画面の中の恋人 (前半)
吉本乃理子は、真夜中にひとり自室のパソコンに向かう。電源を入れ、画面が立ち上がるのを待つ。照明をオフにしている部屋の中で、そこだけはまぶしすぎるほどの光が明滅する。その光に照らし出される乃理子の顔からは、表情と呼べるものがすべて消えていた。
同じ家の中にいるはずの夫は、もう寝たのか、それともまだ起きているのか。結婚して10年、いつのまにかお互いに対する興味はすっかり薄れ、もともと口下手だった夫との会話は日ごとに減っていった。今では「おはよう」「いってらっしゃい」「おかえりなさい」この三つの言葉を儀礼的に乃理子が口にする程度で、夫はそれに返事すらしなくなった。
20歳のとき、お互いの情熱をありったけ燃やしつくし、「まだ若すぎるんじゃないのか」という周囲の反対を押し切って同い年の明彦と結婚した。明彦は愛する乃理子との生活のために、と早朝から深夜まで仕事に励み、乃理子はそんな夫の背中をひどく寂しい気持ちで見つめ続けた。子供になかなか恵まれない生活の中で、乃理子もフルタイムの仕事を始めた。朝から晩までの仕事は決して楽ではない。乃理子は疲れ、家事は当然のように滞り、明彦との喧嘩が絶えなくなった。
「君は無理に働く必要なんかないって何度言ったらわかるんだ。金儲けより家の中のことをしっかりやってほしいんだよ、僕は!」
「ひとりで1日中ずっと家の中にいろっていうの!? 子供もいなくてひとりぼっちで、気が狂いそうになるのよ……働くことの何が悪いの、わたしはあなたの奴隷じゃないのよ!?」
「奴隷だなんて、そんなこと言ってないだろう……乃理子、おまえ、まさか職場で浮気なんかしてるんじゃないだろうな?」
「浮気!? 馬鹿にしないでよ、どうしてそんな言葉がでてくるの? あなたのほうこそ、残業だ、接待だ、とか言って本当は浮気してるんじゃないの!?」
それが最後の喧嘩だった。それ以来、明彦は乃理子と一切口をきかなくなった。そんな時間の積み重ねはふたりの間に修復できない溝を生み、結婚10年目を迎える今年、もはや何のために一緒にいるのかさえわからなくなっていた。
だからといって、離婚するほどの決定的な理由もない。まだ夫婦仲が良かった頃に、やっとの思いで手に入れた2階建てのマイホームには常に寒々しい空気が漂う。せっかくの家にいる時間も乃理子は1階、明彦は2階の自室にこもっていることがほとんどだった。
画面の明滅が止まる。
乃理子は無表情のまま使い慣れたマウスに細い指をのせ、インターネットのお気に入りページをクリックした。カラフルなキャラクターが散りばめられたトップページが表示される。
『アミューズ』というそのサイトは、可愛らしいキャラクターを使ったミニゲームをメインに、ブログやチャット、簡単なメッセージのやりとりもできる最近流行りのSNSサイトである。乃理子も半年ほど前、職場の友人に紹介されてここを利用するようになった。最初は見ず知らずの相手が画面の向こうにいることに対して途方もない違和感を感じていたが、ミニゲームやチャットを通じて気の合う仲間ができてからは、毎日のようにここで遊ぶようになった。
お互いのブログにコメントし合ったり、時間があるときにチャットで職場や家庭の愚痴をこぼし合ったりするだけで、これまで感じていた寂しさが癒されていくような気がした。ここではリアルの友人に話せないような内容でも平気で会話のネタにすることができる。相手が見ず知らずの他人で、おそらく一生会うこともないと思うと、肩の力を抜いて素直な自分でいられる。『アミューズ』にログインした瞬間、表情の無かった乃理子の顔に微笑みが浮かぶ。
トップページにパスワードを打ち込んで、『マイページ』と呼ばれる自分のページを開く。そこには乃理子が利用するサービスや自分宛てのお知らせが集約されて載っており、広いネットの世界の中における自分の部屋のようなものだった。
今日のお知らせは2件。『メッセージが届いています』『あなたのブログにコメントがありました』という文が赤字で目立つように表示されている。メッセージの受信ボックスをクリックすると、ゲーム仲間のハルカからチャットの誘いが入っていた。
『ミコへ。 今夜0時からみんなでチャットやってるから、ヒマだったらのぞいてください。もちろん話題が尽きるまでエンドレスでやるつもり! 例の彼との話、みんな聞きたがってるよっ☆ ハルカより』
ミコというのが乃理子がこのサイトで使っている名前だ。特に意味はなく、このサイトを使い始めたときに適当に考えた。今ではそれが仲間内で定着している。
時計を見ると、午前1時を少し過ぎたところだった。ハルカに返信を打つ。
『ハルカへ。 メッセありがとう。ごめんね、明日の朝も早いからチャットはまた今度にします。例の彼とはそのまま、特に進展はナシ。週末のチャット会は絶対に参加するから、みんなによろしくね! ミコより』
メッセージが送信されたことを確認し、もうひとつのお知らせにあったブログのコメントを見る。乃理子のブログは何か決まったテーマがあるわけではなく、その時々で思いついたことを日記のような感じで投稿している。仕事の愚痴、ちょっとした悩みごとなんかを文章の形で吐き出してみると、ほんの少しすっきりする。またその吐き出した言葉に対して、見知らぬ誰かさんからコメントがついたとき、特に自分の考えに共感するコメントが入ったときには、心が受け入れられたような気がして嬉しくなる。
今日のコメントは1件。
『ミコさん、こんにちは。その後、職場のほうはどうですか? このように感じられるのはミコさんが優しく繊細な方であるためだと思われます。あまりご自分を責めずに頑張ってくださいね。 名無男』
これは乃理子が職場の上司と後輩の間で板挟みになって悩み、もっと自分が上手に立ち回れたら職場の空気も良くなったかもしれないのに、と吐きだした記事に対してのコメントである。乃理子はふうっと息をついて、頬をゆるめながら返信コメントを書いた。
『名無男さん、いつもありがとうございます。職場は相変わらずですが、後輩の子が徐々に仕事で結果を出すようになり、上司の見る目が変わってきたようには思います。いただいたコメントのとおり、あまり気にせずに頑張ります。 ミコ』
名無男というこのひと(おそらくは男性)は、毎日のように乃理子のブログに優しい励ましのコメントをくれる。ブログの内容が夫の愚痴であっても、どうでもいいようなささいな悩みごとであっても、名無男は乃理子の気持ちを思いやるような言葉をくれた。
『いつも頑張っているのだから、たまにはイライラすることもありますよね。もう少しミコさんの旦那様が理解ある方だといいのに、と思ってしまいます』『今日は大変でしたね。でも毎日ちゃんと仕事や家事を頑張っておられるのだから、ミコさんは自信を持っていいと思いますよ』
ひとつひとつのコメントはたいした内容では無かったが、それは多忙な仕事と冷え切った家庭の中で疲れ切った乃理子の心にしっとりと染み込んでいった。
名無男自身はブログもゲームもしていないようで、プロフィール欄も空白のまま。特に乃理子の個人的なことを突っ込んで聞いてくるようなことは無いので、こちらも相手のこと……職業や年齢など聞きそびれている。
こういったSNSサイトの場合、男女の出会いを目的として近付いてくる輩も少なくない。ゲーム仲間の中にはこのサイトで出会った相手と実際に会ってみたという子や、大人の関係に発展しちゃったなんていう子もいる。それはそれで楽しそうだとは思いながらも、乃理子はあまりそういう面倒なことには関わりたくなかった。だから名無男もきっといつかそういうことを言い出すに違いない、そうしたらもうコメントを断ろう、と思っていたのに、かれこれ半年以上が過ぎても一向にそんな気配はない。最近では乃理子のほうが、名無男との関係をもう一歩すすめたいと思うようになっていた。
名無男はただ乃理子のブログに優しいコメントを残し、乃理子はそれに返信する。たったそれだけの関係だったが、その言葉から溢れる暖かさや、応援してくれている気持ちがものすごく嬉しかった。
ハルカたちゲーム仲間に名無男とのことを相談したことがある。ブログのコメントをやり取りするだけでは物足りなく感じてきた自分の気持ちを、素直に話した。仲間たちの意見は様々で、
「それはミコから誘わせるための作戦じゃない? 騙されちゃダメ!」
なんて警戒心を剥き出しにする子もいれば、
「好きなんだったら、別にもっと仲良くなっちゃえばいいじゃない。たぶん相手もいい大人なんだし、割りきった関係でセフレくらいにはしてあげてもいいんじゃない?」
と極端な意見を出す子もいた。セフレ……セックスフレンドという言葉に、乃理子は顔が真っ赤になった。30にもなって純情を気取るつもりはないが、そんな体だけの関係なんて自分は望んでいない。じゃあ、具体的に名無男とどうなりたいか、と言われるとそれはそれでうまく答えられないのだけれど。
「一度メッセージでも送ってみたら? あなたともっと仲良くなりたいです、とかって。コメントは誰でも見れちゃうけど、メッセの内容は自分たちしかわからないから、相手ももっといろいろ話してくれるかもよ」
ハルカが出したその案が、一番良いような気がした。でも、いざ個人的なメッセージを送るとなると気後れしてしまい、明日にしよう、また明日にしよう、と先延ばしになっていた。
今日、また名無男からのコメントを見て、そのいつもと変わらない優しい文面に「やっぱりもっと仲良くなりたいかも」と思い、乃理子はメッセージの新規作成画面を立ち上げた。
何度も見直して、書いて、消去して、を繰り返し、1時間以上かけてメッセージが完成した。内容は、いつもコメントを入れてくれることに対するお礼と、もう少し個人的に名無男さんのことが知りたい、ということ。そしてもっと仲良くなりたい、ということ。そんなに長い文章でもないのに、おかしくないか何度も読み返してから送信した。
すると5分も経たないうちにピピッ、と電子音がして名無男から返信メッセージが届いた。あまりの早さにびっくりすると同時に、とりあえず返事をもらえたことに安堵のため息を漏らす。
『ミコさんへ。 初めてのメッセージ、とても嬉しく思います。今日はもう遅いので、明日ゆっくりお返事を書かせていただきます。取り急ぎお礼まで。 名無男』
胸の中にふんわりとした照れくささのような感情が広がる。
メッセージ、嬉しかった、だって。明日またお返事くれるんだって。
早くも翌日届く名無男のメッセージを期待しながら、乃理子はその短い返信文を何度も何度も読み返した。
翌日、またいつものように仕事から帰ると、ほぼ同時に夫が帰宅した。「おかえりなさい」と声をかけてもやっぱり無言。2階の部屋へと階段を上がる後ろ姿を見ながら、そのスーツの背中がしわくちゃなのを見ると、ほんの少し悲しくなった。何度スーツをハンガーにかけるように言っても、床にくしゃくしゃにして置いておく癖がなおらなかった。おそらく、いまも2階で彼の洋服は適当に床の上に散らばされたままなのだろう。
気乗りしないまま台所に立ち、二人分の夕食をテーブルに並べ、誰もいないダイニングでテレビを見ながら食べる。乃理子が自分の食器を片付け、浴室に向かったのを見計らって夫が夕食を食べに下りてくる。こういう状態を異常だと感じなくなったのは、いったいいつからだろう。熱いお湯を頭から浴びながら正面に備え付けられた鏡を見ると、そこに映る乃理子の顔にはやはり表情が無かった。
浴室から出て台所へ行くと、夫が使い終わった食器が重ねてある。ざぶざぶと洗って水切りカゴに伏せる。部屋干ししていた洗濯ものを夫のものと分け、夫の分はたたんで階段の1段目に重ねて置いておく。簡単に水回りの掃除を済ませて、1日の家事が終わる。
昨日の夜にあまり眠れていないせいか、頭の芯のほうがどんよりと重く、軽い頭痛がする。自室に戻ってパソコンの電源を入れ、画面の立ち上がりを待つ。
アミューズのトップページ。『メッセージが届いています』の赤文字。乃理子は大慌てで受信ボックスを開き、メッセージを確認した。新しいメッセージは一通。差出人は、名無男。
『ミコさんへ。 こんにちは……こんばんは、かな? 昨日はメッセージありがとうございました。ミコさんのブログは僕のほうこそ読むのを楽しみにさせてもらっています。コメントを入れ続けるのはもしかして迷惑なのかな、と思っていたので、そうではないとわかって安心しました。うまく言えなくて申し訳ないのですが、一生懸命に等身大の自分と向き合おうとする姿が素敵だな、と思って応援していました。
僕のことがもっと知りたい、とのことですが、ご質問いただければ答えられる範囲でなんでもお答えしますよ。ただ、こういった場所ですので、あまり個人的なことは答えられないこともあるかと思いますが、それは許してください。
もっと仲良くなりたいなんて言ってもらえるとは思っていなかったので、とても嬉しいです。これからは、もし良かったらブログへのコメントを入れるだけではなくて、こうしてメッセージのやりとりを続けていけたらいいなと思いますが、御迷惑でしょうか? 名無男より』
乃理子は書かれてある言葉のひとつひとつに、喜びを噛みしめながら読んだ。大急ぎで返信を書く。
『名無男さんへ。 突然のメッセージにも丁寧なお返事をいただき、ありがとうございます。メッセージのやり取りを続けることは、こちらのほうこそお願いしたいくらいです。
質問には何でもお答えいただけるとのことでしたが』
ここまで書いて、乃理子の指は止まった。どうしよう、何を質問したらいいんだろう。漠然と名無男のことがもっと知りたいと思っただけで、具体的な質問は頭に無かった。少し考えて、まずは誰もがプロフィールページに載せているような基本的なことから聞いてみることにした。
『名無男さんはどちらにお住まいですか? わたしは生まれも育ちも関西ですが、夫と結婚したときに関東に来ました。あれから10年たちますが、いまだに慣れないことも多いです。また、お仕事はどういったことをされていますか? わたしのほうはブログにも書いてある通り、小さな会社の事務をやっています。あ、こちらの年齢は30前後ですが、名無男さんはおいくつぐらいでしょうか? それから』
また指を止める。ひと呼吸おいてから、キーボードを叩く。
『ご結婚されていますか?』
本当はこれが一番聞きたかった。乃理子が結婚しているのはブログにも散々夫の愚痴を書いてきたので、むこうはよく知っているはずだった。聞いたからと言ってどうなるものでもないが、どうしても知っておきたかった。
『なんだか本当に質問を並べただけのメッセージになってしまいました。もちろん、内緒にしておきたいことは答えなくて大丈夫です。また、逆にわたしへの質問が何かありましたら、何でも答えます。
それでは、また。 ミコより』
今度は読み返すと送信できなくなりそうだったので、すぐに送信ボタンを押した。メッセージが無事に送信されたことを示す画面を見ながら、どきどきと高鳴る胸にそっと手を当てた。
名無男からの返信は、翌朝の早い時間に届いていた。前日にメッセージが届くと自動で携帯電話に知らせてくれるシステムに登録しておいたので、朝起きた瞬間にメッセージの受信に気がついた。出勤前にどきどきしながら画面を開く。
『ミコさんへ。 おはようございます。昨日は遅くまで家で持ち帰りの仕事をしており、返事が遅くなって申し訳ありません。さて、いただいたご質問の件ですが、僕は生まれてからずっと東京で暮らしています。仕事は普通のサラリーマンですが、不景気なのに従業員不足で悩んでいる不思議な会社で働いています。給料や待遇は可もなく不可もなく、といったところでしょうか。年齢は同じく30代ですが、前半か後半かというところはご想像にお任せします(笑) 結婚はしています』
結婚している、という文字を読んだとき、チクッと胸を鋭い針で刺されたような痛みが走った。馬鹿みたい、わたしだって結婚しているのに……動揺を抑えながら続きを読む。
『僕の方からミコさんへの質問があれば、ということですが、いろいろあるはずなのにあらためてそう言われると何から質問して良いのかわかりません。ブログを拝見して、ミコさんのことはだいたい知ったような気になっているからかもしれません(笑)
以前から少し気になっていたことなのですが、最近のミコさんは少し疲れているように思います。もし良かったら、なにか力になれないかなと思うのですが……と言っても、こうして話を聞くぐらいのことしかできないんですけどね。
変なことを書いてしまって申し訳ない。気に障ったら無視してもらってかまいません。
それでは、今日もお仕事頑張ってください。僕も頑張ります。 名無男』
彼らしい、押しつけがましくない文章。画面を閉じ、大急ぎで会社に向かいながら、乃理子はメッセージの内容を何度も頭の中で思い返していた。
名無男が結婚していたということが、自分でも驚くほどショックだった。そして、同じ東京に住んでいるということが嬉しかった。なんとなく、近くにいてくれるような気がする。そんなわずかな共通点が支えになるほど、乃理子の心は名無男に傾きつつあった。
元気が無いのは自分でもわかっていた。ブログの内容も以前は明るい話題と愚痴が半々くらいだったのに、最近では愚痴ばかりになってしまっている。仕事もたしかに大変だったが、何よりも家庭で満たされないことが大きかった。
嬉しいことがあっても、悲しいことがあっても、それを共有する相手がいないことが狂おしいほどに寂しかった。仲が良かった頃には、乃理子と明彦はお互いに何でも言い合える友達のような夫婦だった。あのまま一生楽しく暮らしていけると思っていたのに、人生というのは本当にどこでどうなるかわからない。
今のような冷え切った関係になってしまったのは、どちらが悪いということでもないのはよくわかっていた。もっとお互いに話し合う機会を持つべきだったし、そうでないのなら、子供もいないのだしさっさと離婚して新しい人生を歩き出せばいいのだ。
どちらの方向へも行動をとらないで、自分をまるで透明人間のように扱う明彦が憎らしかった。また、同じく自分から行動を起こせない自分にも腹が立っていた。愛情があるのかないのか、そんなこともすっかりわからなくなった。不満だらけの日常を抱えて、明るく楽しいブログなんて書けるわけもない。パソコンに向かって吐き出す言葉の端々には、乃理子の「助けて」「ここから救いだして」という無言の願いが溢れだしていた。
その日の夜。誰かにいまの気持ちを聞いてほしくて、仲間同士で使っているチャットルームの画面を開いた。パスワードを入力すると、画面の中で自由に発言し合って会話ができる。
すでに数人が入室して、ゲームの攻略法などについて会話が始まっていた。表示されている名前は、ハルカ、ミナミ、ヨシ、コウ。画面の上部に『ミコさんが入室しました』と赤字が表示されると、みんながミコに挨拶をする。
『ミコー! 久しぶり、待ってたよ^^』
『こんばんは! なかなか来れなかったもんね、元気?』
『こんばんはー。ミコ、例の彼とはどうなったの?』
『やっと来た! 今日こそは彼のこといっぱい聞かせてもらうからね』
表示された発言に乃理子がひとつひとつ返事を打ち込み終わると、みんなの興味は『彼』のことに集中した。『彼』とはもちろん名無男のことである。
乃理子はちょっと照れくさいような気持ちで、名無男とメッセージのやりとりを始めたことを伝えた。そして彼が既婚者であるということがわかり、ものすごくショックだったということも。
『ええ? なんでショックなの? ミコだって旦那さんいるのに』
『わたしはミコの気持ちわかるなあ。だって例え画面の中だけのことでもさ、好きな相手が結婚してるなんて、聞きたくないよ』
好きな相手、と言われて顔が熱くなるのがわかった。ぼんやりとした気持ちはあっても、はっきりと言葉にされるとなんだか重みがある。
『へえ、もっと仲良くなりたいって言えたんだ! 前にも言ったけど、むこうもミコのこと絶対好きだと思うな。さっさと会っちゃえばいいのに』
そう発言したミナミは、このサイトで知り合った男性と熱愛の真っ最中である。お互いの家までは新幹線で1時間ほどの距離らしく、月に1度か2度だけ会う大人の関係を満喫しているらしい。ミナミもお相手の男性も、お互いに既婚者だからこそ問題ないのだという。
『ミナミ、簡単にそんなこと言っちゃダメよ。ミコ、わかってると思うけど、こういう場所って危険なひともいっぱいいるんだから、余程のことが無い限りは会ったりしないほうがいいとわたしは思う。犯罪に巻き込まれる可能性だってあるじゃない』
コウがたしなめるように言う。乃理子自身もどちらかといえば慎重派で、これまではずっと同じように思ってきた。でも、今はその気持ちがぐらついている。
『うーん、実際に会うかどうかは別にして、これからもっと仲良くなれる可能性はあるよね。いっぱいメッセのやり取りしてさ、ミコの気持ちが固まってきたら、それをぶつけてみればいいんじゃない? まだミコのほうも、なんとなく好きかな、くらいなんでしょ?』
それはその通りだった。考えてみれば、まだお互いにものすごく気を張った言葉でのやりとりしかしていない。それをみんなに伝えると『まずは敬語をやめるところから始めてみたらどうか』と、それだけは全員の意見が一致した。
『ねえねえ、それよりミコは名無男さんのどんなところに惹かれたの?』
『あ、それわたしも気になってた。だってさ、あのひとが入れてるコメントって普通のことばっかりじゃない?』
『毎日なにかしらのコメントを入れてくれるってだけでも、半年も続けば嬉しいものじゃないの? それにここまでまったく下心も見えなかったわけだし。ミコもどっちかといえば純情だから、あんまりガツガツ来られなかったのが逆に良かったんじゃない?』
『えーっ、わたしだったらそんなの物足りないな。会いたい、エッチしたい、とか言われるほうが女として認められてる気がするもん』
会いたい、エッチしたい、なんて……もし、名無男からそんなことを言われたら、そのときはどうするだろう。少し前までは迷う余地もなく断っていたはずなのに、考えてしまう自分がいる。ぼんやりしてキーボードを打つ指が止まってしまった乃理子をおいて、ほかのメンバーはお互いの恋愛観について熱い議論を始めてしまった。
そのあと1時間ほどチャットに付き合ってから、いったん画面を閉じた。今朝届いたメッセージにはまだ返信できていない。みんなに言われたように、まずは敬語をやめようって書いてみようか。そんなことを考えながら、乃理子は背伸びをしてキッチンに向かった。
頭の中でメッセージの文章を練りながら、冷蔵庫のミネラルウォーターを出した。2リットルのペットボトルはずっしりと重く、非力な乃理子が片手で持つと妙に不安定になる。重みで右腕を震わせながらコップに水を注いでいると、ふっと腕が軽くなった。
驚いて振り返ると、明彦がばつの悪そうな顔でペットボトルを後ろから支えてくれていた。乃理子は名無男のことでいっぱいになった頭の中をのぞき見られたようで、あせってうまく話せなかった。
「び、びっくりするじゃない……こんな夜中に……」
明彦は相変わらず無言のまま、乃理子がコップに注ぎ終わったのを見て、ペットボトルにそのまま口をつけてごくごくと水を飲み、それを冷蔵庫に戻してまた何事も無かったように2階へと上がっていった。何を考えているのかわからない明彦の行動は乃理子の心をかき乱し、名無男へのメッセージの内容はすっかり頭から飛んでしまった。
自室に戻り、再び画面を立ち上げる。今朝届いたメッセージの画面を見ながら、ゆっくりと返信を打つ。
『名無男さま
こんばんは。お返事に時間がかかってしまって申し訳ありません。いつも優しいお気づかいありがとうございます。
まず、ひとつ提案があります。もしもお嫌でなければ、コメントやメッセージのなかでお互いに敬語を使うのをやめてみるのはどうでしょうか。ちょっとしたことですが、距離が縮まるような気がして……ごめんなさい、うまく説明できないのですが。
それから、最近疲れているようだと言われるのはまさにその通りです。体は特になんともないのですが、以前からブログにも書いているように夫のことでずっと悩み続けています。同じ家の中にいるのに、もう何年も会話がありません。もう、きっとこのまま修復はできないのだと思います。
この半年、名無男さんからのコメントにわたしはずいぶん助けられてきました。こんなことを書くと気持ち悪いと思われるかもしれませんが、わたしは名無男さんをひとりの男性として意識しはじめています。結婚しているとお聞きしたのに、こんなこと書いちゃうなんて最低ですよね……』
そこまで書いて、乃理子の指は止まった。なんてことを書いているんだろう……でも、これが今の自分の本当の気持ち。このまま送ったら、きっと名無男は二度とメッセージを返してくれない。さっきの明彦の行動で混乱した勢いで、こんなことを書いてしまったけど……
いずれにしても、これを伝えずには先に進めない。震える指で送信ボタンをクリックし、そのまま画面を閉じてパソコンの電源を落とした。
(つづく)