89.彼は乗れない。
この世界における大陸の移動手段としては主に3つのものが挙げられる。
それぞれ空間魔法、馬、そして徒歩だ。
緊急時や身分の高い者、そして資産家が用いる移動手段が空間魔法である。
空間魔法による移動は安全かつ短時間だが、空属性を持つ者が稀なのだから庶民が気軽に利用することはできない。
おそらくクラリネスが王都の中央学院に向かう際には空間魔法が利用されることだろう。
では次に考えられる手段は馬になるのだが、この馬にもいくつか種類がある。
商人の移動や乗り合い馬車において使われている馬は通称ブラウンホース。
この馬は移動に適してはいるのだが、ブーレル同様に魔物化しないよう厳密に管理されている。
街に入る際には必ず行政発行の年齢証明書が必要であるし、法律で定められた年齢を超えてブラウンホースを所持している場合は厳しく処分される。
自然とブラウンホースは高価になり、商人でもない一般庶民が個人利用するには適さない。
乗り合い馬車は一般庶民向けに見えるが、こちらもやはり富裕層向けだ。
壁の外には魔物や場合によっては盗賊など、命を脅かす危険が数多くあるのだから乗客の身を守るという意味でも、高価なブラウンホースを無駄にしないという意味でも、安全を確保し商売として成り立つレベルでの武装をすることになる。
いかに乗客同士で負担し合うとはいえ、必要となる費用は富裕層でなければ払えないだろう。
では、一般庶民が移動する際に使用するものが何かと言えばそれは徒歩、というわけでもない。
人が徒歩で移動できる距離など限られている上に体力も大きく消耗するため、歩いて旅をしようものならば何らかの被害に会うことはほぼ確実だ。
一般庶民が街を移動する際に使用するのは通称グレイホースと呼ばれている。
このグレイホースはブラウンホースのように移動に適した馬ではないのだが、魔物化しないという特徴がある。
グレイホースの寿命は10年に満たないため、体格に比べて寿命が短く魔物化するよりも早く死を迎えるのだ。
そして寿命が短いからかブラウンホースと比べると残す子孫の数が多く、魔物化対策をする必要もないことと合わせてコストは少なくて済む。
いくら移動に向かないとはいえ徒歩よりは優れていることから、一般庶民はグレイホースを借りて移動するのだった。
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挨拶を終えた翌日に商店街で旅に必要なものを幾らか購入し、更にその翌日となる出発の朝にベルナディータさんを神殿へと迎えにいくと、そこには彼女の他にもう一人男性神官がいた。
灰色のローブを身にまとった彼は、一度頭を下げた後に口を開く。
「あなたが神官ベルナディータの見聞の勤めに助力を申し出てくださった冒険者ですか。信心深き行いに深く感謝致します。実力のあるお方と聞いておりますが、なにとぞ神官ベルナディータのことをよろしくお願い致します。」
随分と消極的な申し出があったものだが、確かに申し出たと言えば申し出たのだろう。
必ずベルナディータさんを無事に王都まで護衛することを彼に約束した俺は、次に正門近くにある厩舎へと向かった。
厩舎独特の匂いが風に乗って流れてくる中、そこに並ぶグレイホース達の世話をしている男性へと呼びかける。
「すみません、王都に向かうための馬を一頭貸してもらえないでしょうか。」
「いらっしゃいませ。それはもちろんかまいませんが、一頭でよろしいので?」
馬の世話を止めてこちらへとやってきた男性は、俺とベルナディータさんを見ながらそう尋ねた。
確かにグレイホース達は俺の記憶にある馬よりも一周り以上小さく、二人乗りをするには頼りないように思える。
「えぇ、一頭でお願いします。」
「そうですか?そうおっしゃるなら止めませんが、グレイホースで二人乗りをするつもりなら極力速度は出さない方がいいですよ。すぐに潰れてしまいますから。ここで金貨10枚を支払っていただいて、王都の厩舎まで戻して頂ければ金貨6枚はお返し致します。」
さすがに何が起こるか分からないため、後で保証金が返ってくる仕組みのようだ。
俺は男性へと金貨10枚を渡した後、厩舎へと向かった彼を横目にベルナディータさんに話しかける。
「ベルナディータさん、申し訳ありませんがグレイホースの手綱を握ってもらっていいですか?」
「えぇ、かまいませんよ。見聞の勤めを果たす前に馬の扱いも覚えますので。」
男性が連れてきたグレイホースの手綱をベルナディータさんに受け取ってもらい、そのまま正門へと移動した。
女性神官に馬の扱いを任せたことに驚いた顔をされたのだが、俺が手綱を握るわけにはいかないのだから仕方がない。
正門はこの街で主に利用されている門とあって、出口と入り口が区別されていた。
初めてデルムの街を訪れた時とは違って今度は外に出ていくのだから、あの時のように門番に警戒されることもなく門へと辿り着いた。
審査も難しいものではないためギルドカードを提示して、街での犯罪歴等が確認されるのを待っていると、向かい側にある入り口担当門番の詰め所から視線を感じた。
そこには幼気な少年を疑った例の門番がいたため、近付いてみると彼は口を開く。
「何だ、あれからそう月日は経っていないがもう街を出るのか?」
「はい。以前説明した目的通りに冒険者になることも出来ましたので。」
俺がそう返事をすると、彼は少しバツの悪そうな顔をした。
「知っている。お前の活躍は耳にしているし、あの闘技会場には家族と一緒に俺も居たからな。領主様のご息女を救うような人物を疑って悪かった。」
「気にしないでください。門番としてはとても正しいことだと思いますから。成人していない少年に対しても容赦のないその疑り深い目で、これからもお仕事を頑張って下さい。」
「本当にいい度胸だな。お前こそ次に向かう先で仕事熱心な門番にまた疑われないように気をつけることだ。」
俺たちはお互いに薄く笑いあった後に、やがて握手を交わしたのだった。
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デルムの街から王都までの道が全て整備されているわけではないのだが、門を出てすぐに荒い道が広がっているわけでもないため、ある程度整った道をしばらくの間歩いた。
やがて正門が遠目に確認できる程に離れた頃、何も尋ねずにいてくれたベルナディータさんへと告げる。
「そろそろ本格的にいきましょうか。ベルナディータさんはグレイホースに乗って下さい。」
「それはかまいませんが、セイランスさんはどうなさるのでしょうか。私はあなたの信仰心に頼る身、多く口出しするつもりはありませんが私だけ乗ってもあまり意味がないかと。」
「確かにそうなんですが、これは実際に見せた方が早いですね。『アースポール』」
土に手を当てて柱を作り出した後、まずはベルナディータさんに手綱をそこへと縛るように伝えた。
彼女が怪訝な顔をしながらもそうするのを見届けた俺は、距離を取っていたグレイホースへと近づいていく。
穏やかな性格をしているはずのグレイホースは次の瞬間に警戒する声を上げながら俺から遠ざかる方向に走り出した。
おそらくベルナディータさんに手綱を握らせたままだったならば、彼女は引きずられながら荒野を駆け抜けていただろう。
「これは一体どういうことなのでしょう。」
「細かい説明は抜きにしますが、簡単に話すと俺は動物から嫌われているんですよ。さすがに目に入った瞬間という程でもないですが、近づいていけば高確率で逃げられます。」
「あぁ、どうかご自分を責められぬよう。動物に嫌われようとも神があなたを見捨てることはありません。ゼファス神の愛は遍く者に注がれているのです。」
そう言いながら彼女は腕をクロスさせているのだが、とりあえず俺も祈りを捧げておけばいいのだろうか。
小さい頃に動物に襲われて獣耳の能力を学ばされた俺だが現在の年齢は約14歳であり、三次成長もほぼ終盤である。
そうなると、生きる動物避けとも言える幻人の性質も十分に発揮されているのだ。
無論俺が一人いたところで周囲に動物が絶対に寄り付かないということはないのだが、少なくとも近付こうとすれば嫌がって逃げ出すくらいの反応は示すらしい。
「こういう事情なのでグレイホースにはベルナディータさんだけが乗って下さい。」
「事情は分かりましたが、それだとやはりセイランスさんは徒歩ということでしょうか。」
「いえ、徒歩じゃありませんよ。人には徒歩以外にも素晴らしい移動手段があるじゃありませんか。」
俺は軽く準備運動をしながら、怪訝な顔を浮かべるベルナディータさんにそう告げた。