人を連れて帰って来た悠は、家族と共に生活している以上、親に黙って自分の部屋に人を招く事など出来ず、しかもそれが道で拾った見ず知らずの者だと言える筈もなく、サッカー部のOBを連れて来たと偽った。
何故そういう事になったのか経緯を訊かれて、ああだこうだと適当な話をその場ででっち上げた。人間、窮地に立った時はスラスラと口からデマカセが出るもんだと、その時初めて知った。
そしてそのOBは風邪を引いている為、自分が試合に行っている間、母親にたまに様子を見てくれと頼んで、外出したのだった。
扉を開けると部屋は静かで、その者は出かける前と変わらず、ベッドに動かず横たわっていた。まだ眠ったままらしい。それで起こさぬ様にと気遣って、音を立てないように扉を閉めた。
そして薬局で買って来た風邪薬と解熱鎮痛薬、ゼリー状の栄養補給飲料をバッグから取り出し、ベッドの傍の出窓に置いた。
ベッドの脇の床に、水量が減っているペットボトルと、朝、出掛ける前に額に貼っておいた冷却シートが、剥がされて落ちているのを見て、一度は起きている事を確認し安心する。
冷却枕が冷たく感じ過ぎない様に、それをタオルで包み、寝ている怪我人の頭をそっと持ち上げ、首の下にそれを敷く。そして床に置いているペットボトルを出窓に置き、シートはゴミ箱へと捨てた。
悠がジャージから私服に着替えている所だった。人の気配に気づいて怪我人が目を覚ます。首の下には冷たい物があり、目の前には見慣れた少年が立っていた。だが、直ぐには口を開かず、暫くそのまま様子を窺っていた。
悠は脱いだジャージを拾い、不意にベッドへと視線を向けた時、怪我人が目を開けている事に気づいた。
「あっ…」
何を話せば良いのか戸惑い、言葉に困った。
「えっと…、大丈夫? 辛い?」
「………」
怪我人は悠を警戒しているのか、何も答えず凝視している。
「あ…、もしかして覚えてないとか? 道で蹲ってて、救急車を呼ぶなって言われたから、家へ連れて来たんだけど…」
悠の厚意に感謝して、怪我人は素直に礼を述べた。それで緊張していた悠も、少し表情を解した。
「何か欲しい物ある?」
「水」
言われてペットボトルを渡す。水を飲む為に体を起こす怪我人に、悠が手を貸してあげる。
「薬はそこに置いてあるから。食欲が無いかもしれないけど、一応、栄養を摂った方がいいと思って、そういうゼリー飲料もそこにあるし、何か食べたい物とかあったら作るけど? お粥とか?」
「ありがとう。でも、今はいい」
「そっか、じゃあ、何かあったら声掛けて。オレ、下にいるから。家族にも適当な理由をつけて…あ、えっと、サッカー部のOBって事にしてあるから。そこは適当に合わせてくれたらいいし。遠慮しないで」
見ず知らずの者と、この部屋にいるのも落ち着かないし、きっと相手も静かにしていたいだろうと察し、怪我人を残して悠は部屋を出た。
部屋に残されたその人物は小さく息を吐き、深々と布団へ潜ると再び目を閉じた。
4
ベランダのある南側のガラス戸が小さく音を立てて開き、紺色のカーテンが風に揺れる。
机の上の時計は、午前1時49分を指している。天は黒い衣を羽織り、街は既に静かな眠りへと就いていた。にも拘わらず、そのカーテンの裾から黒い靴が覗き、冷たい風と共に部屋の中へと忍び込んで来た。
ベランダから侵入して来たその人物は、住人に気づかれない様に、充分に注意を払い、足音を消して接近する。そして床に布団を敷いて寝ている悠を見て、眠っている事を確認すると、ベッドの横へ立ち、a2を覗き込んで額に手を当て体温を計った。
その手の感触にa2は目を覚ます。
「お前…!」
驚きの余り念わず声を漏らす。
話し声で、横で寝ている悠が起きては困るので、その者は慌てて自分の口に人差し指を押し当てて、a2に声を抑える様に促す。
二人して悠を見た。
幸い、今日の練習試合で疲れていた悠は、侵入者が部屋にいる事やa2の声には、目を覚ます事もなく熟睡している。
その姿に胸を撫で下ろす二人。
「どうしてここに?」
悠を起こさぬ様、今度は声量を絞った。
「上官に訊いて来たんだ。初めにお前を発見したのは自分だし、お前が医療部を抜け出して、行方が判らなくなった事を聞いて、気になってね。連絡が取れて居場所が判明したから、様子を見に来たんだ。どうだ?」
頼もしい笑顔の反面、その眼には哀矜の光を含んでいた。
それはa2を心配して訪れたJ168だった。
「ああ、少しは楽になった」
夕食に玉子粥を作って貰い、その後、解熱鎮痛薬を服用したa2の症状は、扁桃腺はまだ痛むものの手の痺れや冷や汗は無くなり、熱が多少下がってその分だけ楽になっていた。
「そうか。で、どうする? 連れて帰ろうか?」
J168の言葉によって心に苦いものが広がる。
「…正直、医療部には戻りたくない。こんな失態を晒して、のこのことは戻れない」
「じゃあ、お前の部屋か?」
「………」
a2は計策していた。
ディスポウザーには段階があった。ベテランや成績優秀な者には多少の自由が与えられ、住む場所も本部の許可が得られれば、個人で生活する事が出来た。だが、それ以外の者は、司令室のある本部とは目と鼻の先の第二棟で、直ぐに本部に向かえる様、他の部所の者やディスポウザーを含めた寮の様な場所に居た。
a2はまだ若く、第二棟から離れる事を今は許されていなかった。だが成績優秀な為、一人部屋を貰えていた。それが唯一の救いだ。(因みにJ168は二人部屋だ。)そこへ戻った所で、医療部へ戻るのと大差はない。
それに意識は戻ったものの体を動かすのはまだ辛かった。いっそのこと病人を装って、ここで厄介になった方が得策ではないだろうか。
J168は躊躇しているa2を見て、別段に急かせるつもりも無かった。
「まぁいい。とにかくゆっくり休めよ」
「え?」
理由を訊いて来ないJ168に少し驚いた。だが、何かを感じ取ってくれたのだろうと信用する。それより、a2はずっと気に掛かっていた事を訊ねた。
「19歳の専門学校生の所へ出向かなければならなかったが、それが出来なかった。あの任務は誰が片付けたのか聞いてないか?」
J168は数日前、帰宅途中で見かけたあの光景を思い出す。そして来る前に、上官からa2の状況を聞いており、その問に対しても正直に答えた。
「ああ、あれはE33が片付けたらしい」
「………」
E33とはベテランのディスポウザーだ。その者に自分の仕事の始末をして貰ったと聞いて、何故だか劣敗感を生じた。それでa2の顔が曇る。
「それで、彼は何処にいたんだ?」
「どうやらサークルの仲間と温泉へ行っていたらしい。帰って来た翌朝、学校へ向かう所をE33が接触したんだと」
「………」
温泉か…。いくらデータ通りに探しても見つからない筈だ。
予想外な居場所に、探し出せなかった悔しさが込み上げてくる。
J168は眉間に皺を寄せるa2の顔を見て、完璧主義なだけに他人に仕事を取られた事を悔やんでいるのだと直ぐに察知し、それを宥める為に口を開いた。
「もう済んだ事だ。今は任務の事は考えず、静養に専念しろよ」
「………」
J168の言いたい事は伝わっていたが、その言葉の中に同情が垣間見え、素直に返事が出来なかった。
「それとコレ」
J168はポケットから二つ折りした小さな白い紙袋を出して、a2のお腹の上にポンと投げる。
「解熱鎮痛薬と骨折に効くサプリ。乳製品と糖分をよく摂れだって」
医師から預かってきた内服薬だった。
「じゃあ」
そう言って右手を軽く挙げると、J168は入って来たベランダから出て行った。
✵ ✴ ❉
a2は天井を凝視して、これからについて混沌と思いを巡らせた。そして横にいる悠の寝顔に視線を向けた。
ここでゆっくりしている場合ではないな…。
そう考えると、重たい体を無理にお越し、出窓に置いてあるゼリー状の栄養補給飲料と水の入ったペットボトルを手に取った。そしてゼリー飲料を一気に体内へと送り込み、一息ついてから解熱鎮痛薬とサプリを服用した。
明日はヨーグルトとジャムを要求してみよう…。
これから予測できる結果に感化されぬよう、a2は改めて無情に徹する誓いを立て、再び眠りに落ちたのだった。




