とある場所で
大きく、白い部屋の中で一人の女性が立っていた。
様々な標本や骨。何に使うのか判らないような道具。一般の者が見れば明らかに正気を疑う程者が散乱したこの部屋は、彼女の新しい職場だった。
そんな彼女の顔色は優れず、悲しそうな顔で目の前にあるそれを見上げていた。
超高額な給料を餌にやってきたのはこの職場は、外部には決して盛らせない事もあり、缶詰の状態で働いていた。それも事実を知った今すぐにでも荷物をまとめて返りたい所だったのだが、実験に着手した今ではそれも不可能な事なのだろう。
目の前にあるガラス製の筒には液体が詰まっていて、中には人のようなものが液体の中で浮いている。
「少し危ないと思ってたんだよねぇ」
あまりに簡単に引き受けすぎたと女は思う。後の祭りでしか無いが中に浮かぶ人を見ながら端正な顔を歪ませていると、
「何があぶないんだい?」
びくっと後からかけられた声に女が驚く。いつの間に入ってきたんだろう。一人でここにいる事が多くて、つい独り言が多くなってしまった自分を呪いたい所だ。
女は取り澄ましたように見事な笑顔を作り上げると。落ち着け~と自分に言い聞かせながら振り向く。声の主へと。
「いえ、何でもないです所長」
引きつりそうな顔を必死に抑えながら見事な笑顔を作って向けてやる。
「そう、君には期待してるからね。一番いい素材を渡したし」
どの辺が一番いい素材なのかはかりかねた女は「は、はぁ」と曖昧に答える。
「信じてないみたいだね。君には新分野に挑戦してもらってるしね、皆も期待している」
「そ……そうですか。確かに渡された素材はあり得ないものばかりでしたけど最後のその……あれは」
他のものに比べて最後のものは「素材」だなんて冗談でも言えないもので、言いたくもないものだった。
「その、どうしてあんな事を?」
興味でもなく、糾弾したいわけでもなく、あんな事をしでかした理由が知りたかった。現在の研究の前に。"選定"と称して行われた事は目を背けたくなるような光景だった。
だけど、聞くべきじゃなかったとすぐに思い直した。喜々としてしゃべりだしたから。
「どうせならベースになる素材は戦わせるのに向いている方がいいだろ?」
「は、はぁですが彼らは戦う術も持っていない者ばかりでしたし、そもそも戦う事すら知らずに何も判らないまま放り出された……のにですか……?」
「だからだよ。技術も体もこちらで用意するからそんなものは必要ない。追い込まれて、考える余地もなくなった時、どんな行動を取るかが大事だ。現に多くの素材が窮地に陥った時、思考を放棄して突っ立つだけか、逃げに徹した。近くにあった素材を盾につかった素材もある。けれど君に渡した素材は……」
「違いましたね、確かに彼は」
液体の中でゆらゆらと髪を揺らす男のようなものを見て。やはり女性はやりきれない顔をする。
追い込まれれば追い込まれる程、散漫な動きになって殺される多くの者達の中、死ぬ直前で体を切り裂かれながら心臓部を貫いた彼。
そもそもあのバケモノは彼らの平均的な力では貫けない程頑強だった筈だ。
所長と呼ばれた男はにやりと見上げる。
辛そうな顔をする女と対照的に、男の顔は愉悦に染まっている。
女の後ろ。既に形となったソレを見て。
「もう大分形になったみたいだね。そう、その素材の場合は。最後の最後で攻勢に転じた。その前までは逃げ回っていたのにね。そればかりか彼らの勝てない筈の相手を一矢報いて。殺しきった。脆弱な体で戦った事もないような素材が本能だけで。だよ素材としては最高のものだろう?」
なら普通に戦う訓練をしてもよかったんじゃないかと思ってしまう。
「だからって、これは誘拐と大差ないのでは……」
「失礼だね。彼らはアニマも持たずこの世界のものでさえない。人ではないのだよ、彼らは。仮に人だとしても不完全だ。彼らの体は酷くもろい。全体の能力の一割も使えず、仮に使えば体が崩壊する。なら丈夫な体をあげようというんだ。むしろいいことだろう?」
狂ってる。そうとしか思えず女は顔を俯ける。ここではそれが当たり前の考え。ほとほとこんな所に来てしまった自分の考えの足り無さが嫌になる。
「人も能力には個人差があります。彼らの体が100%の力に耐えきれないものでも、その分かれらの魂の容量は私達を遙かに超えます」
現に彼らに与えられる素材との魂の癒着は自分達のもので行うよりも遙かに失敗はすくないだろう。だけどそういう問題じゃない。女は嫌悪感を憶えずにいられず。呆らかに彼らを見下す所長に対して憤りを感じていた。
「ふむ、君は我々と思想を別にするようだけど、それでも君が優れた錬命師であることに変わりは無い。少なくともあれらの素材で作り上げる事など君以外にはできないと思うからね。それで、経過はどうなんだい?」
これ以上の話しは無用と考えたのだろうか、所長はまじめくさった顔をすると女に尋ねた。できることなら今すぐここを出たいくらいなのだが、請け負った仕事でもある女には結果を報告するしかなかった。
「……各素材と『彼の』魂との癒着の段階に入っています。ですがいくら彼らの魂が我々よりも十分な容量があったとしても……」
「馴染まない?」
言い淀んだ言葉をくみ取るように所長はにやりと笑いながら尋ねた。
「……はい……使っている素材が素材で、本来単一で使うか、似たような性質をもったもので統一するのが普通ですけど……」
「ふむ……各素材それぞれが癖が強すぎる上に通常使う素材よりも遙かに強力なものだからね」
「はい……成功の見込みは……少ないです……複数の精神が宿るならまだしも……人格が消し飛ぶか……最悪体そのものが消滅します……」
「成功の見込みは?」
「10……いえ5%も無いかと」
「最初でそれだけできれば十分だ。また失敗すれば別の方向性の素材を用意する」
こともなげに男はそんな言葉を残して、その場を後にした。
◇◆◇
熱い。焼けるように。
まるで体中を火あぶりにされてるように熱い。
全身に火傷を負ったみたいに耐えがたい苦痛がある。
なんだこれ。
「ひゅーご……ごは……」
溺れてたみたいに、気管から水を吐いた。というか、比喩じゃなくて本当に溺れてた。
「うぅ……あぁ? ……えぁ?」
声の出し方が判らない? 喉がおかしい……体も。指一本動かす事もできなくて。嗚咽のような声をだすしかなかった。
「判る? いえ今は判らなくてもいい、ただ聞いて。貴方の意識を保つためにも」
「あぁ……うぇ……」
ぼんやりと短髪の女が見える。焦点が定らない。まともな答えも返してないのに女は一方的にしゃべりかけてくる。
「貴方は生まれ変わった。けど失敗したの。今の貴方の魂の定着率は1%少しでも何かあれば体が崩壊して死ぬ。それは今日かもしれないし、明日かもしれない。ずっと先の事かもしれないけれど。少しでも長く生きるためには外にでるしかない。経験して。色々。それで生き延びられる確率があがる」
何をいってるんだろう?
何故かとても大切な事を言っている気がして。
なんだか真剣な言葉なようなきがして。
離れそうになる意識を辛うじて押さえ込みながら続きを聞いた。
「貴方は失敗作として暴走した結果、廃棄した事にする。もし……もし貴方が万が一生き延びても。ここに戻ってきては駄目。例え復讐したくてもここを探しては駄目。貴方にとって悪い結果にしかならないわ」
辺りは暗くて。ぼんやりと定らない視界でも夜だって判る。
「大丈夫。この潮流に乗っていけば大陸に着く。定着はしていないけど貴方の体はかなり丈夫だから。貴方が生きたいと願っていれば。きっと生きてたどり着ける」
生きたい。
願う。
分からないけど。うん。そうする。
「じゃあ、出すわよ。さようなら」
なんでか、女性は痛ましい笑顔を浮かべていたような気がする。
そっと、流れていく。
ゆらゆらと。
星が見える。
俺はずっと考えていた。
生きたい。
願う。
この時はそうしたいと思っていた訳じゃないと思うけど。
だって。意識が朦朧としていて。何がどうなっていかも分からなくて。
だから言われた事をずっと考えただけだろう。
生きたい。
願うって。
それが、生まれ変わった俺の。最初の意識だった。