side.アナベラvs灰蛇-発揮-
───もぐもぐ、もぐもぐ
アナベラの部屋の前に設置されている長椅子でクッキーを口一杯に入れて頬を膨らませたモニカは、一生懸命に咀嚼をしながら地面に届かない足をぶらぶらとさせていた。
やがて部屋の扉が開いて中からアナベラとコンラートが出てくると、口の中のものを飲み込んだ彼女は手元に残っているクッキーとアナベラたちの間で視線を何度か行き来させ、やがてクッキーを一枚ずつ手渡した。
「これは私の。だけどアナベルお姉ちゃんとコンラートお爺ちゃんにもあげる。」
「おお、モニカじゃないか。これを儂にくれるのか。嬉しいのう。」
「待っている間暇だろうと用意させたのは私なんだけどねぇ。」
そう呟いたアナベラは、本当に嬉しそうにクッキーを口に運んだ後にモニカの頭を撫でるコンラートを見て思わず頬を引きつらせた。
「全く、先程までの面倒な爺さんはどこにいったのかねぇ。そもそも、私は幼い頃に優しくされた記憶がないんだが。」
「まぁ、そう言うなアナベラ。儂ももう歳ということだ。カルメラ様には厳しくあたるように言われているが、この歳になるとどうしてもな。」
若い頃のコンラートであればそれこそ子供が泣きながら許しを請うても容赦なく模造剣を振り下ろす程であったが、そんな彼も今では随分と甘くなった。
無論訓練の際に手を抜いているわけではないのだが、子供に対して昔のような厳しさを見せることはほとんど無い。
失われていく気力、衰えていく体力、病んでいく臓器、そういったものを自覚する歳になってみると、自分とは真逆のものを持つ子供たちが随分と眩しく感じられるのだ。
まるで公園で遊ぶ子供たちを眺めている老人のような顔をしているコンラートに、アナベラは溜息を吐いた。
「おいおい、その穏やかな感情をもう少し私に向けてはどうなのかねぇ。」
「ふむ、後20年もすればお主のような年齢の者たちにも似たようなことを感じるのかもしれぬが、その時にはお主も40を超えておるだろう。諦めることじゃ。」
コンラートは悪びれもなくそう言うと、モニカの頭をもう一度撫でた後にその場を去っていった。
会話を聞いていたモニカは、その感情の乏しい顔をアナベラへと向ける。
「アナベルお姉ちゃん、コンラートお爺ちゃんは優しくないの?」
「いや、お前たちにとっては優しいということでいいさ。それよりも、早速だがこれからのことについて話がある。バジル!」
アナベラがそう言ってバジルの名を呼ぶと、部屋の外で人が動く気配がした。
物音を立てたわけでも無ければ存在をアピールしたわけでもないのだが、アナベラは当然のように部屋の外で待機しているバジルに気づいていた。
とはいえ普段彼女と共に行動する機会の多いバジルにとっても慣れた出来事であるため、特に動揺を見せずに彼は扉を開けた。
そして彼女の顔を視界に入れると、勢いよく頭を下げる。
「姐さん、この度は勝手な行動失礼いたしやした。どんな沙汰でも受け入れます。」
「バジル、私がそんな小さな人間に見えるのかねぇ。頭を上げな。」
アナベラにバジルを責めるつもりはないため、そう言って頭を上げさせた。
確かにコンラートとの交渉という観点からみればバジルはアナベラの不利になる行動を取ったが、組織全体としてみれば必要なことだった。
また、護衛など要らないと主張するアナベラに頑なに反対したのがバジルであり、彼がいなければおそらく彼女は今頃命を落としていただろう。
そういった意味では彼のように時に疎まれることを覚悟してでも、動いてくれる存在というのは貴重だ。
「私はお前を頼りにしているし、これからも支えて欲しい。それが全てだ。」
アナベラはそう告げた後に、まだバジルが知らない今朝のベルナディータとの会話と、先程のコンラートとの対談について説明を始めた。
アナベラの言葉を聞いて最初は感極まった様子のバジルだったが、現在自分が求められている役割を果たすためにすぐに頭を切り替えた。
自分は彼女の意に反してでも必要だと思ったことを行い、そして彼女はそれを受け入れた。
ならば自分がするべきことはこれ以上の謝罪でもなければ感動することでもなく、彼女の力となることだろう。
「現状はこんなところだねぇ。嬢ちゃんには随分と迷惑をかけることになりそうだ。」
「そうですね。ルベリさんから聞いたことがありますが、確か情報に関するゼファシール教の戒律は相当厳しいでしょうに。」
情報に関するゼファシール教の戒律には宗教的な意味合いは勿論の事、現実的にも重い意味がある。
宗教的には徒に下界が乱れることを望まぬ神の意志に従い、得た情報を無闇に拡散して世を混乱に陥れることがないように。
そして現実的には、戒律に基づいた情報管理を行うことで信頼を得る、という側面があった。
かつてゼファシール教が持つ情報を無理に引き出そうとした国が滅びたという過去は、今でも大きな抑止力として働いている。
だが為政者にとってゼファシール教が各国で様々な情報を収集する危険な組織であることに変わりはなく、可能性は低いが全ての国々が足並みを揃えて排斥に乗り出せば確実に迫害の憂き目に遭うだろう。
そのような中で為政者たちが危惧するような事態を引き起こさないという保証となっているのが戒律であり、例えどのような理由であれそれを破ることは許されざる行為だ。
それ故に今回のベルナディータのような戒律すれすれの行為は忌み嫌われているし、一歩間違えれば彼女の身だけでなく祖父の進退にまで影響を及ぼしかねない程だった。
「あの娘のことを考えると、極力余計な勢力に関わらせないのがいいでしょう。」
「あぁ、分かっているさ。スラムの勢力だけでけりをつけるつもりだし、騎士団の力を借りるつもりも無い。」
今回の一件に関してアナベラは青銅騎士団の助力を得る事も出来るが、彼女にそのつもりは毛頭無い。
灰蛇の居場所に関する情報を現時点で持っているのはセイランスの依頼を受けて調査していたゼファシール教だけであり、ベルナディータは危ういところで助力してくれるのだ。
そのような状況で青銅騎士団が関われば彼女の身を危うくしかねないことは明らかであり、更に付け加えるならば騎士団という柔軟性の低い大規模な組織が動けば灰蛇にそれを察知される可能性は飛躍的に上昇するだろう。
青銅騎士団が持つ人員や戦力自体は確かに魅力的かもしれないが、それも今のアナベラならば大きな問題ではなく、総合的に見れば青銅騎士団の動員はメリット以上にデメリットが大きかった。
「そういうわけだ、バジル。明日には幹部連中を集められるように、今すぐ奴らと連絡を取ってくれ。実際に動けるのは早くても3日後かねぇ。」
「すぐに取り掛かります。姐さんの功績に関しては少なくとも彼らには広まっていますから、全員とは言えませんが何とかなるでしょう。」
アナベラの指示に対して、バジルはそう返事をした。
これまでのアナベラであれば、彼女が直接指示を出したところで翌日の緊急招集に応じる幹部はほとんど居なかっただろう。
だが今ならば見定める意味も込めてそれに応じる者たちは相応に存在するはずであり、集まった者たちが揃ってアナベラに手を貸さないとは考えにくい。
「私もこれから少し外に出てくる。手配が済んだらまた戻ってきてくれ。」
「お任せください、姐さん。」
立場を向上させた今も変わらずに自分を側近として扱うアナベラに、バジルはそう返事をして頭を下げた。
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アナベラとバジルが再び合流したのは、地球で言えば16時頃を示す7の鐘が鳴った後のことであった。
「姐さん?」
労働者にとっては仕事の終わりが近いことを示す鐘であり、どこか弛緩した空気が漂う街を歩いてきたバジルは部屋に戻るなり唖然とした。
腕を組みながら椅子に座っているアナベラの格好は、どう見ても一日の終わりを素直に受け入れるものではなかったのだ。
「姐さん、その格好は?」
「今夜にでも灰蛇を襲撃するっていうのに、普段の格好じゃ全力を出せないだろう?」
答えているようで全く答えになっていないアナベラの返事を聞いて、バジルは手を眉間に当てた。
眼前のアナベラは黒で統一された伸縮性の高いスーツを身に着けており、動きを阻害しにくいそれは確かに彼女の戦闘服だ。
更に羽織っているコートには投げナイフを始めとした様々な道具が収納されているはずであり、机の上に2本の剣と仮面が置かれている辺りを見れば本気なのだろう。
バジルはしてやったりといった様子のアナベラを見て、少しだけ現状を理解すると口を開いた。
「最初からそのつもりだったんで?」
「最初というか、コンラートさんとの話し合いを終えた時点だねぇ。3日も時間をかければ灰蛇に逃げられるに決まっているだろうさ。さっきの会話はフェイントだし、嬢ちゃんにも話を通してきた。」
敵を騙すにはまず味方から、アナベラはそう言わんばかりに告げた。
確かに本来ならば、3日で戦力を纏めて実行するという行動は鈍重とは言い難い。
だがベルナディータの忠告によって猶予が少ないことを知っているアナベラから見れば致命的な遅さだ。
そもそも彼女はセイランスが居なければ愚者の毒により死んでいたはずであり、認めたくはないが灰蛇の方が上手だと考えるべきだ。
そのような相手に時間をかければそれだけ襲撃の成功率は下がるはずであり、それどころか先程バジルを通して伝達した情報がすぐに漏れる可能性を危惧して彼でさえ騙した。
「姐さんの考えは理解出来ましたし、用心深いに越したことはありません。ですが、まさか少人数で実行するんで?」
「何を言ってるんだい。いるんだろう?既に返事が来ている奴らが。」
質問に対してそう答えたアナベラに、バジルは思わず目を見開いた。
「確かにルーガス、アキム、アシュタル、イルリナ、ザードの5名からはすぐに返事が来ています。そのうち3名からは姐さんに忠誠を誓うと。」
招集に対して忠誠を誓うという返事は一見すると突拍子もないものに思えるが、それを聞いたアナベラは口元をニヤリと歪めた。
彼ら5名はアナベラの功績に関する情報を入手してから現在までの短い時間で、彼女自身に従うことを決断したのだ。
無論それが結果を示した彼女を心から支配者の器として認めたのか、それとも打算なのかは分からない。
だがカルメラやコンラートたち4人ではなく、彼女を選んだことだけは確かである。
「バジル、今すぐその5人を集めてくれ。認めて力を貸してくれるにせよ、打算で恩を売るにせよ、無茶な頼みを聞いてくれることだけは間違いない。」
そう指示を出すアナベラを見て、随分と成長したものだとバジルは目を細めた。
護衛を拒み好き勝手に動いていた頃のアナベラは、悪く言えば武力に優れているだけの小娘だった。
だが彼女はコンラートだけでなくルベリやアレクの教えも受けているため、本来ならば交渉や策略といった分野においても力を持っているはずだった。
そう考えれば成長というよりも、今回の一件をきっかけとして持っている力を発揮し始めたというべきか。
「おい、バジル。話を聞いているのかねぇ。」
「すみません、姐さん。すぐに手配しましょう。」
アナベラの呼びかけでバジルは現実へと思考を戻すと、彼女の指示に従うために動き始めた。