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小さな違和感

作者: あばら谷
掲載日:2014/02/03

 いつものように歯を磨き、スーツに着替え、8時ぴったりに出発する。

歩いて最寄りの駅に到着するまでの時間は8分。信号に引っかかったとしても9分。電車が発車する時刻は8時10分。

 どう考えても乗り遅れる可能性などなかった。


 普段と変わらぬ歩幅で、普段と変わらぬ道のりを歩く。白線の内側10センチのところを寸分の狂いもなく歩く。

途中で犬の散歩をしている老人とすれ違った。その老人とは毎回ほぼ同じタイミングですれ違う。彼もまた、いつも同じ時間に同じ道をたどるのかもしれない。


 そんなことを考えているうちに、いつの間にか駅の入り口にたどり着いていた。今日は交差点の信号には引っかからなかったみたいだ。

 改札口への階段を上りながら、右のポケットから定期券を取り出す。改札を通り抜け、ホームのいつもの場所に立つ。ここにいれば3両目の電車の入り口がちょうど目の前に来る。そして降りた時には改札口に最も近くなる。


 物事はすべてあるべき姿を保っていた。

 異質な要素など一つもない。

 線路を挟んだ向かい側に立っている木から木の葉が一枚風にあおられてはらりと落ちた。

 そこで初めて違和感に気づいた。電車が来ない。

 信号に引っかからない時ならホームに着いて二分あまりで電車が滑り込んでくるはずだ。しかし今日は到着を告げるアナウンスさえも流れてこない。

 左腕にはめた腕時計に目を移す。その文字盤に思わず目を疑った。


 8時20分。


 ありえない。直面する状況に思考が追いつかない。

 確かに8時ぴったりに出発し、いつもの道を普段通り歩いてここまで来たはずだ。どこでどう間違って10分も遅れるなどという事態が起こったのか。

 考えれば考えるほど訳が分からなくなった。周りの景色がグニャリとゆがんで見える。呼吸が荒くなり、身体の中心から熱が発せられているようだった。


 その時、脳裏にひとつの光景が浮かんだ。

 今日の朝のことだ。前日に買ってテーブルの上に置いていたペットボトルのお茶が、朝起きると倒れていた。まだ中身を開けていないので、ちょっとしたことでは倒れないはずだ。仮に地震が起こったのであれば、気づいて目を覚ましていただろう。

 今考えればペットボトルが倒れることは極めて不自然だが、今朝はそのことをさして気にもしなかった。


 そうだ。今日はペットボトルが何らかの得体の知れない力によって倒された。

 それは限りなく日常に近いが、紛れもなく非日常だ。

 昨日までとは少しだけ別の世界に入り込んでしまった。それはほんの微少な違いしかないかもしれないが、事実ペットボトルは倒れたのだ。

 だから本来なら10分で着くのに、今日は倍の時間がかかってしまったことも、不自然なことではないのかもしれない。ペットボトルが倒れたのと同じように、何らかの力が加わって時間の流れ方にひずみが生じたのだろう。そう思うことにした。いや、そうに違いない。


 結局いつもの電車には乗れなかったので、次の電車で目的地に向かった。結果的に少しだけ遅れてしまったが、そんなことはどうでもよかった。

 この世界が昨日までとは違うと、気がついているのは私だけなのだ。その日は一日優越感に浸り、酔いしれた。誰かに言ってしまいたい衝動に駆られたが、そうすると元の世界に戻ってしまうのではないかと恐れた。

 とにかくこの世界の秘密を知っているのは私だけ。そう思うと自然と笑みがこぼれる。と同時に、周りの人間がひどく下劣な存在に感じられてきた。

 言うなれば私は都会に鎮座する気高い案山子だ。


 夜帰宅すると、テーブルの上にはペットボトルが今朝のままの状態で倒れていた。それを再び立てておく。

 その夜はなかなか眠ることができなかった。異常な興奮状態にあり、新たな世界でこれから起こることをいつまでも夢想し続けた。それは今まで経験したこともないような快楽的な時間だった。

 安寧に包まれたまますっと眠りに落ちる。


 朝起きると、ペットボトルは立っていた。


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