2-不適な朝
まだ記憶に新しい。
彼女の手を握り、振りかざし、憎しみの対象でしかない魔物に一太刀を浴びせる。その瞬間の高揚感。今でも忘れることは出来ない。そのあまりの鮮明さに、自分に恐れを感じるほどに。
あれは夢ではない。確かな現実なのだ。
深い眠りから目が覚めて、酷く汚れた木製の天井が目に映る。地下ゆえかどこか肌寒く、かけていた毛布をぐっと上げる。そしてその反対の手には、彼女の――悪魔の少女の手が握られていた。
(結局ずっと握ってたのか……)
確かな実感。僕は彼女と出会い、そして一歩前に踏み出した。
扉を開けなければ光が入ってこず、時間が分かりづらいが今は午前七時。数少ない家具の一つである小テーブルに乗せた時計が指しているのだから間違いない。僕は昔から少しばかり機械弄りが得意で、それで小遣い稼ぎをしていたのだ、時計の狂いを放ってはおかない。そういうわけで、現在は正真正銘午前七時だ。いつもどおりの日常であれば、このまま身支度を開始、そのまま部屋を出て少し遠い高校へと通うことになる。だが、あくまでそれはいつもどおりならの話。
昨日、僕は早急に《血十字教団》にこの事実を報告した。血十字教団とは国から独立した機関で、旧東京の地を管轄していた。市民には旧東京での出来事を報告する義務が課せられているのだ。
報告をしたのち教団いわく、どうやら明日、つまり今日この日に近場の教団支部でテストを受けろとのこと。急なことなので焦るかもしれないが、そう難しいものではないので落ち着いてくるように。ということらしい。焦らず落ち着いて、などと言われても、まだまともにコミュニケーションすら取れていないパートナーと一緒になってそうせずにいろというのはなかなかに難しいと思うのだ。
傍らで僕の手を握りながら、スヤスヤと眠っている悪魔に目を向ける。彼女の名はアイン。名のある悪魔だそうだが、この道に関してほぼ無知に等しい僕にはよくわからなかった。
なにか楽しい夢でも見ているのか、柔らかく笑みを浮かべながら、ややとがった耳がヒクヒクと動いていた。そんな小動物のような愛くるしさのある彼女に、僕はついイタズラ心が芽生えたのだ。
彼女を起こさないようにゆっくりと体を起こすと、アインの動く耳をピンッと指で弾いてやる。するとどうだろう「んみゅぅ」と可愛らしい声をあげ頬を布団に擦り付けた。
「…………」
癖になりそうだった。
まぁそんなことはさておき、そろそろアインも起こした方がいいのかもしれない。テストは十時の予定だが、早めの行動は大事だし、彼女とのコミュニケーションもとりたかった。
が、そのまえにすることがある。朝食の支度だ。僕は布団から離れるとアインの手をそっと放し、部屋のすみにある小さな棚を開く。そこから一枚の食パンを取りだし、備え付けのトースターに突っ込む。同じく棚から二つコップを取り出すと、一応水のでる蛇口を捻り飲み水をくむ。いつもはコップ一杯しかくまないから、なんとなく懐かしく感じた。よく考えると、こっちのコップを見るのも久しぶりだ。
……。
やめよう。今は感傷に浸っている場合ではない。そんなことよりもとりあえず朝食だ。時間もそこまであるというわけではないのだから。
「少し痛むが我慢しろよ?」
「・・・・・・わかった」
軽い朝食を終えると、僕は上着を脱ぎ捨てた。今は上半身裸というわけだ。だが別に何も疚しい事をしているわけではない。ただの食後のデザートだ。
床に腰を下ろした僕の後ろに座っていたアインが、僕の肩と腕を掴み拘束する。といっても、別に逃げも隠れもしないのでほとんど意味がないのだが、こうするほうが落ち着くそうだ。彼女のやや興奮したような甘い吐息が僕の耳元で囁くと、不本意ながら僕の鼓動も速くなっていった。しかし仕方あるまい、僕だって思春期真っ盛りの高校生男子だ。少女に背後から密着され、耳元で囁かれたら興奮もする。だが分かってもらいたいのはこれが決して疚しいことではないということだ。
ぺろり。
首に生暖かい感触が走る。くすぐったいような気持ちの悪いような感覚が全身を信号になって駆け巡る。ゾクッと震える僕の体を弄ぶかのように、彼女は「くすくす」と嗤いをこぼした。次に走るのは痛み。そして続く不思議な快楽だ。僕の首もとからは一筋の真紅が滴り、小さく喉の音が聞こえる。ゴクン、と。
「そこそこだな」
「偉そうに文句言うなよ。これでも痛いんだぞ?」
「だが興奮したろう? 気持ちよかろう?」
「…………」
赤面した僕は言い返す言葉が見つからない。
血液は魔術的な意味を持っていて、古代から悪魔との契約なんかに使われることも多々あったそうだ。そういうこともあり、別の次元より訪れた魔族には血液なんかを譲渡することでこの三次元空間に存在してもらっている。必要な過程なのだから、こればかりは我慢するしかあるまい。
地味に痛みの沸いてきた首元に止血剤を塗り、その上から包帯を巻いて処置をする。その間アインは口に含ませた残りの血液を楽しむように喉にとおすと、唇から垂れていたものを舌で舐めとった。妖しく輝く真珠のような白髪にその桜色の唇。ゆっくりと上目遣いでこちらを向くガーネットに、僕はまたときめきを感じていた。
「むふ」
「……!?」
アインが笑った。おそらく今の僕の心うちを察しての笑みだろう。しかしそれに対して何も言えないあたり、ちょっと腹が立つ。
逸らそうと思い視線を移した。するとそちらには偶然時計が。長針は八を、短針はだいたい五を指している。
もうこんな時間か。
アインも離れたところで、僕は立ち上がった。ソファに置いてあったシャツを着ると、その更に上にYシャツを着る。制服に着替えているのだ。しかしこれから教団のテストだというのに何故制服を着るのか、という話だ。実はこの制服、なかなか動きやすい設計なのだ。素材も伸縮性の高いなんとかって言う合成繊維を使っているらしく、先日の旧東京の地で僕が走り回れたのもそのおかげだったりするのだ。
「護……」
「ん?」
「んっ」
着替える僕の隣で腰を下ろしていたパートナー様は僕に手を伸ばしていた。上げろ、という要求だろう。まったくそのくらい自分でやってくれとも思うのだが、一応アインには恩もある。とりあえずは従っておこう。
「おっと」
少し強く引っ張りすぎたようで、アインの体は起き上がっただけでなく僕の体に再び密着した。しまったと思い離そうとしたが、案の定離れない。
「まだ染み付いてるのか?」
「ふむ。まだ染み付いてる。悲痛の香り……とても香ばしいよ」
「……さいですか」
アインが嗅いでいるのは僕の匂い――などではなく、昨日殺した魔物の匂いだ。その返り血の匂いだ。
「だが、それでけでもないぞ?」
「え?」
「君のこの酷く弱々しい鼓動の音。秒刻みで動くこの音がひどく懐かしく感じるのだ。そして愛おしい。不思議だろう? 君と私は昨日であったばかりなのに」
「……」
一瞬だが、彼女に目を向けられたとき、心臓を鷲掴みにされたような感覚があった。それはとても冷たく、それでいて寂しいような……。
「――護よ」
「――え?」
「今度、私にも一つ服を買ってほしいんだ。ずっとこれ一枚ではな。悪魔といえど、私だって一応女なんだぞ?」
「あ、ああ、うん。わかった。今度な」
「ふむ、ならよい」
そういうと、アインは僕から離れる。
しかし何だったのだろう。僕は、一体どうして痛んだ? 今、何を考えていた? まるで時間が止まっていたみたいだ。僕はどうかしてしまったんだろうか?
「護」
「え?」
「用意ができたのなら、もう行こう。時間が惜しいだろう?」
「あ、そうだね」
やや頭の中の整理がつかないまま、僕はアインに言われるとおりそのまま地下室の外へと出た。瞬間の日差しがまぶしく、僕の瞼を強制的に下ろさせる。すると同時、アインに手を引かれた。ゆっくりと開いた瞳に写る彼女の姿は、さながら花畑を走る少女のように明るいものだった。
瞬きをする。
アインは煩わしそうに僕の歩くのを待っていた。……錯覚、だったのだろうか。
わからない。
結局僕は、そのとき何の応えも出せずに足を進めた。不適に微笑む、ワンピース姿の悪魔のもとに。