運命の番を名乗るなら、脈拍くらい合わせてからにしてください
「わたしこそが、シリウス殿下の《運命の番》です」
王宮の春の夜会。白薔薇の香りに満ちた大温室で、自信に溢れた声が響く。
月光を透かすガラス天井の下、王太子シリウスの隣に立っていた婚約者エレノア・フォン・アシュベリーへ、何百もの視線が一斉に突き刺さる。
名乗り出たのは、神殿勤めの少女リリア・フェルナー。胸元で指を組み、いまにも泣き崩れそうな顔はいかにも可憐で、潤んだ瞳でしっかりと王太子殿下だけを見上げていた。
「王太子妃にふさわしいのは、そちらの氷の令嬢ではなく、《運命の番》であるわたしなんです」
――《運命の番》。
それは女神が結ぶ唯一無二の縁。
契約より重く、王族ですら逆らえない。
出会った二人を引き離せば、衰弱してお互いに死んでしまう……と、されている。
冷徹な公爵令嬢が、可憐な神殿の娘をいじめ、運命に敗れる――なんて受け入れられやすい物語か。
実際、会場の雰囲気はもうすでに、「気の毒なリリア様」と「婚約者の座を奪われるエレノア様」になりつつあった。
それだけ、《運命の番》という結びつきは強力だ。
だが、当のエレノアは、泣きも怒鳴りもせず、ただ静かに扇を閉じた。
一歩、二歩、とリリアへ歩み寄る。
「……失礼」
華奢な手首を取り、彼女の脈を読んで微笑んだ。
「《運命の番》を名乗るなら、脈拍くらい合わせてからにしてください」
「……はい?」
温室の空気が、ざわりと波打った。
「真に番であるなら、相手の近くでは脈が共鳴します。とくに、こうして本人の前でその名を口にするならなおさら。ですが、あなたの脈は殿下に向いていない」
エレノアは手を離し、穏やかに続けた。
「殿下のお名前を呼んだときより、『王太子妃』という言葉が漏れたときのほうが、よほど弾んでおりましたもの」
どこかで、小さく吹き出す声がした。
リリアは真っ赤になる。
「そ、そんな……脈なんて関係ないでしょう。そんな話、聞いたこともないもの!」
「だとしても、ようやく向き合えた《運命の番》の前で恋に弾んでいないのは、おかしな話ではなくて?」
「脈なんて、緊張や走った後とかでも変わるし!」
「ですから、そういうことも含めて診ています」
エレノアは微笑んだ。
――アシュベリー公爵家は代々、王家の医術顧問と魔力診断を担ってきた家系だ。なかでもエレノアの脈診は正確で、王宮医すら一目置くことは、多くの貴族が知っている。
「ちなみに、恋慕の脈と打算の脈は、驚くほど違いますわ」
場がさらにざわつく。
リリアは慌てて、胸元から一枚の証書を取り出した。金糸で縁取られた神殿の書面。封蝋付き。上位神官の署名まである。
「神殿の診断も出ています! わたしと殿下を引き離せば、互いの命が削られていくと……!」
その言葉に、何人かの夫人が眉をひそめ、若い令嬢たちが息を呑んだ。
けれどエレノアはまったく怯まなかった。
「その証明が本物なら、なおのこと真偽を確かめましょう」
「…………っ、神殿を疑うのですか?」
「ええ。女神の御心を語るのですから、その必要もありましょう。しかもそれが、王太子殿下にかかわることなら」
会場の視線は王太子シリウスへ向かった。
銀灰色の瞳を持つ王太子は、証書を受け取り、一瞥する。整った顔立ちはいつも通り静かだ。
――彼ならわかるはずだ、とエレノアは思った。
自分が、こんな稚拙な嘘で取り乱す女ではないことも。目の前の少女の目が、恋ではなく欲に眩んでいることも。
だが、彼はすぐには否定しなかった。
その沈黙に、ほんの一瞬だけ、エレノアの胸の奥が冷えた。
「……そうしよう」
低く、硬く、揺るぎない声に、会場が静まり返る。
「明日、大神殿で正式に確認する。それまでこの件について、誰も軽々しく口外するな」
王太子の命令は絶対だった。
夜会は再び音楽を取り戻したけれど、もう先ほどまでの華やかさではない。誰もが耳をそばだて、視線だけで噂を交わしていた。
リリアはか弱そうな顔を作り直していたが、エレノアにはわかる。
その脈は、少しも恋をしていない。
あれは、賭けに出た人間の脈だ。
◇
夜会のあと、王宮の回廊はひどく静かだった。
月明かりが石床を白く照らし、窓辺の燭台が細長い影を落としている。
「エレノア」
背後から呼ばれて、エレノアは足を止めた。
振り返れば、シリウスが一人で立っている。護衛も侍従も連れていない。
「今夜は、すまなかった」
開口一番、それだった。
「何についての謝罪でしょう。あの場で沈黙なさったこと? それとも、わたくしとの婚約を解消し、あの娘を選ぶこと?」
「前者だ」
きっぱりと言い切る。
「後者については、考えたこともない」
「……ですが、ご自身の命が危ぶまれるかもしれないとなると、少しは心が揺れるのでは?」
「ない」
静かだ。
その声も、彼の脈拍も。
シリウスは数歩エレノアに近づくと、声を落とした。
「……あの証書、前々から追っていた偽造文書と同じ匂いがした」
「偽造?」
「ここ半年、上級貴族の子息に《運命の番》を名乗る者が何人か現れている。どれも神殿の簡易診断書付きだ。婚約解消に至った例も、金銭を引き出された例もある。だが、表沙汰になる前に揉み消された」
エレノアは黙って聞く。
「あの場で私が感情的に否定すれば、相手は泣いて逃げるだけだ。だから、あえて大神殿に持ち込む」
「大神殿で、何をなさるおつもりですの?」
――《運命の番》の認定には正式な手段があることは、王妃教育と家中での話の中でエレノアも知っていた。だが、仔細は王族のみが知るところだ。
「王家にのみ伝わる照合の魔具がある。女神の縁に関わる申告は、最終的にはそれでしか判定できない」
エレノアはわずかに眉を上げた。
「王族でも知る者は少ない。大神官と次代の王、それにごく一部だけだ」
「では、彼女は――」
「知らないだろう。だからこそ、大神殿へ来る」
なるほど。リリアは神殿の診断書ひとつで押し切れると思っている。王家側の切り札を知らないからこそ、堂々と罠に踏み込んでくるだろう。
シリウスは苦く笑う。
「――もしそれで、本物だと認定されればどうなるのですか?」
「その時はその時だろう」
なるほど、彼は王太子らしく冷静で、そして《運命の番》候補を無下にしない。
「――だが」
続けられた言葉に、エレノアは小さく顔を上げる。
「私はどうしても、彼女がそうであるとは思えない」
「何故?」
「お前が言ったんだろう。《運命の番》を前にして、胸が弾まないのはおかしいと」
「――そうでしたわね」
あの時のシリウスの脈は落ち着いていた。とても。
エレノアは、シリウスの脈動をよく知っている。
自分たちの婚約は政略だが、幼い頃から共に学び、共に失敗し、共に王宮の空気を吸ってきた時間があるのだ。
――十歳の春、初めて手を取られたときから。
――十五の冬、舞踏の練習で指先を重ねたときから。
エレノアは知っていた。
自分とシリウスの脈が、昔から不思議なくらい綺麗に合うことを。
そして――《運命の番》の話を聞いた時は、もう疑いようもなかった。
そのことを口にしたことはないけれども。
「――明日は私も参ります。番詐欺を暴くのでしょう?」
「頼りにしている」
「ええ、知っています」
つんと返すと、シリウスの口元がわずかに緩んだ。
そのあと、ふっと真顔になった。
「……信じてくれ。私が隣に立たせたいのは、お前だけだ」
その一言は、深く刺さった。
エレノアは胸の奥からじんわり熱くなるのを感じながら、優雅に一礼する。
「では、その言葉が嘘でないことを、明日見せてくださいませ」
◇
翌朝、大神殿の最奥は朝の光に満ちていた。
案内されたのは、普段は閉ざされ、王族でも立ち入れる者が限られる白い間。高い天井、磨き上げられた大理石、壁一面に刻まれた古い女神語。ひやりと澄んだ空気が、ここがただの礼拝室ではないことを物語っている。
部屋の中央には、古い円形の魔具が置かれていた。
白銀の盤。幾重にも銀紋が刻まれ、見つめているだけで心音まで聞かれそうな、不思議な圧を持つ。
「……《共鳴盤》」
エレノアが小さく呟くと、傍らの大神官が頷いた。
「女神の縁に関わる申告を、最終的に照らすための王家秘儀の魔具です。知る者は多くありません」
その言葉を聞いた瞬間、リリアが明らかに目を見開いた。
「……な、に、それ……」
作った悲鳴ではなかった。喉から勝手にこぼれたような、生の怯え。
エレノアはそこで確信する。
彼女は本当に知らなかったのだ。神殿の証書ひとつで押し切れると思って、ここまで来てしまったのだと。
立ち会うのは大神官、王宮監査官、シリウス、エレノア、リリア。そして証書へ署名した補佐神官ロベル。
リリアの脈は朝から落ち着かない。けれどそこに、恋する者の熱は一滴もない。あるのは焦りと、逃げ道を探す打算だけだ。
「そして、脈と魔力の揺らぎを読む目を持つアシュベリー家のご令嬢にも立ち会っていただきます」
「……は?」
リリアの脈は、今度こそ崩壊した。
「では、始めましょう」
大神官の声が響く。
「リリア・フェルナー。あなたはシリウス殿下の《運命の番》であると申告していますね」
「……はい」
「盤の上へ。殿下の手を取りなさい」
リリアはおそるおそる盤の上に乗り、シリウスの手を取った。
だが、数秒経っても何も起こらない。
盤は沈黙したまま、美しい飾り細工のようにそこにあるだけだった。
大神官が眉をひそめる。
「もう一度。心を澄ませて」
「は、はい……」
リリアは今度は強く握る。けれど《共鳴盤》はぴくりとも動かない。
そのかわり、エレノアには見えていた。
リリアの脈が跳ねたのは、シリウスを見たときではない。監査官の机に積まれた証拠書類へ視線が向いたときだ。
「……失礼」
エレノアは一歩前へ出た。
「大神官様。わたくしからもよろしいでしょうか」
「申してみなさい、エレノア嬢」
エレノアは頷き、まっすぐに顔を上げる。
「彼女の脈は、殿下ではなく状況に反応しています。恋慕でも共鳴でもなく、打算と恐怖の脈です」
「な……!」
「さらに申し上げます。提出された証書の封蝋は神殿本部のものではありません。外縁の花弁模様が一枚足りない贋作です」
ロベル神官の肩が跳ねた。
監査官が即座に視線を向ける。
「補佐神官ロベル。この証書はあなたが発行したものか」
「そ、それは……簡易検査の結果で……」
「簡易検査で《運命の番》認定はできません」
大神官の声が鋭くなる。
「その権限は私にも、神殿長にもない。女神の縁は、最終的にこの盤によってのみ照らされる」
ロベルの額から汗が伝う。
そしてついに、リリアが叫んだ。
「だって、仕方なかったのよ!」
可憐な悲劇の顔で。
「わたしには何もないもの! 神殿で清く正しく働いたって、一生末席のまま! でも王太子妃になれれば……!」
「リリア!」
ロベルが慌てて制したが、遅い。
「あなたが持ちかけたのでしょう! ――運命の番商売は貴族相手に大儲けできる、って!」
白い間の空気が凍った。
監査官が深いため息をつく。
「……全員まとめて、朝から綺麗に自白してくださる」
実に仕事が早くて助かる、という顔だった。
ロベルはその場に崩れ落ち、リリアは泣きながらなおも喚く。
「だって本当に、殿下は優しかったの! わたしに声をかけてくださったし、花も褒めてくださったし……!」
「それは庭の植え替えについての会話だ。お前への恋情ではなく、私の礼儀の話だ」
シリウスが冷たく言った。ばっさりだった。
「――補佐神官ロベル、及びリリア・フェルナーの身柄を預かります」
監査官が部下に命じる。
そのときだった。
取り押さえられそうになったリリアが、最後の悪あがきとばかりに机上のインク壺を掴み、エレノアへ投げつける。
「この、冷徹女――!」
黒い液体が弧を描く。
その瞬間、シリウスがエレノアの腕を引き寄せる。
インクは彼の肩口を汚しただけで済んだが――
ふたりが入った瞬間、沈黙していた《共鳴盤》が、まばゆい銀光を放った。
白い間いっぱいに、鈴を重ねたような澄んだ音が響き渡る。床の紋様が一斉に輝き、ふたりの手のあいだを銀の光が縫うように走った。
誰もが息を止めた。
シリウスの手は、ただエレノアを庇うために引き寄せただけのはずだったのに。
エレノアの鼓動は、もう誤魔化せない。
規則正しく、深く、温かく――そして強く。
そしてその拍と、シリウスの脈がぴたりと重なっている。
「女神の共鳴……」
大神官が静かに頭を垂れた。
「《運命の番》は、こちらでしたか」
エレノアは目を瞬かせた。
知っていた。かなり前から、そうかもしれないと思っていた。けれど、こんな形で王家の秘儀に暴かれるとは想定していなかった。
隣のシリウスもまた、驚いたように自分たちの手を見つめている。
「……エレノア」
「ええ。まあ、そのようですね」
平静を装って返したものの、頬が少し熱かった。
◇
その日の夕刻。
神殿の騒ぎがひとまず片付いたあと、王宮の中庭には静かな風が吹いていた。噴水の水音だけが、やけに澄んで聞こえる。
シリウスは珍しく、言葉を探している顔をしていた。
「……お前は、知っていたのか」
「知っていた、というより、気づいてはおりました」
「いつから」
「十歳の春くらいから」
「もっと早く言ってくれ」
「嫌ですわ」
きっぱり返すと、彼が少し傷ついた顔をする。
「わたくしは、番だから選ばれたかったわけではありません。あなた自身の意志で、わたくしを隣に置いてほしかったのです」
シリウスはしばらく黙っていた。
やがて、ふっと息を吐く。
「……敵わないな」
「いまさらですの?」
「ああ。本当にいまさらだ」
夕暮れの光が銀の髪に落ちる。その顔は、昼間の王太子ではなく、ただ一人の男性のものに見えた。
「だが、これだけはいますぐ言える。私は、お前が番だから手放したくないわけじゃない」
彼は一歩近づく。
「お前でなければ困る。お前でなければ、王座の隣に空いた席がただの椅子になる」
少し不器用で、でも誠実な言葉だった。
それが、ひどく彼らしい。
「昨夜も言いましたでしょう」
エレノアは微笑む。
「嘘でないことを見せてくださいと」
「ああ。だから改めて言う」
シリウスは彼女の前に立ち、ごく自然にその手を取った。あの《共鳴盤》がなくても、脈はもう隠しようがないくらい綺麗に揃っている。
「エレノア・フォン・アシュベリー。政治の都合でも、女神の気まぐれでもなく、私自身の望みとして、私の隣にいてほしい」
王太子の正式な求婚としては、ずいぶん簡素だったが。
余計な飾りが一つもないのも、エレノアには嬉しかった。
エレノアはその手を握り返す。
「ええ、喜んで。ですが一つだけ条件がございます」
「聞こう」
「次から面倒ごとに巻き込むときは、先に説明してくださいませ」
シリウスは一瞬目を丸くし、それから堪えきれずに笑った。
「肝に銘じる」
「よろしい」
ようやく満足して、エレノアも笑う。
王宮ではその後しばらく、
『偽の運命の番を名乗った娘が、王家秘儀の前で綺麗に自爆した話』と、
『王太子殿下が本物の番をずっと婚約者にしていたのに、本人だけ確信していなかった話』
の両方が、大変にぎやかに語られた。
ちなみに後者について、シリウスは非常に不本意だったらしい。
「言ってくれればよかったのにな」
そう呟くシリウスに、エレノアは微笑んだ。
言わなかったのは、政略だから、女神の定めだから、《運命の番》だから、で隣にいるのは嫌だったから。
ちゃんと自分たちの意志で選んで、隣に立ちたかったから。




