117.彼はついに大きな一歩を踏み出す。
かつてこの世界にはエネルギー回収機構が存在しなかったが、人族の大半が散らばったエネルギー粒子を魔力に変換して蓄える形で進化したために、魔法という現象と引き換えにそれらを回収することにした。
この話はセイランスがまだ幼い頃に少年神様から聞いたことだが、ではそもそも何故人族はそういった形で進化を遂げたのだろうか。
その答えは至ってシンプルで、そうしなければ生き残れなかったのだ。
回収されずに散らばった粒子が高濃度に存在する汚染環境は、下界の生物たちにとってあまりにも毒だった。
そして実際に幾つもの生物が滅んだが、一部の生物たちはその環境に適応することで種を存続させることに成功した。
その中で多くの人族は、粒子を魔力という人体に適したエネルギーに変換させて蓄え体を循環させることで、高濃度粒子から体を保護する進化を遂げたことになる。
では、4つの人族の中で最も優れた進化を遂げたのはどの種族であるだろうか。
無論それは視点によって異なるのだろうが、下界に存在する人族達に尋ねた場合『獣人族』だと答える者は僅かだろう。
なにせ彼らは魔力をほとんど持たないため、生活のあらゆる場面で役に立つ魔法を極一部の者たちしか使うことができないのだ。
その分身体能力に優れてはいるのだが、魔法を使えないディスアドバンテージは想像以上に大きい。
だが、逆に言えばもしも魔法が存在しなかったとしたら、つまり少年神様が別の方法でエネルギー回収機構を作り上げていたとしたら、身体能力に長けた獣人族こそが最も優れた進化を遂げたことにはならないだろうか。
実際、獣人族の魔力が微々たるものであるのは劣った進化をしたからではなく、他種族とは異なる進化を行ったからだ。
彼らは粒子から身体を保護するのではなく、粒子の一部を肉体に取り込み利用することに成功し、魔力が無くとも高濃度粒子に耐えうる肉体を手に入れた。
そしてその副産物として、身体能力が高いという種族特性を持っている。
無論現実には魔法が存在するためこの仮定は無意味なのだが、彼らが魔法を使えない故に劣った種族ではないということだけは心に留めておく必要があるだろう。
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ヴァージル博士のもとへと配属された治安要員の一人、ヴォルフラムは現在の状況を認識すると額から汗を一つ流した。
既に自分以外の五人は倒れ、視界の奥にいた騎士団も腰を抜かしている騎士一人を除いて壊滅したようだ。
どうやらあの騎士は命乞いをしているようだが、ヴォルフラムは何も今ここで傷つくことを恐れているわけではなかった。
「あぁ、本当にまずいですね。何をどう考えたって、俺もアナベルお姉ちゃんを死地に送った一人じゃありませんか。全て片付いたら菓子折り持参で誠心誠意を込めて土下座するしかありません。」
多勢に無勢だったにも関わらず自分と一対一の状況まで持ち込んだ目の前の獣人は何故か今になって顔を青くさせているが、良くも悪くも彼は余裕があったらしく地面に倒れている者たちは骨こそ折れているだろうが致命傷には程遠い。
つまりここから先の展開がどうなった所でヴォルフラムは生き延びることができるのだが、彼が恐れているのはむしろ生き延びた後のことだった。
研究員が実験体を人として見ていないケースは幾らでもあるが、ヴァージル博士は自分のもとに配属された治安要員達も実験体と同程度の存在としか見ていない。
以前研究のための実験体が不足したことがあったのだが、彼はそれを知ると何ら躊躇うことなくジグルムントに治安要員で代用することを指示し、そしてジグルムントもまた表情一つ変えずにこれまで何度も言葉を交わしたことがあったはずの者を実験体として指名した。
あの時全身を駆け抜けた寒気は今でも忘れない、なにせ止めてくれと何度も叫ぶ仲間を実験台へと運んだのはヴォルフラムであったのだから。
定期入荷には早い今回どういった経緯でこの二人を引き取ることになったのかは分からないが、どうも目の前の獣人は致命傷を負っても再生する貴重なスキルを保有しているらしく、治療部門のヴァージル博士が歓喜していたことだけは覚えている。
ここで取り逃がしてしまえば、例え生き延びたとしてもどうなるか分からないだろう。
「致命傷を受けても再生するというより、そもそも致命傷を負わないように見えんだがな。」
これまでの戦闘を観察している限りでは魔法自体はそれなりに喰らっているが、まるで高ランク魔物に打つけているかのように効果がない、というのがヴォルフラムの考えだった。
彼はここに来る前は魔物狩りを専門とする冒険者だったが、最も輝いていた時代に仲間たちと共に死闘を繰り広げたBランク魔物ヒュージタートルのことを思い出していた。
「動き自体は鈍かったおかげであの時は罠にかけたが・・・くそっ、経験があるせいでどうにもならねぇって分かっちまう。」
そう、目の前にいる獣人の少年を一人でどうにかすることは不可能だと、経験が豊富だからこそ理解してしまう。
こんなことならば最初から他の治安要員たちと協力して戦うべきだったが、それも今となっては叶わないことだ。
彼は半ば決定した未来に嘆きながら、自分は一体どこで間違ってしまったのだろうかと考える。
「何でこうなっちまったんだ。俺はただ、エリアナのことが好きで・・けどあいつはロベルトと付き合ってて・・・せっかくロベルトを殺して自由にしてやったのに俺の事を拒みやがって・・・どうしても俺のものにならないから殺すしか無かった。だが悪いのはあいつだろ?俺の気持ちを受け入れなかったあいつだろ!?人を殺せるくらいに好きだったのに!!!」
「いや、それはどう考えても悪いのはおじさんじゃないでしょうか。」
「俺は悪くない、悪くない!!ロベルトを殺した時もエリアナを殺した時もレイラスを実験台に運んだ時も・・・俺は─────フレイムジャベリン!!!」
既に狂ってしまっていたのか、それとも未来のことを考えると狂わなければ行動できなかったのか、ヴォルフラムが唾を撒き散らしながら生み出したのは通常の槍よりも二回り大きい燃え盛る炎の槍だった。
それはヴォルフラムの激しい感情が込められた炎槍だったが、セイランスは腰の魔石に手を当てて朗々と唱えた。
「火精よ、愚か者の声を聞くことなかれ 我こそは真の理解者 我が魔力を世界に捧げん」
この世界に何故精霊が存在し何を目的としているのか、そして何よりそのために捧げる魔力として自分が宿すものはどれ程その目的に適っているのか、セイランスの声を聞き届けた火精によってヴォルフラムが起こした現象は消え去り、少し熱のこもった空気がその場に漂うだけだった。
「何で、何で・・・。」
「思い通りになることよりならないことの方がずっと多いと、前世の父が言っていましたよ。」
怨嗟のように呟くヴォルフラムにそう告げると、セイランスは頭に軽く振動を与えて彼を気絶させた。
───ピクッ!
その直後に獣耳が反応してセイランスが身構えると、彼の身には何も起きることが無かったが、周囲を見渡した彼の視界にアナベラが宙を舞い地面を転がる姿が映し出された。
「アナベルお姉ちゃん!!」
地面を何度かバウンドして転がる様子から相当な衝撃を受けたと判断したセイランスは、攻撃を加えたララウロワを放置して素早く彼女の側へと駆けつけた。
アナベラを守るべき者ではなく共に戦う者として認識していた彼は、彼女が吹き飛ばされたことに幾らか動揺しながらもグレイシアの教え通りに状態を確認していく。
「体は大丈夫みたいですね。それよりも、庇ったとはいえあの衝撃を受けた脳が心配です。状況が分からない時は最悪の事態に備えて。『空精よ』」
彼はこの王都に来てから3本目になる聖魔王の涙を取り出すと、彼女に飲ませてから治癒魔法を行使する。
脳細胞は壊死を起こした直後ですら回復させるのは困難であり、グレイシアの教えを以ってしても後で脳に深刻なダメージを受けていたと分かってからではどれ程の対処が出来るか分からない。
しかも回復のイメージ事態があまりにも複雑なため、魔力循環の改善に伴う回復を起こす聖魔王の涙に頼る他ない。
セイランスはアナベラの周りに空間魔法による結界を作った後に、後ろを振り返った。
「誰だか知りませんがやってくれましたね。俺はアナベルお姉ちゃんの護衛だったんですが。」
「言いがかりは止めろよな、それが俺の仕事なんだわ。そんなことより早くヤろうぜ?」
ララウロワはセイランスにそう告げると、犬歯が露わになるほど口角を引き上げた。
さっき不意打ちで攻撃した女もおそらく強いのだろうが、何よりも彼は目の前にいる自分よりも一回り近く若そうな同族の少年と戦いに来たのだ。
「ウォルフェンにいた頃は正直飽きていたが、こうして国を出てみれば同族と戦うのも乙なもんだ。こんな場所でお前に待っているのはどうしようもねぇ未来だが、今だけは全てを忘れようじゃねぇか!魔気流幻神派、ラウリィ・クウの弟子ララウロワ・フウだ!!」
師の名前を名乗るのは自分が負けた時に更に強い者がいるぞと相手へと教えるため、そしてクウはマスタークラスを修めた者が名乗る称号であり、フウはエキスパートクラスを修めた者が名乗る称号でもある。
無論ララウロワは負けるつもりなど微塵も無かったが、そうやって戦う前に名乗るのがウォルフェンで武術を学んだ獣人達の礼儀だ。
だからこそ彼はそれからしばらく闘志を抑えながら返答を待っていたのだが、目の前の少年は訳の分からないものを見るような目で自分を見ており一向に名乗る気配がなかった。
「おい、早く名乗れよ。それとも俺がフウの名を持っているからビビっているのか?今更そんなつまらねぇことは言わないでくれよ。第一、それだけ魔気が大きいならお前だってヤルんだろ?」
スペンサーに馬鹿と言われたララウロワだが、本来フウを名乗れる程の武術を修められるのは30を過ぎた頃であり、そういった意味では18でそれを成し遂げた彼は間違いなく天才だ。
「えっと、少し恥ずかしいんですが名乗ればいいんですね?ダル・・・はまずいので、ララ・ヴェルの弟子セイランスです。」
「あぁ?ベル?いや、よく考えればお前18を過ぎてるってことはないよな。ってことはウォルフェンを出られないし、こっちで学んだのか。おいおいおい、無手流や武器流ならともかく、魔気流は国外で教えるのを禁止されてんだけどな。お前の師匠は何考えてんだ?そりゃ自分で称号の自作くらいするわ。」
「考えていることですか?さすがに何を考えているのか理解できるようになったら、それはもう何かとてつもない悟りでも開いているんじゃないでしょうか。」
「違いねぇ。弟子にそれだけの倫理観を伝えた上で尚教えたってなら、もしかしたら相当の覚悟があったのかもしれねぇが・・・。」
全く違う話をしているのに、何故か会話が成立しているララウロワとセイランス。
ララウロワのようにウォルフェンを出た魔気流の使い手は他にもいるが、国外で広めることを禁じられているため武術以上に洗脳の如くそれを教え込まれる。
普人国にいる獣人族を差別しているわけではなく、魔気流を身につけた獣人族が普人国の戦力の一つとしてウォルフェンに牙を剥くのを防いでいるのだ。
それにも関わらず魔気流を国外で広め、ウォルフェンを危険に晒しているセイランスの師をララウロワは非難していた。
一方で、セイランスが言っている師とは無論ダルク大魔王のことであり、彼の考えを理解できるようになったらそれはもう何かしらの悟りを開いているに違いないと発言している。
そんなことを知る由もないララウロワは頭を掻くと、セイランスに告げた。
「まぁいいさ。ここから出られない俺にもお前にも、もはや関係のない話だ。じゃあ名乗りも終わったし・・・さっそくな!!!」
もはや闘志を抑えるのが限界だったララウロワは言葉の途中で走り出し、そう宣言した頃にはセイランスの目前に迫っていた。
セイランスはそれをいつものように何気なく受け止めようとして、そして受け止めきれずに仰け反る。
「っ!?」
セイランスが驚きの声を上げるのも当然で、彼は身体強化系スキル『激化』を使っていたクライドの攻撃でさえ正面からあっさりと受け止めることが出来たにも関わらず、ララウロワの一撃を受け切れなかったのだ。
彼は幻人の集落にいた頃に他の幻人達と戦うことはなかったため、これが人族の攻撃を受け止めきれなかった初めての瞬間である。
それでもその衝撃はともかく被害としてはただ体が仰け反っただけであるため、彼はそのままララウロワを殴り返す。
そして、ララウロワは顔を顰めながらもそれを当たり前のように受け切った。
「重い、重いなぁおい!そうか、お前も幻神派か!やっぱり今日は最高だ!!」
そう叫びながら闘志を剥き出しにしたララウロワの一撃をセイランスが苦い表情で受け止め、真剣な表情のセイランスの一撃をララウロワが笑顔で受け止める。
頭、肘、腕、拳、腿、膝、脛、足───戦いに慣れたものでなければそもそも目で追うことのできない速度で一撃一撃がぶつかり合い、その度に空気が震える程の衝撃が巻き起こった。
殴り殴られ蹴り蹴られる、そこに存在しているのは混じりっ気のない力の衝突だ。
「どうして・・・!?」
セイランスはララウロワと乱打戦を繰り広げながら何かを言葉にしようとするが、体を動かすことに精一杯で喋ることができない。
そこには、戦闘中であっても呑気に会話しようとする普段の余裕は存在しなかった。
繰り返すが、セイランスにとってこれが人族とまともに肉弾戦を繰り広げる初めての瞬間なのだ。
ダルク達のもとにいた頃は唯一ダルクだけがセイランスとその超越した武技を以ってして魔法の介在しない純粋な近接戦を繰り広げることができたが、それでもダルクが攻撃に転じることはそう多くなかったし、何よりセイランスの攻撃を真正面から受けるのではなく受け流していた。
セイランスの動揺が肉体の動作に影響を与えたのか、一瞬生じた隙によってララウロワの拳がセイランスの頬を捉えて彼を後方に殴り飛ばす。
すぐに起き上がった彼だったが、口の端から流れているのは紛れもない血だった。
「どうして・・・どうして攻撃が痛いんでしょうか。」
「あぁ?何言ってんだよお前。攻撃が痛いなんて当たり前だし、こっちもやたら痛ぇよ。なんだろうな、お前のは肉体っていうより鈍器で殴られてるみたいだわ。」
ララウロワはセイランスが何をそんなに驚いているのか理解できないといった様子でそう返事をする。
確かに本来であればララウロワの言う通り攻撃が痛いのは当たり前だし、むしろララウロワの拳が直撃して口から血を流すだけというのは十分異常なのだが、セイランスは今スキルを使用しながら戦っているのだ。
彼のスキルは最攻の金属ヒヒイロノカネを使ってようやく破れるか破れないかという程強固であり、少なくとも獣人族に殴られた程度でダメージを受けるはずがない。
「おいおいおい、まさか本当に驚いているのか?そりゃお前、研究所に長い間居たせいで肌はこんな色になっているが・・・。これで痛いなんて言っていたら、原理派の連中の攻撃なんてどうすんだよ。あれは内蔵に来るぞ?」
「ウォルフェンは武術が盛んだとは聞いていましたが、行くのが怖くなりましたね。」
そもそも、セイランスがそれを聞いた時に思い浮かべたのは地球に存在するような戦闘技術としての武術だろう。
だが、彼はウォルフェンの武術を全く分かっていない。
かの国の武術には確かに無手流や武器流といった彼が思い浮かべるようなものも存在しているが、ウォルフェンの武術として恐れられているのはまさに今ララウロワが使用している魔気流なのだから。
人族の中において異質とも言える進化により、エネルギー粒子を身体に取り込んで利用することで魔力が無くとも環境に耐えうる肉体を形成した獣人族。
彼らは粒子を肉体の一部として取り込んでいるが故に、世界を構成する力をほんの僅かにだが自分たちの意志で扱うことができる才能を秘めていた。
それを実現させたのが、幻人の存在を知り獣人の可能性を模索した彼らが生み出した『魔気』という概念であり、人ならぬ視点からの解釈を加えるならば彼らの肉体の一部となって利用されているエネルギー粒子のことだ。
当然誰もが気軽に扱えるはずもなく、彼らの中で鍛錬の末にその才能を開花させることができた一部の者だけが、体内の魔気を活性化させることで肉体を更に強化し、あるいは空気中の粒子を媒介することでエネルギーとしての攻撃を加えることが出来る。
後者を得意とするのは魔気流の中でもその技術を突き詰めた原理派だが、魔気を利用して幻人のような肉体を目指した幻神派の者たちも基礎的な技術は身につけていた。
セイランスのスキルが通用しない理由を端的に説明するならば、進化前の生物が彼のスキルを持っていたところで高濃度汚染からは免れることができないと言えば分かりやすいだろうか。
「なに、何度も言っているがお前はここから出られないさ。そんなことを考える必要もねぇよ。」
そう言って再び繰り出されたララウロワの攻撃を痛みに耐えながらもセイランスはこれまでのように受け止めようとして、彼は突然予想外の痛みに晒される。
状況を理解してみれば、受け止めようとした拳とは別にもう一方の拳がセイランスの死角から放たれていた。
「それとお前、武術の腕前は大したことねぇのな。」
そう挑発しながらララウロワが放った攻撃を今度は受け止めてセイランスは反撃するが、しかし受け流されてその勢いのまま腹に膝を食い込ませることになった。
「ゲぇっ」
「いくら肉体をフウくらいに・・・いや、もしかしたらクウの領域まで辿りついているか?はは、そう考えりゃとんでもねぇな。まぁ、いくら肉体を強化できようが、そんな子供の喧嘩みてぇな技を繰り出されても仕方ないわ。」
そう、ララウロワはその闘志のままに今までは純粋な力と力のぶつかり合いを楽しんでいたが、彼が修めたのは魔気による肉体強化ではなく、魔気流幻神派という武術だ。
それに対してセイランスは、武術という観点からみれば素人同然である。
ララウロワからするとセイランスの攻撃は別に受け止めなくても受け流せるし、セイランスの防御は別に正面から破らなくても死角から崩せる程度のものだ。
その結果、これまでの激戦は何だったのかと疑いたくなる程に、セイランスは防戦一方になる。
「まぁ、十分楽しめたわ。これでまた暴走した奴らを鎮圧するどうしようもねぇ仕事をやれそうだ。人生ってのはそうじゃねぇんだが・・・いや、これも俺の人生か。」
「あっ・・がっ・・・!!」
セイランスは必死にララウロワの攻撃を追って防御し反撃するが、それ以上に防御できない攻撃を受け、そして自分の攻撃を受け流される。
その光景は誰が見ても、セイランスの敗北を悟らずにはいられないものだった。
ララウロワの闘志は既に満たされており、もはやただ目の前の少年を痛めつけるだけの作業を終わりにしようとどめの一撃を放つ。
───パシッ!
そして・・・ララウロワが放ったそれはセイランスの右手によって不思議な程あっさりと防がれた。
「おいおいおい、まだ力が残ってたのか?いいじゃねぇか!!それでこそ幻神派だ!!!」
───パシッ!
破顔させながら更に強く、今度は虚を交えて放った攻撃をやはりセイランスは受け止める。
「なんだ?急に動きがよくなってねぇか?」
「獣人界の孔明としたことが、自分で立てた作戦をすっかり忘れていました。」
「はぁ?何言ッデェ!?」
一方、散々攻撃を受けてダメージが蓄積しているはずのセイランスは、そう言いながら掴んだ手を起点にそのままララウロワの身体を地面に叩きつけた。
激しい音と共にララウロワが叩きつけられた地面が陥没し、彼は肺から強制的に押し出された空気を吐き出す。
セイランスはダルクによってスキルを禁じられながら1年半の間、ヴァレリア聖魔王から保険として扱われる程の治癒魔法師グレイシアの力と彼自身の常人離れした肉体が無ければ幾度となく死んでいるような日々を過ごしてきたのだ。
いくらスキルでは防げないダメージが蓄積したからといって、それで音を上げるはずもない。
「迷わず力で押し切ろう作戦です。何故そんなに肉体が優れているのか知りませんし、俺よりずっと優れた武術を持っているのも分かりましたが、そういうのも全部含めて力でねじ伏せるのが今回の作戦でした。」
それを作戦と呼ぶべきなのかは甚だ疑問だが、セイランスがそれに従っていなかったのもまた確かだった。
彼はこちら側に来てからというもの、特に人と戦う際は無意識の内に自分の肉体の力を抑え込んでいる。
なにせ彼の肉体は限界突破状態で無くとも冒険者たちが徒党を組んで戦うような高ランク魔物の領域にあり、ある程度抑制をしなければ誇張でも何でもなく意図せず殺してしまうのだ。
そのためララウロワと戦っている時も真剣ではあったものの当然のように無意識下で肉体の力を抑制していた。
地面に叩きつけられたララウロワは少なくとも状況が大きく変化したことを理解すると、こちらもまだ余力を幾らか残していた魔気を全て練り上げセイランスの手を振りほどこうとして、しかし振りほどけずに声を荒げる。
「はぁ!?」
「あぁ、暴力路線回避どころか暴力路線まっしぐらです。手を放して欲しいならいいですよ。男性といつまでも手を繋ぐ趣味はないですし。」
セイランスはそう言いながら必死に振りほどこうとするララウロワの手をあっさりと放し、逆にララウロワは素早く体勢を立て直すと歓喜の表情を浮かべた。
そう、今まで一方的に追い詰めていた立場が崩れたというのに、彼が浮かべたのは荒々しくも確かな笑みだった。
「そうだ、人生ってのはそうだ!金?女?そんなもんどうだっていいんだよ。人生ってのは、この快感を味わうために存在しているんだよ!!痛みへの恐怖も死への恐怖も精神の疲労感も肉体の疲労感も世のしがらみも信念も覚悟も何もかもが混ざって一つになる!!!この快感を味わうのが生きているってことだ!!!!」
ララウロワはそう叫びながら肉体の強化と精神の高揚が混ざりあった渾身の一撃を放とうとして、しかしセイランスに届く前に顔面を衝撃が襲う。
一瞬ホワイトアウトした彼の耳にセイランスの言葉が聞こえてきた。
「ところで素人なりに考えてみたんですが、相手が攻撃してからそれが届くまでの間にこちらが攻撃すればいいんじゃないでしょうか。もしかしたら、武術の真髄に辿り着いたかもしれません。」
「あぁ!?んな無茶苦茶な真髄があるかよド素人ォ!!」
そう返事をしながら放った蹴りは、しかしセイランスに届く前に身体を衝撃が襲ったことによって中断され、今度は再び顔面に衝撃を受けてよろめいた。
ララウロワは思い通りに攻撃できない現状に感情を爆発させる。
「俺の快感を奪うんじゃねえエェェェ!」
ララウロワの望む快感とは強者と戦い命の危険を感じた時に押し寄せる、それまで自分の中にあったあらゆる概念がごちゃ混ぜになった何かを、肉体に乗せて放った時に生じるものだ。
だが、セイランスは放とうとする前にララウロワに攻撃を中断させるため、フラストレーションだけが溜まっていく。
「そう言われましても・・・。俺は戦っていて楽しいだとか気持ちいいだとか、そういうものを感じたことがないですから。」
「うぉげぇっ!?」
戦いこそが快感であり生きる意味だと考えているララウロワを、戦いは手段の一つだと考えているセイランスが理解するのは難しいものだ。
セイランスはララウロワの想いには付き合うことなく、彼がまともに戦うことが出来なくなるほどの一撃を鳩尾へと叩き込む。
肉体を強化して尚防ぎきれない途方もない衝撃は鳩尾に集う神経を激しく刺激し、激痛と共に全身から力が抜け落ちてララウロワは地面に両膝を着いた。
全身の筋肉が不随意に収縮し身体が震える中、ララウロワは乾いた笑い声と共に口を開く。
「ハハッ・・・どんな魔気を練ってんだよおい。」
自分の持つ全てをただ圧倒的な力でねじ伏せた少年を前にしてそう言わざるを得なかったララウロワは、自然とセイランスの魔気を詳しく探っていた。
体内の魔気を活性化させることに成功した獣人は他人が持つ魔力の量、そして肉体にある魔気の量を認識することが出来る。
ララウロワは、そうやって強者を探してきたのだ。
魔気は活性化することでその量が増大するため、これまでララウロワはセイランスの巨大な魔気はそれによるものだと考えていた。
そして、彼は改めてセイランスの魔気を探ってようやくその事実に気がついた。
「魔気が・・活性化してねぇ・・・」
そう、セイランスの魔気は多くの獣人達と同様に活性化しておらず、ただ静かに肉体を構成する要素の一つとして存在しているだけだった。
つまりこの眼の前の存在はこれまで、ただただ純粋な肉体の力のみで魔素を活性化させた自分を圧倒していたことになる。
それを理解した瞬間、ララウロワは頭から冷水を浴びせられたように冷めていった。
「魔気じゃ・・・ねぇよな?」
「真希?誰ですかそれ。俺はセイランスですし見ての通り男ですよ。」
念のために確認した質問に対して的外れの答えが返ってくると、ララウロワは青ざめたと言っても過言ではない心を精一杯奮い立たせてセイランスに殺気をぶつけた。
───ピクッ
間違いなく、それに反応するかのように獣耳が動いた。
「あぁ、今はまだそういう状況でしたね。というか、時間をかけ過ぎました。どうしましょうか。」
セイランスは殺気をぶつけられたことで改めて現状を確認すると、研究所の方から何人か治安要員らしき者たちがやって来ていることに気がついた。
ララウロワとセイランスが戦っている間にヴァージル達が黙ってそれを観戦しているはずもなく、援軍を要請したのだろう。
「幻・・神・・・。」
だが、ララウロワはセイランスのその言葉など全く耳に入ってはおらず、殺気を放った後に自分の世界に浸るとそう呟いた。
『幻人』ではなく『幻神』
ウォルフェンの人々にとって幻人は魔気という力に目覚めるきっかけを与えた存在であり、そしてグレノヴァ一族の始祖に力を授けた存在だ。
何より、それら無くしてウォルフェンの存続と繁栄はあり得なかった。
人魔大戦、第一次亜人戦争、第二次亜人戦争、歴史上に存在した幾つもの危機を、ウォルフェンの獣人達は魔気の力とグレノヴァ一族の力によって乗り切ったのだ。
その場におらずして自分たちの国を何度も救ってきた彼らを、どうして神として崇めずにいられようか。
目の前にいるのは、全く活性化していないにも関わらず巨大な魔気を持ち、武術を知らないのにフウの地位にある自分をただただ純粋な肉体の力によって圧倒し、そして殺気に対して獣耳が素早く反応した少年。
「あれ?どこに行くんですか?」
ララウロワは全てを理解すると、フラフラと立ち上がりヴァージルとジグルムントが居る場所へと向かう。
「ぐガっ!?」
「おい、何を・・・!?」
途中ですれ違った援軍の治安要員たちを無言で動けなくすると、ララウロワは激しい痛みに耐えながら再び歩き出す。
彼を今襲っている痛みはセイランスに与えられたものだけでなく、血の誓約を破った代償によるものも含まれていた。
本来ならば地面の上で転がってのたうち回ってもおかしくないそれを、ララウロワはまるで意に介していないかのようだった。
「なにを、何をしてええええぇぇぇ!!!」
「えぇ、分かっておりますヴァージル博士。ララウロワ・フウ、早く彼を捕まえなさい。あぁ、意外かもしれませんが分かりますよ。私は天才ですから価値のない者も覚えているんです。スペンサー魔法部門長配下の治安要員ララウロワ・フウですね。あの酔狂な方なら少しの勝手を許すかもしれませんが、今あなだぶっ!?」
手を後ろに回して語り続けるジグルムントの頭を、ララウロワは地面へと打ち付けた。
「お前らのせいで俺が何をしちまったか分かるか?なぁ、おい。」
「ぶへぇっ!?」
その言葉と共に、ララウロワは再びジグルムントの頭を地面へと打ち付ける。
既にジグルムントの顔は割れた眼鏡の破片によって血塗れになり、歯が数本口から零れ落ちていた。
「・・・ウォルフェンにいた頃、ラウリィの爺さんに実戦で使いもせず鍛えてばっかでどうすんだって、何度文句を言ったか分からねぇ。だって、そりゃそうだろうよ。武術ってのは戦うためにあるもんだろ?」
───ガンッ
「その度にあの爺さんはこう返していたさ。幻神派は幻神にどうしようもない憧れを抱いてしまった開祖ルゥリィルゥの流派だ。どこまでも肉体の高みを目指していつかきっと訪れる幻神に、ここまで辿り着きましたなんてお見せして、まぁ認めてもらうのが目的だ。はっはっは、じゃねぇよあの糞じじぃ。」
───ガンッ
「俺は結局あの爺さんの言っていることに最後まで納得できなかったから、こうしてここにいるんだけどな。だが、俺も幻神派のフウを名乗る身だ。今もウォルフェンで無駄に鍛え続けているやつらの想いは嫌ってほど分かってんだよ。」
そう、ララウロワはただ己を鍛えるだけの武術には納得できなかったが、開祖ルゥリィルゥがどれだけの想いで魔気流幻神派を創り上げ、叶いもしない目標のために死ぬまで鍛錬を続け死んでいったか、そしてその想いをどれ程の獣人達が何百年と引き継いできたか、幻神派のフウだからこそ嫌でも理解している。
「なのにお前らさ。研究所に何年も居たせいでこんなヒョロくなっちまった肉体で、幻神派のフウを名乗って実験体にするために襲って、挙句の果てにボロ負けして、俺は色んなモンをどうしようもねぇ程踏みにじっちまった。どうすんだ、これ?なぁ、オイ!!!!」
───ガンッ!ガンッ!!ガンッ!!!ガンッ!!!!
ララウロワはそう言って何度も何度もジグルムントの頭を打ち付けているが、既にジグルムントに意識など存在するはずもなくただ地面を染める血だけが広がっていく。
現在ララウロワを襲っているのは、途方もない後悔の念だった。
彼はある意味ヴァージル達のおかげで幻神と出会ったが、こんな形でならば出会わなかった方が良いに決まっている。
フウの立場にありながら昔の自分が見たら鼻で笑ってしまうような肉体で幻神を実験体として利用するために襲ったなど、この先死ぬまでウォルフェンの獣人達に会うことがなかったとしても、死後の世界が存在しなかったとしても、決して許されることではなかった。
ララウロワは更に何度もジグルムントの頭を打ち付けて、グチャという音が響くようになった頃にようやく手を止めると、殺意を込めてヴァージル博士を睨んだ。
「おい、ごいづっ・・ヴッ!!」
こいつみたいになりたくなかったら今すぐ二人の受け入れを取り消せ、そう告げようとして口の中に血が溢れる。
彼は血の誓約により研究員の殺傷を禁じられており、それを破ってここまでした彼の肉体は既に限界だったのだ。
「誰が、こいつ、ごいづううぅぅぅぅ!!!!」
耳障りな声で周りに助けを求めようとするヴァージルの声が、朦朧とした意識とそれでも決して消えない激痛の中で響く。
これ以上は間違いなく死ぬとララウロワは直感的に理解したが、それでもまだヴァージルへと手を伸ばす。
「全く、君は一体何をやっているのかね?ララウロワ君。馬鹿なのは重々承知しているが限度を覚えたまえ。『キュアオール』」
聞き覚えのある声と共に暖かな光がララウロワの全身を包み込んだ。
彼が伸ばした手を止めて声の主を探すと、そこには呆れた顔で自分を見下ろすスペンサーの姿があった。
更に周囲を見渡せば数え切れない程の治安要員たちがアナベラやセイランスを包囲しているのを理解すると、ララウロワは迷わずにスペンサーへと殺気を込めて告げた。
「その二人の受け入れを今すぐ拒否しろ。さもなければ今ここでお前を殺すぞ。」
「ララウロワ君、私は限度を覚えろと言ったんだがね。傷を治療した上司に対する君の物言いにはいっそ感心すら覚えるが・・・まぁ、要求自体は別に構わんよ。」
「スペンサアァァァァァァ!!!」
スペンサーが呆れながらもララウロワにそう返事をすると、すぐにヴァージルの怒声が響き渡った
だが、それに対してスペンサーは煩そうに顔を顰めながらも毅然とした態度で告げる。
「黙りたまえヴァージル博士。定期入荷ではない以上、君に正当性はないと思うのだがね。後で正式に魔法部門長として君の上司に通達しようではないか。」
「なぜ、何故エェェェっ!!!」
「君には研究の前に言葉の勉強をして欲しいのだがね。何故と言われても、別に彼らは私の研究に関わる実験体ではない。受け取りを拒んだところで私に不利益はないのだよ。一方、ララウロワ君は馬鹿だがそれ以上に治安要員としては有能だ。失うのは明らかな不利益と言えるだろうね。」
定期入荷ではない実験体を受け取ることに対して、正義漢の如く非難する気は毛頭ない。
だが定期入荷でも魔法部門に関係するわけでもないのに、近接戦闘能力の高いララウロワを失ってまでアナベラ達を受け取る理由は更になかった。
ましてララウロワに恩を売って忠誠心が高まるというならば、スペンサーにとっては至極当然の判断である。
実際、治安要員に過ぎないララウロワではセイランスたちを解放することができなかったため、彼は殺気を引っ込めるとスペンサーに頭を下げた。
「恩に着るわ、スペンサー。何だったら俺を実験体として使ってくれても構わねぇ。」
「ララウロワ君、その頭だけは何とかならないのかね?私は治安要員の君を必要としているのだが。それよりもいい加減頭は冷えただろう。そろそろ研究室に戻りたまえ。」
「あぁ、分かった。だがもうしばらく待ってくれ。」
ララウロワにはこの場でまだやらなければならないことが残っているのだ。
治癒魔法をかけられたとはいえ全快には程遠い重い体を動かし、治安要員たちに囲まれて警戒を続けているセイランスのもとへとララウロワは辿り着いた。
そして膝を付いて頭を下げながら、必死にセイランスに説明する。
「謝って済む問題じゃないのは分かっているが、それでも本当にすまなかった。ここで死ねというなら死ぬ。だからどうか、どうかウォルフェンと幻神派に悪印象は持たないでくれ。違うんだ、本当に違うんだよ。あいつらは・・・」
「分かっていますよ、聞こえていました。無事にここを出られそうですしアナベルお姉ちゃんも元気みたいですから、特に恨みはありません。むしろあんなになるまでありがとうございました。」
あくまで無事にここを出られるだけであってここから一歩出れば問題は山積みなのだが、無理にこの場所を脱出せずに済んだ分問題が一つ減ったのは間違いないだろう。
それに視線をアナベラへと向ければ既に彼女も目覚めており、セイランスと同様に警戒を続けていた。
何より、血の誓約を破った代償を受けて苦痛の末に死ぬと分かっていて尚セイランスたちのために行動を続けたララウロワを非難できるはずもない。
「そうか・・・なら、なら良かった。」
セイランスの返事を聞いたララウロワは、心の底からそう安堵する。
今もまだ自分の行いに対する後悔は激しく残っているが、ウォルフェンや幻神派に対して悪印象を持たれる事態だけは何としても避けたかったのだ。
それは、幻神の存在を知ってから今日に至るまでの全ての獣人達に対する裏切りなのだから。
そして安堵したところで、ララウロワはようやく自分の目の前に幻神がいるという、本来であればこの上なく重大な事実を再認識していた。
幻神が今も実在していて、こうしてアルセムの大魔窟を越えてやって来て、何より伝わっている通りの力を持っている。
この衝撃を、この感動を、この高揚感を、この幸福感を、どう表現すればいいのだろうか。
それは少なくとも、ララウロワが戦いの中で感じる快感に勝るものであることは確かだった。
気付けば彼は自然と、その言葉を口にしていた。
「あなた達のおかげで俺たちは今こうして存在している、そのことに深く感謝を捧げます。そして、ようこそいらっしゃいました。」
「俺は何もしていないですし代表でもないんですが・・・いや、多分それは無粋なんですよね。ありがとうございます。それと、幻神派って凄いんですね。とても強かったです。」
「っ!?」
ララウロワはウォルフェンにいる幻神派のようにその肉体や力を幻神に認めてもらいたかったわけではないが、それでもその言葉を聞いた瞬間にどうしようもない歓喜に沸いた。
開祖ルゥリィルゥの時代から数百年の時を経て、遂に幻神派の想いが叶ったのだ。
だが、それを味わったのはまだウォルフェンを離れてここにいる自分だけ、だからこそ彼は幻神にウォルフェンを確実に訪れてもらうことを望んだ。
「さすがにこれはラウリィの爺さんも大目に見てくれるよな。手を出してもらえないか?」
「手ですか?うわっ!?」
差し出された手を握ると、ララウロワは体内の魔気を操作して粒子越しにセイランスの中にある魔気を一瞬活性化させる。
「それが魔気と呼ばれているものだ。興味を持ったならどうかウォルフェンを訪れて欲しい。俺たちの国はその力を、数百年かけて磨いてきた。」
「この力があれば・・・ウォルフェンには絶対に行く必要がありますね。」
セイランスのその言葉を聞いて、ララウロワは胸を撫で下ろす。
一瞬魔気を活性化させたところでそれを扱えるようにはならないが、自分の中にまだ力があることを実感し、それがウォルフェンに行けば手に入ると分かってもらえれば良かったのだ。
一方でセイランスは、魔気の力があれば再びアルセムの大魔窟を越えて集落に戻れることに気付いた。
それこそ魔気の力であの時のような限界突破状態を常時実現できるならば十分可能なはずだ。
「ところで、大魔窟攻略の可能性の代わりにという訳じゃないんですが・・・」
セイランスはそう呟くと、急に緊張した面持ちになる。
その表情はそれこそダルク達と別れる時以上に固いもので、セイランスが何か大きな一歩を踏み出そうとしているのが感じられた。
彼は何度か深呼吸をした後、おずおずと喋り始める。
「えっと、サイン色紙とか・・・いりますか?実はあの、映像記録型の光魔法魔道具でイメージビデオなんかも自主制作していてですね、いやこっちは制作費用が高価なので代金が必要ですし要らなかったらいいんですけど・・どうでしょうか・・・?」
グレイシアにアイドルになれると言われて以来悩みに悩んで決めたサインが描かれた色紙を、セイランスは恥ずかしそうに取り出すのだった。
ここから先はセイランスが落とし穴に両足を突っ込んでしまっていた時のif展開について書いています。
また、せっかくスキルに焦点を当てた話を書いたので、スキルに関する解説やセイランスについても少し真面目に触れています。
●落ちるはずだった大きな落とし穴について●
セイランスはこちら側に来てからというもの何度か「怖いの意味が違う。」と口にしている通り、自然の中で出会う恐怖に対しては高い耐性を持っている反面で、人間社会に潜む恐怖に対してはあまり耐性を持っていません。
尊大な態度を取り続けた場合あの場で逃げるという選択はしないため、彼は研究所に入ることになります。そして止むことのない血の臭いと悲鳴の中で目を覆いたくなるような人体実験の数々を目にした彼は、精神を病むことになるはずです。
勿論最終的には力づくで脱出しますが、ベルナディータが後日目にするのは精神を病んで変わり果てたセイランスの姿でした。そこで彼女は自分が恩人のために良かれと思って使用した直感が何を齎したのかを理解し、過去の直感スキル保有者たちと同様に深い後悔をすることになります。
そして変わり果てたセイランスは・・・という、作者が滑って転んで頭を打ったんじゃないかというバッドエンドを迎えていました。
●スキル+セイランスについて●
本作品の少ない設定の一つとして、スキルの強さを決定する要因に量と質の2つを設けています。作中でもスキルは宿ったエネルギー(魂)の質によって方向性や能力が決まるとお姉さんや少年神様が告げていますし、宿ったエネルギーの量は人によって異なります。
今まで特に説明する機会がなかったので今更ですが、セイランスのスキルは本来手に入るはずの莫大な魔力が変換されたにしては微妙だと思ったことはないでしょうか。彼のスキルはあくまで量が莫大に過ぎない、というのがその答えになります。
セイランスは主人公と言うにはあまりに平凡です。お姉さんが少年神様に話した通りこちらの世界に変革をもたらせるような知識や技術など持たない只の高校生でしたし、人々を導いていけるようなリーダーシップもありません。
幻人の集落に生まれておきながらどうするでもなく健やかに育ち、共鳴魔法を使える優秀な妖精族に出会って一方的に世話になり、アルセムの大魔窟で死にかけてようやく能動的に動いたと見せかけてやはりダルク達に一方的に世話になり、そしてようやく常人の殻を破ることができる。
そういった彼なので、ぶっちゃけ魂の質自体は並です。
ソーシャルゲームで例えますと、ノーマルガチャで手に入るスキルを世界一の富豪が気まぐれに廃課金して鬼強化したもの、それがセイランスの持つスキルになります。
一方で、ベルナディータの持つスキルはまさにレアガチャから入手したものです。どの程度強化されているのか分かりませんが、そもそもレアリティが高いので強力なわけですね。
セイランスのスキルは結果的にチート級とはいえノーマルガチャ産なので痒いところには手が届きませんし、エネルギーをそのまま宿していた場合に手に入れていた魔力と比べると激しく劣ります。
挙句の果てに過ぎた力は安全を脅かすとそれを敬遠しておきながら、幻人という種族に生まれ、魂システムを宿し、ダルク大魔王と関わり、父親は大陸中にその名を轟かす大犯罪者という、ダルク以外は本人にどうしようもなかった身を脅かす要素満載の人生なので、見事に空回りしています。
なんて残念なのでしょうか、ですがそれでこそ本作の主人公です。
●直感スキルの落とし穴について●
チートスキル直感ですが、稀に大きな落とし穴が発生するのは宿っているエネルギー量と使用者側の問題です。
例えばベルナディータの直感スキルに込められているエネルギー量では、作中で触れている通り詳細な過程を知ることはできず、ただ目的に対する結果しか得ることが出来ません。
勿論ほとんどの場合それが問題になることはないのですが、極稀に知ることができない過程において直感スキルに従った者が思わぬ被害を受けることがあるのです。
もしもベルナディータがその過程まで詳細に知ることが出来たならば、研究所へと入ったセイランスが精神的にダメージを負うことを予測できるため回避ができましたし、セイランスの能力と精神のアンバランスさをベルナディータがもっと理解していればやはり回避できたかもしれません。
また、実際には途中であっさりと方針転換をしたおかげで精神的にダメージを負うことはなく、能力だけならそれなりにあるセイランスは今回の一件を無事に乗り切れました。
●武天化スキルについて●
脳のリミッターが外れることにより身体能力が向上する上に、スキルに宿るデータベースを参照することで理想的な動きを行うことができるスキルです。
ベルナディータの直感を特殊系のチートとすると、武天化は身体強化系のチートですね。
タスのような動きが出来ると言えば、チート具合が分かってもらえるのではないでしょうか。
ただ、参照するデータベースはあくまで本人が経験してきたものなので、日頃の鍛錬の影響が大きいですし、蓄積効率が悪いのでその全てが蓄積されていくわけでもありません。
スキル自体が成長していくという稀有な性質を持っていることになります。
●獣人族の進化について●
科学に詳しいわけではないので適切な例えなのか分かりませんが、酸素が高濃度になって危険だからバリアを作って取り込む量を減らすことで身体を守っていこうよ、というのが他人族(主に普人族)の進化です。そして、そのバリアが少年神様の目に留まりました。
一方で獣人族は、酸素が高濃度になったからそれを利用して巨大化しちゃおうよ。これで酸素が高濃度でも大丈夫、という進化をしました。
ちゃんとした話をしたせいで既に作者は虫の息です。