107.彼は怯える。
カルメラさんに会いに行く、そう言ったアナベルお姉ちゃんの後を追いながら、俺はふと重大な事実に気がついた。
もしかして今から父親のかつての恋人に会いに行くという複雑な状況なのではないだろうか。
さらには知らない間に弟か妹ができている可能性にも思い至ったが、幸い普人族と獣人族では子を為すことができないためその心配はいらないようだ。
ここは会う前に一度、カルメラさんに関する情報収集をしておくのがいいかもしれない。
「ところでカルメラさんって、どういう人なんでしょうか。」
「そうだねぇ。一言で表すとしたら、ぶっ飛んだ人だ。」
「ぶっ飛んだ人?」
その予想外の答えに、俺は思わずそう尋ね返す。
そもそも、アナベルお姉ちゃんをして『ぶっ飛んでいる』と言わしめるのは相当ではないかと思うのだ。
「まぁ、実際に会ってみれば分かるさ。常識人の皮を被っているから、一見わかりにくいけどねぇ。」
「つまり裏では獣人少年の獣耳を愛でるあまり、切り取って収集するような人ということでしょうか。どうしましょう、今すぐ引き返したいです。」
「そんなやつがいたら私だって近づきたくないに決まっているだろう。何でそっち方面に突き抜けさせるのかねぇ。」
それはアナベルお姉ちゃんの日頃の行いに原因があるのではないだろうか。
どうやら、そっち方面にぶっ飛んでいるわけではないようで何よりである。
だが一安心したのも束の間、普段よりもさらにスラムの中心部へと入っていくにつれて、段々と背筋が寒くなっていくのが分かった。
視界に広がっているのは、俺が今まで見てきた王都のスラムはもちろん、デルムで見たスラムの一歩手前だという場所よりもさらに酷いものだったからだ。
もはや生きているのか死んでいるのかも分からない様子の老人が地面にぼろ布となった何かを敷いて横たわり、俺の少し隣を聞いたことのない歌を口ずさみながら女性がふらふらと通り過ぎていった。
そこにはスラムと聞いてイメージされるような暴力的な雰囲気さえなく、まるで墓場みたいだと思う。
その退廃的な光景に呆然としている俺に、アナベルお姉ちゃんは諭すように告げた。
「ここは生きるのを諦めた者たちが最後に辿り着く場所だ。人生に絶望したのか、未来を嘆いたのか、はたまた狂ってしまったのかは分からないけどねぇ。まだ成人にすらなっていないお前はもちろん、私にだって理解できないがこういう場所もあるってことさ。ここばかりはスラムがどう変わっていこうとも無くならないだろうねぇ。」
「・・・静かに生きていく、あるいはそれすらも望まない人たちですか。俺を最初に案内してくれたおじさんが言っていました。」
スラムの闇といえば犯罪的な要素が思い浮かぶが、これこそが最も深い闇なのかもしれない。
ナイフを突きつけられてもただ黙って受け入れるか、あるいは進んで突き刺さりにいきそうな彼らを眺めながら、俺は先へと進んでいく。
カルメラさんは、そんな死に近い場所に居を構えているようだった。
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辿りついたのは、ある意味においてここには似つかわしくない施設だった。
そう、建物や家というよりも、施設という表現が一番適切なのだろう。
柵で囲まれた広い敷地内に複数の建物が存在しており、広く取られている庭では子どもたちが楽しげに遊び、それを老人たちが笑顔で眺めている。
そして少し離れたところでは大人たちが畑を耕しており、さながら年齢を問わない者たちが集団生活を営んでいるようであった。
「これまでの光景とギャップがすごいですね。カルメラさんは引退後に慈善事業にでも目覚めたんですか?」
「いや、もとからスラムの子どもたちや貧しい者たちの面倒を見ていて、今はそれを拡大しているってところだねぇ。」
「何をどうしたらそんな人がスラムの掌握をするんでしょうか。どちらかというと、抗争に巻き込まれて一方的な被害を受ける方だと思うんです。」
「実際受けていたのさ。そしてそこにセイレンが現れて、さらに呼応するやつらが加わったんだよ。カルメラさん自体は何の戦闘力も持たない女性だねぇ。」
つまりセイレンは昔、荒れていたスラムの中で懸命に力なき者たちのために働いていたカルメラさんの前に颯爽と現れ、彼女のために味方と共に抗争を収めてスラムを平定したということだろうか。
これまでセイレンのイメージは育児放棄をした犯罪者だったが、誰かにとっては英雄に等しい存在なのかもしれない。
少し複雑な気分になりながらも敷地内へと足を踏み入れると、俺たちに気づいた子どもたちが『あ、アナベルお姉ちゃんだ!』と言いながら笑顔で近づいてくる。
俺はその光景を一瞬だけ微笑ましく見ていたが、次の瞬間には素早くアナベルお姉ちゃんへと問いかけた。
「あの、どういうことなんでしょうかこれ。」
「あぁ、そういえば言っていなかったねぇ。これがここのスキンシップみたいなものさ。来たのも久しぶりだ、少し遊んでやるつもりだがお前はどうするんだい?」
「ただの平常運転ならぜひ遠慮させてください。」
「なんだい、つまらないねぇ。」
彼女はそう言うと、笑顔で駆けつけてくる子どもたちへと近付いていった。
そして俺は一見微笑ましく見えるその光景を眺めながらも、その実態に気づいてしまったために小さく呟く。
「さっきから、俺はなんでこうホラー体験みたいなことをしているんでしょうか。スラムが怖いところなのはわかっていますが、だから怖いの意味が違うと思うんです。」
視線の先では既にアナベルお姉ちゃんと子どもたちが接触しており、子供の手に握られた剣が彼女へと襲い掛かる。
彼女はその剣を紙一重で躱すと子供の手を掴み、そのまま遠くへと投げ飛ばした。
そう、どこからか取り出した武器を手に子どもたちが笑顔で近づいてくる光景は、どう考えてもホラーではないだろうか。
しかもこれがスキンシップというのだから、俺は今おそらく通常とは違う世界にいるに違いない。
センサーカメレオンのマントを被った俺に遠距離から気づいたことからも分かる通り、戦闘を眺めているとアナベルお姉ちゃんは気配を読むのが異常に上手いようだ。
素手で子どもたちをいなしている彼女だが、自分の視界の範囲外の攻撃を含めてすべてその軌道をギリギリのところで躱し続けている。
動体視力や身体能力任せではない彼女の動きは非常に綺麗で流れるようだった。
ホラー要素が少し薄れ、まるで事前に打ち合わせされた殺陣を眺めている気分になっていると、何故か俺より少し幼い少女が一人その手に槍を持って近づいてくる。
彼女は俺を見つめながら、淡々と告げた。
「入ってきた以上はまず戦うのがここのルール。」
「ちょっと待って下さい、そんなマイナールール知らなかったんです。それに今は暴力路線から退いていますし、すぐに敷地から出ていくので勘弁してください。」
カルメラさんはぶっ飛んでいるという言葉を頭の片隅で思い出しながら、俺は入り口へ向かおうとする。
だが、その少女は少し寝ぼけたような眼でこちらを睨んだまま、進路方向へと移動した。
「あの、本当にもう出ていきますから。こんな小物と戦っても仕方ないですよ。あちらにいる大物と相手をした方がいいと思います。」
「私はあなたがいい。それじゃあいくから。」
「いや、いかないでください。熱烈なアプローチは嬉しいんですが、シチュエーションが最悪です。わかりました。どうしてもくるというならいいでしょう、この状態の俺を攻撃できるものならしてください。」
退く気はないらしい彼女にそう言うと、俺はナイフを地面へと投げ捨てて手足を広げたまま仰向けに寝転ぶ。
これは明らかに戦闘の放棄といえる状態であり、さすがに攻撃してくることはないだろう。
『カンッ!』
『キンッ!!』
『カンッ!!!』
寝転んでからわずか数秒して、刃物と硬いものがぶつかる音とともに俺の体に小さな衝撃が加わり続ける。
「・・・あの、躊躇いなく攻撃するんですね。」
「当然。攻撃するチャンスなのに攻撃しない理由はない。けど、さっきから全然刃が通らない。」
「その躊躇いの無さは素晴らしいと思います。きっと強くなるでしょう。ですが攻撃しか選択肢にないというのは、弱さにも繋がりますよ。」
「・・・どういうこと?」
降参作戦が駄目ならば次の手に移るべく話しかけると、彼女はそう尋ね返す。
俺の話を聞くようになったというよりは攻撃が通らないため小休止という状態のようだが、このチャンスを逃すまいと話を続けた。
「単純な話です。道具を一つしか使えない人と、二つ以上使える人はどちらが強いと思いますか?もちろん一つの道具を極めれば強いですが、極めた上で他の道具も使うことができればもっと強いはずです。」
「言いたいことは何となくわかる。」
「ありがとうございます。では、もしも今しようとしている戦いが自分を強くするためならば、とりあえず攻撃を止めてみるのがいいと思います。そして例えば、敵を籠絡なんてしてみてはどうでしょうか。ちなみに俺は、一緒にお茶を飲むことで籠絡されます。」
「意外に簡単・・・わかった。やってみる。」
自分の知らない強さに興味があるのか、はたまた幼なさ故に素直なのか、提案を聞き入れてくれた彼女の気が変わらないうちにと空間魔法で敷物とお茶を取り出して素早く準備を行う。
そして自分が座ったあとに彼女に隣を勧めると、やはり素直に従うのだった。
「おいしいですね。ところで、お名前は何でしょうか。俺は冒険者のセイランスと言います。」
「モニカ。そんなことより、お茶を飲んだけど籠絡された?」
「はい、されましたよ。だからもう戦う必要はありません。戦わずして勝利するとは素晴らしいですね。」
「そう、よくわからないけど勝って強くなれたならそれでいい。」
彼女はそう返事をすると、お茶を口に含みながら黙ってアナベルお姉ちゃんの戦いを眺めていた。
それからどれくらいの時間が過ぎただろうか、やがて戦っていた子どもたちは疲れ果て、無傷のアナベルお姉ちゃんだけがそこに立っていた。
彼女は自分の周りを少し見渡すと、首を傾げながら口を開く。
「おや、今日は戦闘狂のモニカはいないんだねぇ。珍しいこともあるもんだ。」
「モニカさんなら隣でお茶をしていますよ。」
俺がそう返事をすると、彼女はこちらを振り向いてその顔に珍しく驚愕の色を浮かべていた。
「こりゃ驚いた。モニカが戦わずに呑気に観戦しているだなんて。いつもなら最後まで突っかかってくるだろうに。」
「私はセイランスを籠絡して勝った。お茶も美味しいし、今日はこれでいい。」
「はい、護衛なのに籠絡されちゃいました。申し訳ありませんアナベラさん。」
俺がお菓子を追加しながらそう告げると、彼女は呆れたようにため息を吐き、そして何かに気がついたように建物の方を向いた。
彼女につられるようにそちらの方を向くと、黒い服で身を包んだ妙齢の女性が柔和な笑みを浮かべながらこちらへと向かっているようだ。
その雰囲気はスラムに似つかわしくないとても穏やかなもので、息を荒くさせている子どもたちに優しい視線を向けたあとに、アナベルお姉ちゃんへと声をかけた。
「あらあら、今日も負けちゃったのねぇ。けれどアナベラ、いつまで経っても甘さが抜けないのは良くないわ。骨の一つや二つ、折ってしまってもいいのよ。だって子供は怪我をするものなのだから。」
「・・・子供は怪我をするものというのはそういう意味じゃないさ、カルメラさん。」
「困ったわねぇ。あなたもその立場になってから随分と経つのでしょう。そろそろ残虐性を身につけてもいいと思うの。コンラートさんに少し教育してもらおうかしら。ねぇ、あなたもそう思わない?そこの獣人さん。」
笑顔を崩さぬままにいきなりそう尋ねられた俺は、モニカを見習って今の素直な気持ちを伝えることにした。
「あの、発言内容が怖いです。やっぱり引き返してもいいでしょうか。」
「あらあら、そんなおもてなしもせずにお客様をお返しすることなんて出来ないわ。そういえば、獣人さんはまだ戦っていないみたいね。誰か半殺しにしてみたい相手はいるかしら?ごめんなさいね、さすがに殺してしまうのは駄目なの。」
その要領を得ない返事に俺は悪寒を走らせながら、なるほどアナベルお姉ちゃんをして『ぶっ飛んでいる』と言わしめるのも無理はないと思うのだった。