第10話「出発」
出発の日は、静かに訪れた。
特別な合図も、儀礼もない。
ただ、決められた時刻に、決められた場所へ向かう。
それだけ。
私はすでに準備を終えていた。
荷物は最小限。
必要なものだけを選び、無駄は削った。
部屋の中は、空に近い。
もともと、私物は多くなかった。
王太子妃候補として与えられたものが大半であり、それらはすでに返却済みだ。
残っているのは、本当に必要なものだけ。
そして。
机の上に、一つだけ置かれた箱。
私はそれを見つめる。
開けることはしない。
中身は分かっている。
婚約の証。
もう意味を持たないもの。
――本当に?
思考が、わずかに揺れる。
だが、すぐに整える。
今は優先順位が低い。
私は箱を手に取り、荷物の中へと収める。
理由は考えない。
必要か不要かではなく。
ただ、“まだ処理していない”ものとして扱う。
それで十分だ。
扉を開ける。
廊下は、変わらない。
だが。
ここを通るのも、これが最後になる。
そう認識する。
感慨は、ない。
ただの事実。
私は歩き出す。
足取りは一定。
迷いはない。
やがて、王宮の正門に到着する。
そこには、簡素な馬車が一台。
護衛は、最小限。
見送りの姿は――ない。
当然だ。
これは栄転ではない。
祝福されるものでもない。
ただの、配置換え。
それだけ。
「リゼル様」
声がした。
振り向く。
そこに立っていたのは、ミレナだった。
息を切らしている。
急いできたのだろう。
「……どうしましたか」
私は問いかける。
ミレナは言葉を探すように口を開き、そして閉じる。
数秒の沈黙。
やがて、彼女は深く頭を下げた。
「どうか……ご無事で」
それだけ。
短い言葉。
だが、その中に込められた感情は、明確だった。
私はそれを認識する。
理解は、しない。
ただ、事実として受け取る。
「ありがとうございます」
それだけ返す。
十分だ。
それ以上の言葉は、必要ない。
ミレナは顔を上げ、何か言いかけて、やめた。
そして、もう一度頭を下げる。
私はそれを見届け、視線を戻す。
馬車へ向かう。
一歩、また一歩。
その途中。
ふと、足が止まる。
理由は、すぐに分かる。
視線の先。
王宮の上階。
バルコニー。
そこに、一人の影があった。
距離がある。
顔までは見えない。
だが。
その立ち姿は、見間違えるはずがない。
――アルヴェルト殿下。
彼は、こちらを見ていた。
動かない。
声もかけない。
ただ、立っているだけ。
その姿を、私は数秒だけ見つめる。
感情は、ない。
分析だけがある。
――なぜ、ここにいる。
見送りではない。
そんな形式は取らないはずだ。
ならば。
確認か。
あるいは。
――ただの偶然。
どちらでもいい。
重要ではない。
私は視線を外す。
それ以上、考えない。
優先順位が低い。
馬車の前に立つ。
扉を開ける。
中に乗り込む。
座席に腰を下ろす。
扉が閉まる。
外の景色が、切り取られる。
御者の合図。
馬車が動き出す。
車輪の音が、ゆっくりと響く。
王宮が、遠ざかっていく。
窓の外に、石壁が流れる。
門を抜ける。
視界が開ける。
王都の街並み。
人々の生活。
これまで、遠くからしか見ていなかった世界。
私はそれを、静かに見つめる。
これが、外。
これが、これから向かう世界の一部。
私は、そこへ行く。
役割を持たないまま。
だが。
完全に無意味ではない。
私は、使われる。
その事実は変わらない。
だが。
それだけではない可能性が、わずかに存在する。
それを、私は否定しない。
馬車は進む。
一定の速度で。
揺れは、規則的。
私はその中で、静かに目を閉じる。
思考を整理する。
目的。
状況。
手段。
すべてを再構築する。
これまでとは違う前提で。
与えられた役割ではなく。
自分で選ぶ余地を、含めて。
――私は、何になるのか。
その問いに。
まだ答えはない。
だが。
それを探すこと自体が。
すでに、これまでとは違っていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
ついに王宮を離れました。
ここからが「再出発」です。
そして少しだけ、元婚約者の“違和感”も残しました。
第11話では、外の世界に出た彼女が
初めて“自分の無力さ”に直面します。
続きが気になる方は、ぜひブックマークして追っていただけると嬉しいです。
ここから物語は一気に広がっていきます。




