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二度目の亡失

これは、第一回「ラノベ作家になろう大賞」第2次選考落選作品です。

拙い文章ですが、最後まで読んでいただけると幸いです。

  1


「カナター、迎えに来たぞー。」

 遠くから聞こえてきた声に反応し、私は目を覚ます。

 この声は二件隣の家に住んでいる幼馴染の声だ。毎朝よくも飽きることなく叫べるものだ。毎朝玄関で叫ばれると声が家の中で反響して騒々しいのだが、私にとっては貴重な目覚ましなので注意しようにも注意できない。

 私は枕に押し付けていた顔を回転させ、仰向けになる。すると、瞼に強い光が当たった。

 どうやら東の窓から入ってくる朝日が私の顔を照らしているようだ。その光を手のひらで遮り、私は薄目を開ける。

 窓のカーテンの隙間からは光が差し込んでおり、ベッドの上に一筋の線を描いている。その線は私の胸元を通過し、顔にまで達していた。道理で眩しいわけである。

 手のひらに太陽光の温かさを感じていると、再び遠くから幼馴染の声が聞こえてきた。

「起きてるのかカナター、返事しろー。」

「起きてるよー……。」

 私は少し声を張り上げて幼馴染の呼び声に応じ、ベッドから降りる。

 私の部屋は玄関から一番近い場所にあるので、こうして玄関からの声がはっきりと聞こえている。もちろん、こちらの声も玄関まで届いているはずだ。

 玄関に近いと移動が楽そうに思えるが、髪のセットや着替えなどの準備のために洗面所やリビングに行かなければならないので実は面倒だったりする。

 しかし、部屋の中については文句ない。一人部屋にしては結構広い方だと思う。

 室内にはベッドの他に木製の机や小さな本棚もある。そのどれもが部屋の南北の壁際に配置されていて、中央には一本の広い通路ができている。

 私はその短くて広い道を通り、スライド式のドアを開けて廊下に出た。

 部屋から出ると左手側に玄関が見え、そこには学生服を着た少年がいた。

 髪の毛を金色に染めている彼こそ、私の幼馴染の鷲住良人わしずみりょうとだ。

「おはよー、りょうくん。ちょっと待ってて。」

「早くしろよな、カナタ。」

 私は彼のことを“りょうくん”と呼んでいる。小さい頃からこう呼び続けているのだが、私も彼ももう中学3年生にもなるのだし、呼び方を変えたほうがいいのかもしれない。

 ちなみに私の名前は岩瀬彼方いわせかなただ。

 良人は私のことを“カナタ”と呼び捨てにしている。つい最近までは“かなちゃん”と呼ばれていたのだが、中学生になってから呼ばれなくなってしまった。

 多分、“ちゃん”付けで名前を呼ぶのが恥ずかしいに違いない。そう考えると私が“りょうくん”と呼んでいるのも嫌がっている可能性もあるし、今度試しに呼び捨てで呼んでみよう。

 呼び方についてはともかく、彼と私は仲がいい。

 どれくらい仲がいいかというと、だらしない寝間着姿やボサボサの寝癖を見られても全く気にしないくらい親しい。

 今朝もそのだらしない格好を見せつつ、私は玄関に背を向けて家の奥にある洗面所へと向かう。

 洗面所に向かう途中、家のリビングにある時計が目に入った。

 時計の針は7時20分を指している。あと10分で家を出る必要があるので、朝ごはんは食べられそうにない。

 リビングのテーブルの上にはラップが掛けられた平皿が置いてあった。廊下からだと何が入っているのか分からない。でも、朝食なのは確実だ。

 テーブルにはその皿しかなく、リビングルームにも誰もいない。

 両親は共働きで朝が早いし、お姉ちゃんも少し離れた高校に通っているので朝の6時には家を出ている。この家の中でのんびり眠っていられるのは中学生の私だけだ。

 ぼんやりしたままのそのそと洗面所に向かっていると、再び背後から良人の声がする。

「おーい、着替え手伝おうか?」

 その言葉で目が覚め、私は慌てて拒否をする。

「いやいや、一人で大丈夫だから。」

 危うく「うん」と言ってしまうところだった。危ない危ない。

 その後、私は洗面所で顔を洗い、寝癖を直すべく髪を整える。その間、鏡には金色に光るショートカットの髪が映っていた。もちろんこれは私の髪の毛だ。

 良人と同じ金髪なのだが、これは染めたのではない。地毛だ。

 瞳の色も黒じゃなくて青い。日本で生まれて日本で育って日本語しか喋ることができない私だが、どこからどう見ても北欧あたりの外国人だ。インドア派なので日焼けもしてないため、肌も白い。

 どれもこれも自分を構成している物だが、何度見ても慣れない。やはり、周りと違うというのは結構気になる。

 そんなことを考えつつ身支度をしていると、携帯電話のアラームが鳴り始めた。これは私が自分で設定しているアラームだ。この音が鳴ったら家を出ないと学校に間に合わない。

 玄関にいる良人にもこの音が聞こえたらしい。問答無用で玄関から上がってきた。

「ほら、ボーッとしてるからギリギリになったじゃねーか。準備できたか?」

「まだ、後1分だけ待って。」

 私は脱衣所からブラウスを手に取り、その袖に素早く手を通す。そしてプリーツスカートに足を通して腰元で留めると、最後に制服を羽織った。

 着替えが終わると同時に良人は洗面所に入って来る。そして、私の準備が完了したことを確認すると、小さく「よし」と言って頷いた。

「それじゃ行くぞ。いいな?」

「うん、今日もお願いね。」

「おう。」

 良人は慣れたふうに返事をすると、私の背後に回り込んだ。

 そして、私が座っている車椅子の取っ手を掴み、玄関に向けて押し始めた。


  2


 今から12年前の7月20日、この日から私の足は動かなくなった。

 当時3歳だった私はかなり高い場所から転落し、重傷を負った。今でもその時の事は微かに覚えている。半分転がるようにして山の斜面を落下し、硬い岩に何度も体を打ちつけられた。今でもたまに夢で見る。

 落下した後、私はレスキュー隊によって無事に救助された。しかし、心肺停止状態が長く続いたせいで、治療が済んでもしばらくの間私は目を覚まさなかった。いわゆる昏睡状態に陥ったのだ。

 それから半年後、私は奇跡的に目を覚ました。まだ幼かったこともあってか、脳障害も起こすことなく2ヶ月後には退院できた。……が、岩に体を打ち付けた時に腰辺りの背骨を激しく損傷し、足が動かなくなってしまった。

 その損傷のせいで足が動かない以外にも色々と不便なことはあったが、物心ついた時からこの状態なのであまり深刻に考えてはいない。今では車椅子も体の一部のように扱えているし、生活で困ることもあんまりない。

 それに、昔から良人が何かにつけて助けてくれるので困ったことがあっても平気だ。

 毎朝一緒に登校してくれるし、学校内でも階段を移動するときなどは抱えてくれる。

 ちなみに、中学1年生の頃は校舎の1階に教室があったので問題なかった。しかし、2,3年生になると上階になる。

 40キロ前半の私を持っての登り降りは結構な重労働だ。そのお陰で良人も結構筋肉が付いていると思う。

 今日も私は良人のエスコートを受け、時間ギリギリで3年3組の教室に入っていた。

 良人は車椅子ごと私を教室内に押し込むと、隣のクラスへと移動していく。

「また昼休みな。」

「うん。」

 短い会話を交わすと、すぐに朝礼の時間を知らせるチャイムが鳴り響く。

 私はそのチャイムが鳴り止まぬうちに自分の席へと車椅子を滑らせていく。私の席は教室の隅だ。一番後ろの窓際の席。席替えで最も人気がある席でもある。

 私は足が動かないのを理由にして、この席を占拠している。職権乱用のようなものだ。

 実際、この位置は私のような車椅子を利用している生徒にとって都合がいい場所でもある。

 教室後部にはスペースがあるので物に当たることなく移動できるし、出入り口のドアから離れているので他の生徒の邪魔にならない。

 私にとっても快適だし、みんなにとっても快適なのだから悪いことはないはずだ。

 教室の隅にある席まで移動し、鞄から筆箱とノートを取り出していると、間もなく教室に先生が現れた。

 教室のざわつきが収まらないうちに、先生は出席を取り始める。

「出席取るぞー。……岩瀬。」

「はい。」

 私は出席番号1番だ。これは中3にして初めて獲得できた1番でもある。今までは秋月君とか青木君などのせいで2番か3番だったが、3年3組には“あ”から始まる生徒がいない。

「次、えー……江藤。」

「はい。」

「……柏木。」

「はーい。」

 先生が出席を取り出すと、教室のざわめきも収まってきた。

 暇になった私はクラス全員が返事をし終えるまでの間、左側にある窓から外を眺めることにする。

 3階の教室から見えるのは広いグラウンド、そして、緑の藻が浮いているプールだ。

 校外に目を向けると、住宅街があり、更に向こうには海が見える。

 その海には無数の島が浮かんでいて、島と島の間には大きな吊り橋が架かっている。

 ここからだと一つ目の橋しか見えないが、相変わらず壮観な景色だ。

 あの橋は私が生まれる前からあったらしい。でも、老朽化が進んで改修が行われ、名前を新しく『有津大橋』としたと聞いている。社会の授業では『有津造船工業』という会社がどこの援助も受けずに改修したと教えられた。

 今私が住んでいる有津市も元々は違う名前の市だったのに、こちらも有津造船工業が巨額を投じて市の名称を買い取ったとも聞いている。

 ドームとか、サッカー場に企業の名前をつけるのは知っているけれど、市の名前を買い取るなんてすごい金持ち企業なのだろう。

 その有津造船のおかげで有津市は潤ってるのだから、それでもいい気はする。

 給食が超美味しいのも、私が通っていた小学校に私専用のエスカレーターが取り付けられたのも全部有津造船のおかげだ。

 中学校に上がるときにはエレベーターを付けようなんて話も上がったけれど、流石にみんなに悪いので断ってもらった。

 ぼんやりと海を見ていると、造船用の大きなクレーンが確認できた。ここからだとあまり大きく見えないが、社会科見学でみたときは驚くほど大きかった。

 建造中の船も滅茶苦茶大きくて、迫力ある進水式も未だに鮮明に覚えている。

 その時のことを思い出しつつ外を見ていると、チョークが黒板を叩く音が耳に入ってきた。どうやらもう朝礼が終わったようだ。

 視線を前に向けると先生が教科書片手に黒板に数式を書いていた。

 私もみんなに遅れないよう、ノートを開いてその内容を書き写し始めた。

 

  3

 

 昼休み。

 給食が終わると学校中が生徒の声で騒がしくなる。

 男子生徒はすぐにグラウンドに向かい、女子生徒は屋上のオープンスペースか中庭に向かう。クラス替えをしてまだ二週間かそこらなのにみんな仲が良さそうだ。まぁ、クラスが4つしかない上、大抵が小学生の頃からの知り合いなのでコミュニケーションには何の問題もないのだろう。

 私も出来る事なら外に出て春の陽気さを感じたいが、移動が面倒なので教室で過ごしている。と言うか、私一人では階段を移動できない。

 空に浮かんでいる雲を見ながら窓際で黄昏れていると、ようやく話し相手が教室にやってきた。

「悪いカナタ、今日給食当番でさ。」

「やっぱりそうだったんだ。」

 教室に入ってきた良人は私の隣の席を陣取る。

「今日は屋上行ってみるか? あんまり人いなさそうだったぞ。」

「別にいい。恥ずかしいし。」

 正直、移動の度に良人に抱き抱えられるのは恥ずかしい。

 しかし、それ以上に私は良人に自分を運ばせることを悪いと感じていた。

「りょうくんこそグラウンド行きなよ。サッカー面白そうだよ。」

「俺は……いいよ。」

 私の相手をしているせいで、良人の休み時間を無駄にしている自覚はある。

 でも、悪いと思いつつも、私は良人に頼らざるを得ない。長い昼休みを一人ぼっちで過ごすのはあまりにも寂しすぎる。

 毎日こちらの教室に来てくれるのが当たり前になっているので、今日みたいに少し遅れただけでも孤独感が半端ない。

 もし違う高校に進学したら私はどうすればいいのだろうか。

 誰かに頼まないと満足に移動できない私に快適な高校生活が送れるのだろうか……。

 もう中学3年生だ。そろそろまじめに進路を考えなければならないのかもしれない。

 私が色々と悩んでいるのに良人はそんな事は微塵も考えていないらしい。窓の外を見ながら私に質問してきた。

「なあカナタ、あれ何だ?」

 良人は急に私に身を寄せたかと思うと、覆い被さるような形で座っている私を通り越し、窓に張り付く。不意に体を寄せられたせいで体がビクリと反応してしまう。

 そんな動きを誤魔化すように私は窓に上半身を向け、良人の視線に誘導されて窓の外を見る。

 良人が見ている辺りには小さな白い雲が浮かんでいた。今日は晴れていてそこそこ暖かい。

 雲の形が面白いのだろうかと思っていると、不意に雲の合間に素早く動く点を見つけた。

 近くに虫が飛んでいるかとも考えたが、雲に隠れたりしているし遠くの空を飛んでいるのは間違いない。

 その素早く動く点について、私は適当な予想を披露する。

「鳥でしょ。」

「鳥があんなに高く飛ぶか……あ、消えた……。」

 良人の言葉を聞いて私は再び外に目を向ける。しかし、良人の言う通り、小さな点は消えてなくなっていた。

 消えた後もしばらく良人は遠くの空を見つめていた。だが、十秒もすると良人は自分が私の体に寄りかかっている事に気付いたらしく、さっと窓から離れて私の隣の席に戻った。

「やっぱあれUFOかもなぁ……」

「“やっぱり”ってことは前にも見たことあるの?」

「俺は今日はじめて見たけどさ、有津市じゃ結構噂になってるみたいだぞ。俺のクラスでも話してる奴いたし。」

「ふーん……。りょうくん、そういうの好きなんだ。」

「いや別に好きじゃないけどさ。実物見ると気になるというか……、カナタも驚いただろ?」

「そりゃあ驚いたけど、別に正体が分かったからってどうなるわけでもないし。」

 このままUFO談義になるのはつまらない。

 話題を逸らそうと頑張ってみたものの、良人は妙にUFOに拘っていた。

「なぁカナタ、授業中外眺めてるよな?」

「たまにね。」

「じゃあさ、なんか飛んでるの見つけたらケータイのカメラで撮ってくれないか?」

「えー、めんどくさい。」

 素直な気持ちを告げるも、良人はこのくらいではへこたれない。

「そんなこと言うなよ、このくらいいいだろ? 絶対また現れるだろうしさ。」

 良人は両手のひらを合わせて私にお願いしてきた。

 よく考えると、良人が私にお願いをするなんてことはこれが初めてではないだろうか。

 いつも私は良人に面倒を見てもらってるし、これからも迷惑を掛けるはずだ。それなのに、ここで良人の頼みを拒否するのはあまりにもわがままだし、恩知らず過ぎる。

 それに、UFOでも何でも、せっかく良人が興味を持っているのだし、このくらい協力してもいいだろう。

 瞬時に考えを変え、私は首を縦にふる。

「……わかった。写真くらい取れるし、協力してもいいよ。」

「おおサンキュー。」

「いいっていいって、私にはこれくらいしかできないし。」

 そう言って私は自分の足に目を落とす。そこには私の手に揉まれている両足があった。

 どうやら私は無意識のうちにスカートの上から足を撫でていたみたいだ。毎晩足を無理矢理動かしてリハビリしているおかげでやせ細ってはいないが、やはりみんなと比べるととても細い。

 もし、奇跡が起きて足が動くようになったとしても満足に歩くこともできないはずだ。

 意図せず暗い気持ちになってしまい、私はそれを払拭するためにぎこちないながらも明るい表情を作って良人に笑いかける。

「もしUFOだったら私の名前つけるからね。なーんて……」

「ごめんな、カナタ……。」

 良人は私の言葉を無視して立ち上がると、こちらの頭に手を載せて軽くポンポンと叩く。

 それが終わると良人は教室の前、黒板の上にある時計を見る。

「……そろそろ掃除の時間だな。じゃあなカナタ。」

「うん、また放課後ね。」

 言葉を返すと、良人は私の頭から手を離し、教室から出て行く。

 なぜ良人はいきなり私に謝ったのか、その理由が全く分からなかった。


  4


「やっぱり、良人も気を使ってるんだなぁ……」

 私のそんなつぶやきは部屋の中の空間に吸い込まれていく。

 今の時刻は夜の10時。いつものように私はお風呂から出て着替えも終え、自室の中でぼんやりとしていた。

 ぼんやりしながら、私は昼間に良人と交わした会話を思い出す。

 結局、放課後はあまり良人と話さなかった。それも少し気掛かりだったが、私はいきなり良人が謝ったことを疑問に思っていた。

「たまにあるんだよなぁ……」

 今日みたいな事はあまり珍しいことじゃない。月に一度か二度くらい、良人は私の足を見て物憂げというか、悲しげな表情を見せるのだ。

 私のことを単に可哀想だと思っているわけでも無さそうだし、何か理由があるのかもしれない。まぁ、いつも通りなら明日になればケロリとしているし、深く悩むこともないだろう。

 それにしても上半身の力だけでお風呂に入るのは疲れる。手摺が沢山付いているには付いているが、浴槽に出たり入ったりするのはやっぱりしんどい。

 着替えは簡単に着られるものを選んでいるので問題はないが、風呂に入るためだけに車椅子からいったん降りるのは一苦労だ。

 一人でお風呂に入れるようになったのは最近のことで、小学4年生まではお父さんかお母さんに手伝ってもらい、中学生まではお母さんに手伝ってもらい、1年くらい前まではお姉ちゃんに頼んでいた。

 でも今は一人で入っている。理由はもちろん“恥ずかしい”からだ。

 ”恥ずかしい”と言えば、今日は良人に近付かれた時にドキリとしてしまった。

 移動のために抱き抱えられてもあまりドキリとしないのに、なぜ今日はあんなことで反応してしまったのだろうか……。

 最近良人は背が高くなってきてるし、心なしか顔つきも男っぽくなってきてる。イケメンって言うと違和感があるけれど、爽やかな男子生徒というイメージにはぴったりな気がするので、世間で言うとカッコいい部類に入ると思う。

 それだけではない。私のことを甲斐甲斐しく世話するほど親切で優しいし、私を軽く持ち上げることができるくらい体格もいい。それを当たり前のようにサラッとやってのけるのだからナイスガイと言っても良いくらいだ。

「もしかして……りょうくんって結構モテてるんじゃ……」

 良人のことを考えているうちに注意力が散漫になっていたようだ。思っていたことが言葉となって口の隙間から漏れる。

 その独り言に反応する者がいた。

「なに言ってるのよカナタ……。アンニュイなオーラが駄々漏れよ。」

 急に聞こえてきた女性の声に反応して部屋の入口に顔を向ける。そこには見知った人物が立っていた。

「お、お姉ちゃん!?」

 私に声を掛けてきたのは私の姉だった。

 お姉ちゃんは部屋の入口から顔を覗かせ、にまにまと笑っている。

「……さっきの聞いてたの?」

「良人君っていい子よね。あんな男の子に付きっきりで面倒見てもらえて、間違いなくカナタは幸せ者よ。」

 お姉ちゃんには全部お見通しみたいだ。全部本当の事なので全く言い返せない。

 ……私の姉、岩瀬比奈いわせひなは私より2歳年上の高校2年生だ。

 身長は170cmくらいあって、スタイルも良ければ足も綺麗で長い。ダークブラウンのロングヘアーも綺麗で、一房3万円くらいで売れそうなくらい艷やかだ。今はお風呂から出たばかりのようで、しっとりと濡れている。

 髪の色も体型も私とは全く違うお姉ちゃんは、いやらしい笑みを浮かべながら部屋の中に入ってきて、そのまま勢い良くベッドにおしりから飛び乗った。そして長い足であぐらをかき、話しかけてくる。

「どうしたのよ、今更良人君の良さに気が付いたの? それとも、それを通り越して誰かに取られやしないか不安になってるとか。」

「違う、ぜんぜん違うから。」

「じゃあその恋する乙女みたいな表情止めなさいよ。唯でさえ金髪碧眼の病弱美少女で無駄に絵になってるのに、そんな表情他人に見せたら大きな誤解を生むわよ。」

 この人は毎度よくもこれだけ無駄なことを喋れるものだ。黙ってればいいのに勿体ない。

 このままだと色々と意味のない会話が繰り広げられそうなので、私は思っていたことを素直に伝えることにする。

「今日、初めてりょうくんから頼まれごとされて、今までお世話になった分頑張らないとなって思ってただけだから。そんなに浮ついた事考えてないからね。」

「何よその言い方。まるで私の頭の中が年から年中桃色でいっぱいみたいな……」

「もう何も言わなくていいから、用がないならさっさと2階に行ってよ。」

 お姉ちゃんはファッション誌と無駄話が大好きだ。私が何も話さなくても2,3時間話し続ける面倒な人間なのだ。

 いい加減面倒になった私は姉を追い出すべく車椅子を支柱に押し当てベッドを揺らす。

 すると、急にお姉ちゃんは何かを思い出したようにベッドから降りた。

「あ、そうだった。今日はお母さん遅いから私がカナタの髪を乾かすんだった。」

 お姉ちゃんはそう言って部屋から出て行き、すぐにタオルと櫛とドライヤーを持って帰ってきた。

「ここで乾かすつもり?」

「もちろん。」

「……。」

 私はこれからしばらく姉から逃げられないと悟り、静かな夜を過ごすことを諦めた。


  5


 ふと目が覚めると、私は暗い部屋の中、ベッドの上に寝かされていた。

 ……いつの間に眠ってしまったのだろうか。

 かろうじて覚えているのはお姉ちゃんが背後から私を抱いた状態で愚痴をこぼしていたシーンだ。それ以降は全く覚えていない。

 暗闇の中、私は枕元に置いてある携帯電話に手を伸ばし、時間を確認する。

 今は夜中の3時過ぎだ。お父さんもお母さんももう帰ってきて眠りに付いているはずだ。

 なぜこんな時間に目が覚めてしまったのだろう。

 また眠りにつこうと目を閉じてみたが、あんまり眠くない。かと言って、起きる気もしない。

 目を開けたまま暗闇をぼんやり見ていると、不意に視界の隅に小さく光るものを見つけた。それは東側の窓から見えた光だった。

 ベッドに仰向けになったまま、私は窓から外を見る。

 見えるのは暗い夜空に浮かぶ無数の星だ。しかし、先ほどチラリと見えた光は星の光ではない。なぜなら星は点滅しないからだ。

 もしかして寝ぼけていたせいで幻覚でも見たのかもしれない。昨日の昼休みに良人とUFOの話をしたせいでこんな幻覚が見えたのだろう。

 そう思い、私は眠るために目を閉じる。しかし、その寸前で夜空に点滅する小さな光を再び見つけた。今度こそ間違いではない。はっきりと青い光が見える。

 それを自覚した瞬間、胸の鼓動が強くなるのを感じた。

「UFOだ……。」

 一気に目が覚めた私は掛け布団を押しのけて上半身を起こし、ベッドの上を滑るようにしてベッド脇にある車椅子に移る。そして、携帯電話のカメラ機能を起動させ、窓際に近寄った。

 夜空に浮遊する青い光は昼間とは違って空の低い位置をウロウロと飛んでいる。私は携帯を窓の外に向け、パシャパシャと写真を撮っていく。

 こんなにも早く良人のお願いを達成できるとは思わなかった。明日見せたらすごく驚くはずだ。そして、すごく褒め称えてくれるに違いない。

 良人の喜ぶ顔を思い浮かべながら写真を撮っていると、青い光が更に高度を落とし始めた。同時に、光が一つではない事も分かった。青い光に追従するように微かに赤い光が見える。

 2つの光は時折接近したり、追いかけあったりしながらどんどん高度を落としていく。

 その後も光は加速したまま下降を続け、スピードを保ったまま地面に落ちてしまった。

 まるで現実とは思えない展開に、私の鼓動は更に早くなり、手も震えだす。

「墜落した……?」

 もしかすると私はとんでもない物を目撃してしまったのではないだろうか。もしもアレがUFOだとしたら世紀の大発見どころではない。人類史上最大の発見になる。

 光が落ちた場所の検討はだいたい付いている。ここからだと正確には見えないが、多分漁船係留所のあたりだ。何度も散歩で通ったことがあるし30分もあれば行けるはずだ。

 夜道なので多少不安だが、他の人よりも先に何かを見つけたいし、迷っている暇はない。

 私は部屋の出入り口にある背の低いハンガーからジャンパーを取り、部屋を出る。

 廊下に出ると、私はそのまま静かに玄関まで移動し、短いスロープを下って土間に降りた。そして、なるべく音を立てないようにドアの鍵を開ける。

 玄関のドアを開けると冷たい空気が家の中に入ってきて、私の顔を撫でた。春とは言えど、夜になると寒い。

 鳥肌を立たせつつも、私は室内用の車輪カバーを外して外に出る。

 一人で外を移動するのは不安だが、今は恐怖よりも好奇心のほうが強かった。


  6


 家を出た後、私は県道沿いの広い歩道を移動していた。

 幹線道路には昼間とは違って車も自転車も通っていない。

 やっぱりスイスイ移動できるのは気持ちがいい。この分だと20分もあれば到着できるかもしれない。

 やがて海岸に近付くと住宅地が少なくなり、代わりに工場などが増えてきた。

 この町工場は造船用の部品やパーツを作っている工場が殆どらしい。ここで出来上がった部品たちが有津市の港にある造船所に集まって、船が建造されているというわけだ。

 社会の授業で聞いたことを思い出していると、潮の香りが鼻に届いてきた。まだまだ町工場しか見えないが、もうちょっとで海が見えてくるはずだ。

 そんな私の考えはすぐに的中し、次のカーブを曲がった所で船の係留所が視界に飛び込んできた。係留所は海岸沿いに伸びていて、およそ100近い船がズラリと並べられている。

 現在は暗くて遠くまではっきりと見えないため、余計に多く停まっているように見えた。

「この辺りだと思うんだけど……」

 呟きつつ、私は携帯のカメラを構え、海岸沿いを慎重に移動していく。

 周囲に墜落した円盤型の飛行物体などは見られない。今感じられるのは寒さと海に向かって吹いている陸風だけだ。

 もしかして、私が移動している間に飛び立ってしまったのだろうか……。

 やっぱり、馬鹿みたいにUFOを探さなくてもいいかもしれない。写真は撮れたわけだし、これだけで十分なのだ。

 半ば自分がとった行動を反省していると、前方から何か重い物同士が擦れるような、不気味な音が聞こえてきた。

 音がした場所に視線を向けるも、月明かりだけでは何が音を出しているのか判別することができない。しかし、その方向には駐車場があることだけは分かった。

 駐車場は海沿いにあるレストランの駐車場だ。あのレストランは海鮮丼が美味しいと評判の店で、チラシでも結構見かける。……が、一度も食べに行ったことはない。

 レストランの料理はともかく、駐車場を注意深く観察していると何か動いているものが確認できた。

 初めは車かと思ったが、大きさが同じくらいというだけで、全く違う別の何かのようだ。

 更に近付いて行くと、その全貌が明らかになってきた。

「何アレ……」

 それは一言で言い表すと巨大な犬だった。

 しかし、車ほどの大きさの犬は地球上に存在しないので、犬じゃないという事は明らかだ。

 その巨大な犬は現在、豪快に地面にめり込んでいた。駐車場のアスファルトは重機で掘ったのではないかと思われるほど抉れている。

 巨大な犬は前足をゆっくりと動かしながらその穴から這い出している途中だった。

 これがUFOの正体なのだろうか。だとするならばこれは宇宙人ということになるのかもしれない。

 しばらく呆気にとられていた私だったが、すぐに携帯を持ち直してカメラ機能を起動させる。この写真が歴史的な写真になるかもしれないのだ。

 巨大な犬をフレーム内に収め、ピントを合わせて慎重に撮影しようと思ったその時、思いもよらぬことが起こった。

 シャッターボタンを押した瞬間、自動的にフラッシュ機能が起動してしまったのだ。

 携帯から発せられたフラッシュライトは巨大な犬に浴びせられ、その輪郭をより鮮明に映し出す。

 巨大な犬には毛が生えておらず、全身が黒いのっぺりとした物体で覆われていた。足先の爪も口の中にある牙も真っ黒だ。

 より詳しく観察できたのは良かったが、このフラッシュで私の存在が知られたようで、巨大な犬は私に頭を向ける。それと同時に体が青く光り始めた。

 その光り方は電灯のようにパッと光るものではなく、消えかけていた焚き火が再び火力を取り戻したような、そんな光だった。

 青い光が発せられた途端、巨大な犬は今までのスローな動きが嘘だったかのように穴から素早く這い出し、こちら目掛けて駆け出す。

「……!!」

 私の頭をよぎったのは“死”という単純な一文字だった。

 あんな大きな怪物に襲われたら人間なんて一溜まりもない。足が動かない女子中学生なんて一瞬のうちに殺されてしまう。

 動けないまま目を見開いて犬の怪物が接近するのを見つめていると、急に体が中に浮いた。

 そのまま私は上昇していき、あっという間に空に到達する。

 一体何が起こったのか理解できず、初めて感じる浮遊感に私は混乱していた。

 もしかして幽体離脱してしまったのではないだろうか。あの犬の怪物に襲われて魂が肉体を離れてしまったのだろう。

 しかし、私が元いた場所には犬の怪物以外何もない。

 奇妙な現象に頭を抱えつつ空から下を眺めていると、犬の怪物の頭上に何か金属で構成されたものが衝突した。それには二つの車輪がついており、自分が乗っていた車椅子であることが分かった。

 そんな様子を呆然と眺めていると、すぐ背後から男性の声が聞こえてきた。

「こんな夜中に何をしてるんだ。危うく死ぬところだったぞ。」

 その声で、私は現実に引き戻される。

 幽体離脱でも何でもない、今私は間違いなく空に浮かんでいる。

 どうやら何者かが私の腰を抱え、何らかの方法で空に浮かんでいるようだ。さっきのセリフから考えると、私をあの犬の怪物から助けてくれたと考えていいだろう。

 私は腰を抱えられた状態で振り向き、顔を見ようとする。しかし、顔は黒いバイザー付きのヘルメットで覆われ、確認することができなかった。

 ……だが、体中から淡い赤い光が発せられている事だけは分かった。

「あ、この光は……」

 この赤い光を見て私は状況を理解する。

 家から見えた2つの光、青い光を出していたのはあの犬の怪物で、赤い光を出していたのが私を助けてくれたこの人に違いない。……今は人かどうか判断できないが、助けてくれたのだし味方だと考えていいだろう。

 赤い光が見えにくかったのは、単に体の大きさが小さかったからだろう。この2メートルくらいの発光体を遠くから発見できた私の視力はすごくいいのかもしれない。

 しばらくの間、赤い光を放つ人を見つめていると、その視線を無理やり剥がすようにその人は私の体を正面に向かせた。

「とりあえず離れた場所に降ろしてやるからすぐに逃げろ。いいな?」

「あ、はい。」

 と、ここで私は重要なことを思い出す。逃げようにも車椅子が無いので移動できないのだ。肝心の車椅子は犬の怪物にメチャクチャにされて原型を留めていない。

 やがて赤く光る人は私を犬の怪物から見えない場所に下ろしてくれた。そのまま去ろうとしたので、私は慌てて呼び止める。

「あのすみません、私、車椅子が無いと動けなくて……」

 声をかけると、その人は振り向いてくれた。その時初めて私はその人の全貌を見ることができた。

 その人は全身が光っているというわけではなく、外側に着ているコートだけが赤く発光しているようだった。そして、コート以外の部分、特に腰から足にかけてはプロテクターのような物で覆われていた。

 生身の部分が全く見えないので一瞬ロボットかとも思ったが、その動き方は人のものであり、人が特殊なスーツを装着しているのだと理解した。

 よく見るとコートも普通の形状をしておらず、所々に特徴的なマークやら何やらわからない機械が取り付けられている。

 ヘルメットもバイク乗りが被っているようなものではなく、かと言って潜水士や宇宙飛行士のヘルメットにも見えない。その形状は攻撃的であり、戦闘用のヘルメットだと予想できた。

 赤く光る特殊なコートを着た男はこちらの言葉に反応し、地面にへたり込んでいる私に向かって冷たい言葉を投げかける。

「歩けないのか……。だったら這って逃げろ。以上。」

「そんな……」

 あんな犬の化け物が近くにいるのに、今ここで一人になるなんて不安で不安で仕方がない。せっかく意思疎通できる人が来てくれたのだし、今すぐ私を保護して逃げてほしい。

「あの、できればもっと遠くに逃がして欲しいんですけど。」

「情けないな。……だったらそこらへんに隠れてじっとしていろ、終わったら迎えに……!!」

 その言葉の途中で、特殊なコートを着た男は私から離れて背後に振り向く。すると、タイミングよく青く光る犬の怪物が出現し、二人はそのまま衝突して上空へと飛び上がっていった。

 あっという間に2つの光は空高く舞い上がり、見たこともないような速さで空中で何度もぶつかり合う。

 ひとまず危機が去った所で、私は今のこの状況を冷静に分析してみる。

 まず、あの赤く光るコートを着ている人と、青く光る犬の怪物は敵同士だろう。で、赤く光るコートを着てる人は味方で、犬の怪物は敵だ。

 どういう理屈であんなに自由に空を飛べるのかは理解できる気がしないが、敵か味方かさえ判断出来れば問題ない。あの人の口調からすると簡単に怪物を退治できそうだったし、言われたとおりにここで大人しく隠れていよう。詳しいことはその時に聞いたので構わない。

 空中で音もなくぶつかり合う2つの光を眺めていると、青い光に弾かれて赤い光がこちらに落下してきた。その光はすぐ近くの道路に衝突し、アスファルトに大きな穴を開ける。

 続いて青い光を放つ犬の怪物も同じ地点に落下し、地面に倒れていた男にさらなる衝撃を与えた。その衝撃の余波は20メートル以上離れている私のところまで届き、アスファルトの破片を周囲に撒き散らしながら大きく地面を揺らす。

 犬の怪物はコートを着た男を前足で押さえ、もう片方の前足で男を殴り始める。

 前足を振るたびに鈍い打撃音が周囲に響き、地面に散らばっているアスファルトの破片を振動させる。

 それを見てようやく私は赤く光るコートを着た男が危険な状態にあることを理解した。

 こうなってしまった以上、助かるためには一人でこっそり逃げるしか無い。匍匐前進は得意じゃないが、今はそんな文句を言っている場合ではない。

 頭ではそう思っていたのに、私の口は勝手に動いていた。

「やめろ!! その人から離れなさいよ!!」

 なぜこんな事を叫んでしまったのか、後悔の時間を犬の怪物は私に与えてくれなかった。

 犬の怪物は私の声に反応して男を殴るのをストップし、凶悪な顔をこちらに向ける。大きく裂けた口からは大きさが不揃いの鋭い牙が見える。その口を大きく広げ、犬の怪物は急接近してきた。

 20メートルあった距離は1秒もしないうちにゼロになり、犬の怪物は私に襲いかかってくる。

 私は咄嗟に後ろを向いて逃げようとしたが、既にその時には肉が引き裂かれるようなグロテスクな音が耳に届いていた。

 それと同時に、なぜか体が軽くなった。

 そうなった理由を私は瞬時に理解した。

 ……脚を噛み千切られたのだ。

 今、この時ほど自分の足に感覚が無くて良かったと思ったことはなかっただろう。

 全く痛みを感じないまま、私は犬の怪物から距離をとるべく両腕の力のみでアスファルトの道路を匍匐していく。

 しかし、犬の怪物は私の足だけでは満足できなかったようで、続けざまに私の体に噛み付いてきた。

「――ッ!?」

 先ほどとは違い、脳天を貫くような衝撃が走る。

 これが痛みであると感じるまでにそう時間は掛からなかった。その衝撃はやがて熱さへと変化し、遅れて激痛が襲ってきた。

「うぅ……」

 唸ることしかできない。私は地面に顔を擦り付けたまま動けなくなってしまう。

 このまま全身噛まれて殺されてしまうのだろうか……。

 そんな絶望が頭をよぎった瞬間、周囲が赤い光に包まれた。赤い光は付近一帯を明るく照らしていて、私の正面の地面に犬の怪物の影を作っていた。

 そんな明かりに反応し、私は振り向いて犬の怪物の背後を見る。

 すると、先程まで地面に殴りつけられていたコートを着た男が犬の怪物の背後に立っていた。赤い光も彼から放たれており、右腕が大きく振り上げられていた。

「終わりだ。」

 男がそう呟いた次の瞬間、右腕は振り下ろされ、犬の怪物の胴体に命中する。

 胴体に命中した拳はより一層光を増し、犬の怪物の胴体を切り裂いていく……いや、拳を中心にして怪物の体には亀裂が生じていた。

 その亀裂は怪物の全身に行き渡り、やがて裂け目が広がって犬の怪物自体がゆっくりと崩壊していく。その様はまるで、熱源を近づけられた蝋細工が形を崩していくようだった。

 形を失った犬の怪物は周囲の空気に溶けるように消滅していく。そんな光景を眺めていると、怪物を押しのけてコートを着た男が駆け寄ってきた。

 彼は私の体を持ち上げ、抱き上げる。すると、すぐ下方からぼとりという何か大きな物が落ちる音がした。多分私の両足だろう。

 彼はそんな物にも目もくれず、私の頭から足まで全身を観察する。その視線は私の腹部あたりで止まった。

「クソ……出血が……」

 黒いバイザーのせいで表情は把握できないが、彼が深刻な表情を浮かべているのが容易に想像できる。

 そんな彼とは違い、なぜか私の心は穏やかだった。

「怪我、酷いんでしょ? でも平気、全然痛くないから……」

「平気なわけがあるか。」

 彼にはすぐに否定されてしまったが、これは本心だった。もう痛みを感じない。それどころか眠たくなってきた。呼吸も苦しいわけでもないし、まどろみの感覚に似ている。体が死を受け入れているみたいだ。

 コートを着た彼は、私を抱えたまま再び宙に浮かぶ。そして、進路を海に向けた。

「……こうなったのも俺の責任だ。いいか、あと5分持たせろ。研究室に行けば治すあてがある。」

「5分も……?」

 呼吸が浅くなってきた。焦点も定まらなくなってきた。首にも力が入らず、とうとう私は仰け反ってしまう。しかし、すぐさま彼が私の頭を抱え、強引に引き寄せる。

 視線の先にあるのは真っ黒なバイザーだった。

「おい、俺の目を見ろ。」

 その言葉の後、バイザーが上げられ、男性の顔が現れた。目元しか見えなかったが、長い切れ目に赤い瞳はとても印象的だった。

 私は自然とその目を見つめてしまう。

「お前は絶対に助ける。生きるのを諦めるな。いいか? あと4分45秒、根性で生きろ。」

「うん……」

 小さな掠れ声でしか返事ができなかったが、彼は満足したようで、それだけを告げると再びバイザーを下ろして飛行し始めた。

 私は目を閉じてその浮遊感をしばらく感じていた。

 気を失うまでそう時間は掛からなかった。


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