side.アナベラ
アナベラはカルメラに拾われたことによってその人生を大きく変えることになるが、それ以前の境遇は決して恵まれたものではなかった。
彼女の中で最も古い記憶は物乞いをしていた頃のものだ。
その時には既に彼女の側に両親はおらず、今となってみれば子供に物乞いをさせて金を稼ぐ狡い男の元で暮らしていた。
だが、当時の彼女に現在のような力や地位があるはずもなく、男に殴られぬよう必死に路上を歩く者たちの同情を誘っては物乞いをし、少し成長してからは上手くいかない時は物を盗んで男の機嫌を取ることを覚えた。
毎日を必死に生きる日々、そんな彼女のひそやかな楽しみは、一緒に暮らしていた自分よりも少し幼い獣人の少年を膝に乗せて過ごすことだった。
彼には両手足が存在せず当時はその意味が分からなかったが、寡黙で四肢のない少年を他の子どもたちは皆気味悪がっていたように思う。
だが、アナベラの目には少年が寡黙というよりも酷く落ち着いた雰囲気を持っているように見えており、まだ気の弱かった彼女は好んで彼の側へと座り膝に抱いては頭を撫でていた。
少しでも騒げば酔った男に殴られるため、頭を撫でると時々静かに動く獣耳を見るのを妙に楽しみにしていた気がする。
少年はアナベラと共にいる時もほとんど言葉を発することは無かったが、時々彼女へと諭すように口にしていることがあった。
「アナベルお姉ちゃん、もしも僕が死んだりいなくなったりしたら、必ずここから逃げて。大丈夫、その時になれば必ず逃げられるから。」
彼女は少年がどうしてそんな悲しいことを言うのか理解できず、彼がそれを口にする度に『どうしてそんなことを言うの?』『もしかして痛いことをした?』『逃げるなら一緒に行こうね?アランは軽いから私頑張る』そんなことを泣きそうな顔で返していた。
普段は全てを悟ったような瞳でどこか遠くを眺めている彼だったが、その時だけは瞳に少し困惑の色を浮かべていた。
それから路上で蔑みと憐れみの混じった視線に晒され、たまに男に殴られては襲う痛みに耐える中、少年の頭を撫でては獣耳がひょこひょこと動くのを見て少しだけ心が温まる日々が続いた。
そして膝に抱く彼の体を重いと感じるようになってきた頃、いつものように家に帰ってくると彼が居るはずの場所にはポッカリとした空間があいていた。
彼女は激しい不安に駆られ、気付けばいつもは決して自分から話しかけようとしない男に攻めるように質問をしていた。
「アランは?アランはどこにいるの!?」
「あぁ?うるせぇよ。」
必死に服を掴みながら質問をする彼女に、男はそう答えると慣れた様子で彼女の頬を殴り飛ばした。
「あいつはもう居ねぇよ。それにしてもお前・・・結構育ってきたな。そろそろ物乞いは終いにするか。」
辛かった物乞いは終わり、男はそう言ったがアランが居なくなった事実と男が自分を見る目が普段よりもずっと嫌なものになったことに気付いた彼女は喜ぶ気など到底起きなかった。
男が自分へと手を伸ばしてくるのを見て普段であれば恐怖で何も考えられなくなるのに、その時は居なくなってしまった少年が数日前に言っていた言葉を思い出していた。
『アナベルお姉ちゃん、僕が居なくなったら必ず逃げて。あぁ、いつも言っていることじゃないか。悲しい顔をしないで。全く、こんなに泣き虫なのにどうしたらあんなにすごい人になるんだろうね。いつも微笑んでいるあの女性の手腕は恐ろしい。それと・・・』
逃げて。逃げて。逃げて。
少年がこれまでに何度も何度も自分に言い聞かせてきた言葉が延々と頭の中でリフレインし、本来ならば逃げられるはずのない相手からどうにか逃げようと脳が働く。
逃げなきゃ、けれどどうやって?分からない。けれど逃げなきゃ逃げなきゃ・・・あぁ、駄目だ。頭が・・
頭が真っ白になった後のことを彼女はよく覚えていない。
気がつけば彼女はいつも自分が物乞いをしている場所に立っており、何故か服は血で濡れていた。
それからの彼女は、時に泥水をすすりながらも生き延びていくことになる。
本来ならば誰の庇護下にもない少女が生きていくには厳しすぎる環境だったが、危機に陥る度に似たような出来事に遭遇することで何とかやっていくことができた。
後に彼女はカルメラと出会い、それまでよりはずっと幸せだが厳しい鍛錬や教育の中でやはり必死に生きていくことになる。
大人になった彼女はカルメラからその地位を譲り受け、スラムの支配者として多忙な日々を送る中、ある日素晴らしい獣耳を持った少年と路地裏で出会うのだった。
セイレンが訪れる前なので、アナベラの幼少期は暗い雰囲気です。