名前を持たない王様 ― 選ばない私と、見極める指―
「春チャレンジ2026」参加作品です。
テーマは「仕事」。
命を扱う現場で、“決める”ことの重みを書きました。
最後までお付き合いいただければ幸いです。
最終面接の結果は、メール一通で届いた。
「今回はご期待に添えない結果となりました」
理由は書かれていない。選ばれなかったという事実だけが、簡潔にそこにあった。
第一章 王様
最初に覚えたのは、抱き方ではなく番号だった。
HL-0324-07。ホーランドロップ、オス。入荷日は三月二十四日。
白石紬にとって、ケージの中の命は、その並び替え可能な記号でしかなかった。少なくとも、働き始めて三日目までは。
バックヤードの壁に貼られた個体管理表には、同じような英数字が整然と並んでいる。種類、性別、入荷日、ワクチン接種の有無。空欄を埋めていくことが、紬の最初の仕事だった。
「HL-0324-07、給餌済み。牧草、補充しました」
マニュアルに書かれていた通りの言葉を、声に出して確認する。誰に聞かせるわけでもないが、手順には“声出し”とあった。
手順は、間違えないためにある。
前の職場でもそうだった。フォーマット通りに入力すれば、誰がやっても同じ結果になる。感覚ではなく、規定値で判断する。例外はミスの温床になると、何度も教えられた。
だから、覚えるべきは抱き方ではなく、番号だった。
ケージの中のうさぎは、紬が手を入れた瞬間、後ろ足で床を強く打った。乾いた音がして、次の瞬間には餌皿がひっくり返る。ペレットが、散らばった。
「……ごめん」
思わず謝ってから、紬は口をつぐむ。謝罪は手順に含まれていない。
「あー、“王様”ね」
背後から声がして、紬は振り返った。
「その子、そういうの全部ひっくり返すから気をつけて」
佐伯陽菜は、慣れた手つきでケージの扉を押さえながら言った。
「……王様?」
「店内通称。噛むし、懐かないし、餌の入れ方が気に入らないとすぐ怒るの。孤高の王様って感じでしょ」
カルテを見下ろす。
そこには、HL-0324-07としか書かれていなかった。
名前は、ない。
「噛むから、手袋したほうがいいよ」
言われるままにゴム手袋をはめる。
ぴたりと吸いつくような感触が、指先の温度を奪った。自分の手でありながら、どこか借り物のような距離がある。
けれど、そのほうがいい。
直接触れるより、安全だ。
今度は、マニュアル通りに。真正面から手を入れない。ゆっくり、低い位置から。視線を合わせすぎない。匂いを嗅がせてから触れる。
完璧だったはずなのに。
がち、と鈍い衝撃が走る。
「……っ」
手袋越しでも分かる強さだった。
王様は素早く身を翻し、ケージの奥で背を向ける。白い尻尾が、わずかに震えている。
「ほらね」
陽菜は笑うでもなく言った。
「その子、マニュアル嫌いだから」
嫌い、という言葉に、紬は首をかしげる。
嫌う、という感情があるのだろうか。ただの条件反射ではないのか。
そう思いながらも、散らばったペレットを拾い集める。床に落ちたものは廃棄、と手順書にあった。
番号で管理し、手順で扱う。
それが仕事だと思っていた。
その日の閉店後、紬はバックヤードで在庫表を確認していた。売約済みの札が増えている。減っていく個体番号。HL-0324-07は、まだそこにある。
噛むから売れないのだろうか。
懐かないから。
扱いづらいから。
「考えてる顔してんな」
低い声がして、紬は背筋を伸ばした。
梶原鉄平が、腕を組んで立っている。
「すみません」
反射的に謝る。
「謝るな。仕事中だ」
それだけ言って、梶原は王様のケージの前にしゃがんだ。何もせず、ただ、しばらく見ている。
触れない。
声もかけない。
沈黙が続く。
やがて、王様がゆっくりと向きを変えた。警戒しながらも、鼻先をわずかに動かす。
「……触らないんですか」
思わず紬は聞いた。
「命にマニュアルなんてない。あれは平均だ」
「平均で生きてるやつなんかいねえ」
「触る前に、見ろ」
短い言葉だった。
王様は、まだ奥にいる。
けれど、さっきより足ダンはしていなかった。
「噛むのも理由がある。怒ってるのか、怖いのか、体がしんどいのか。まずは見ろ」
梶原は立ち上がる。
「売るな、見極めろ。それがうちの仕事だ」
その背中を、紬は黙って見送った。
ケージの前に、もう一度しゃがむ。
HL-0324-07。
ホーランドロップ、オス。
噛む。懐かない。皿をひっくり返す。
それだけでは、足りないのかもしれない。
王様は、じっと紬を見ていた。
視線が合う。
今度は、すぐに逸らさなかった。
手袋越しに、自分の指先を見る。
この膜一枚で、何が分かるのだろう。
触らない。
ただ、見る。
耳の角度。呼吸の速さ。牧草の減り具合。水の位置。
マニュアルには書かれていない情報が、そこにあった。
紬は、初めて、番号ではなくケージの中を見ていた。
王様の鼻が、ひくりと動く。
その小さな動きに、なぜか胸がざわついた。
この子は、本当に怒っているだけなのだろうか。
それとも――売れない理由が、別にあるのだろうか。
バックヤードの時計が、閉店時刻を告げる音を鳴らした。
紬は立ち上がる。
まだ、分からない。
でも、明日もう一度、見る。
番号ではなく。
王様を。
うさぎ日記①
手が硬い。膜のにおいがする。だが、今日は触らなかった。
見ているだけの目だった。
逃げなくてもいいかもしれない。変なやつだ。
第二章 観察という仕事
「紬さん、あっちのサークル掃除終わったら、次はブラッシングの補助入って」
陽菜の鋭い声が飛ぶ。
「はい、すぐ行きます」
返事をしながら、紬は使い捨ての不織布でケージのトレイを拭き上げた。
働き始めて二週間。ショップの日常は、想像以上に過酷だった。
可愛いだけの世界ではない。排泄物の処理、毛の舞い散るバックヤード、そして何より、命を「商品」として管理する緊張感。
陽菜の接客は、魔法のようだった。
初めてうさぎを飼うという親子連れに対し、彼女は抱き方のコツだけでなく、その子の性格までを物語のように語る。
「この子は寂しがり屋だから、帰宅したらまず声をかけてあげてくださいね。でも、こっちの子は一人の時間が好き。構いすぎると怒っちゃうかも」
陽菜の手の中で、うさぎたちは驚くほどおとなしく、身を委ねている。
それに比べて、自分はどうだろう。
紬が抱こうとすると、うさぎたちは微かに緊張し、筋肉を硬くする。マニュアル通りの角度、マニュアル通りの力加減。それなのに、決定的な何かが足りない。
(私には、向いていないのかもしれない)
就活で落とされ続けた理由を、ここで突きつけられている気分だった。自分には、正解のない問いに答える力が欠けている。記号化された世界でしか、息ができないのだ。
そんな紬の思考を止めたのは、一番奥のケージ、“王様”の沈黙だった。
いつもなら、紬が近づくだけで「フンッ」と鼻を鳴らし、足ダンで威嚇してくるはずだ。あるいは、給餌の準備を察知して、わざとらしく餌皿をひっくり返して見せる。それが彼なりの、この場所に対する、あるいは紬に対する抗議の形だった。
けれど、今日は静かだった。
王様はケージの隅、牧草入れの影に鼻先を押し付けたまま、石像のように動かない。
「……王様?」
紬はしゃがみ込み、管理表を手に取った。
食欲:朝のペレットは半分ほど残っている。だが、うさぎには食べムラがある。マニュアルによれば「半分以上の食べ残しが二日続く」のが警戒ラインだ。今はまだ、その範囲内。
便の状態:数粒落ちている。形は丸く、極端に小さくはない。異常なし。
呼吸:特に荒くはない。
すべてが、正常。あるいは、許容範囲内。
マニュアルをなぞるだけなら、チェックボックスに「レ」を入れて終わりだ。
けれど、紬の指先が、微かに疼いた。ゴム手袋をはめた指が、ケージの網に触れる。
(何かが、変だ)
なぜそう思うのか、自分でも説明がつかない。
ただ、王様が座っている位置が気になった。いつもはヒーターの真上にいるのに、今はそこから数センチ、中途半端に外れた場所にいる。
さらに、牧草。
右側に盛られた一番刈りのチモシーだけが、手つかずで残っている。左側は少しだけ齧った跡があるのに。
そして、給水ボトル。
飲み口が、いつもよりわずかに左に傾いている。まるで、王様が首を曲げずに水を飲もうとして、無理に押しやったかのように。
「……ねえ、どうしたの?」
紬は、梶原の言葉を思い出した。
『触る前に、見ろ。命は平均で生きてねえ』
見れば見るほど、違和感は膨らんでいく。
それは、数字にも言葉にもならない「音のズレ」のようなものだった。
報告すべきだろうか。
でも、もし「ただの寝不足ですよ」とか「新人さんの気にしすぎ」と笑われたら?
陽菜なら、こんな曖昧なことで騒がないかもしれない。
紬は一度、管理表を閉じかけた。選ばないことで、間違えないことで自分を守ってきたいつもの癖が、背中を押す。
「あんた、さっきからそこばっか見てるわね」
背後から飛んできた陽菜の声に、紬の肩が跳ねた。
「あ、ええと……」
「王様がどうかしたの?」
陽菜が歩み寄り、ケージを覗き込む。彼女の目は鋭い。
「……気づいてたんでしょ? 思ってること、言いなさいよ。ここはあんたの『職場』でしょ」
突き放すような、けれど逃げ道を塞ぐような言葉。
紬は、王様のケージを指差した。
「……牧草の減り方が、右側だけ残っています。水の位置も、いつもと違います。それに、座っている場所が……」
「場所が?」
「ヒーターを避けているみたいに見えます。たぶん、お腹が痛いんじゃなくて、口のあたりが……嫌な感じがしてるんじゃないかって」
言い切ってから、紬は下を向いた。根拠のない、ただの直感だ。
陽菜はしばらく黙っていた。そして、無言でケージを開け、王様の体を保定した。
「店長! ちょっと、これ見てください」
奥から出てきた梶原が、王様の口元を専用のライトで照らす。
「……奥歯だな。右の臼歯が少し伸びて、頬の粘膜を刺激してる」
梶原の声は冷静だった。
「不正咬合の初期だ。これなら処置だけで済む」
胸の奥で、何かが跳ねた。
安堵よりも先に、自分の「違和感」が、確かに何かを示していたという感覚。
「早く気づけて、運がよかったな」
梶原が言う。
「気づいたなら、次は言え。気づいて黙るのが、一番悪い」
処置を終え、少しすっきりした顔で戻ってきた王様を、紬はケージに迎え入れる。
王様は、ひっくり返すための皿には目もくれず、牧草入れの方へゆっくりと歩いた。
けれど、紬が手を入れても、もう足ダンはしなかった。
「マニュアルは80点のための道具だ」
梶原が、隣で腕を組む。
「残りの20点は、現場にいるお前の目にしか映らねえ」
紬は、右手のゴム手袋をゆっくりと脱いだ。
むき出しになった指先は、少し冷えていたけれど、さっきまでの「借り物」のような感覚は消えていた。
そっと、王様の額に触れる。
短い毛の、ベルベットのような質感。その下にある、温かくて速い鼓動。
王様は、逃げなかった。
「……名前は、ないけど」
紬は小さく呟く。
「あなたは、ここに生きているんだね」
「選ばれない私」のままではいられない。
見極めるということは、その命に責任を持つということだ。
その重みが、今は少しだけ、怖かった。
うさぎ日記②
今日は皿が静かだった。
奥のほうが少し熱くて、嫌な感じがしていたのだ。
第三章 託すという決断
店内の空気が、ピンと張り詰めていた。
午後三時。西日が差し込むショップに、一組の親子連れが訪れていた。派手なロゴの入った服を着た小学生の男の子と、スマートフォンを片時も離さない母親。
「ねえ、これ。この子が一番強そうでいいじゃん」
男の子が指差したのは、一番奥のケージ。毛並みを整え、堂々と鎮座する“王様”だった。
紬の心臓が、どくんと跳ねた。
王様への購入希望。それは店員として喜ぶべきことだ。これまで「懐かない」「噛む」と敬遠されてきた彼に、ようやく家族ができるチャンスなのだから。
「すみません、この子を見せてもらえます?」
母親に呼ばれ、紬はケージを開けた。
王様を抱き上げようとした瞬間、彼は微かに身をよじった。
紬の指先に、小さな拒絶が伝わる。
理由は、分からない。
ただ、第二章で感じたあの「音のズレ」と同じものが、今、目の前にあった。
サークルに出された王様に対し、男の子は大きな声を出して追いかけ回した。
「おーい、こっち向けよ! 捕まえた!」
乱暴に背中を掴もうとする小さな手。母親は画面を見たまま「優しくしなさいよー」と形だけの注意を飛ばす。
これまでの紬なら、黙っていた。
お客様の要望は絶対だ。マニュアルには「購入の意思があるお客様には、誠実に対応すること」とある。自分が口を挟んで、もしトラブルになったら? 売上を逃したら?
(選ばないことで、守ってきた)
この子をこのまま渡していいのか、分からない。
幸せになるかもしれない。
ならないかもしれない。
ただ、今この瞬間、
自分は「大丈夫だ」とは言えなかった。
王様は、耳をぴたりと伏せている。
梶原は少し離れた場所で、何も言わずに棚卸しをしていた。陽菜も、こちらを見ている。
決めるのは、担当している自分だ。
「……申し訳ありません」
紬の声は、自分でも驚くほど低く、通っていた。
「今回は、お譲りすることができません」
店内が一瞬、静まり返った。
母親が顔を上げ、不快そうに眉を寄せる。
「は? どういうこと? お金なら払うわよ」
「この子は、とても繊細で、強い力や大きな音が苦手なんです。今のままでは、お互いに幸せになれません。まずは、うさぎとの接し方をもう少し学んでから……」
「なによ、生意気な店員ね! もういいわよ、別の店に行くから!」
吐き捨てるように言って、親子は店を出て行った。
ドアベルが虚しく鳴り響く。
静寂の中で、紬は膝をついた。膝がガクガクと震えている。やってしまった。店に不利益を与えた。マニュアルを破った。
そこへ、ゆっくりとした足音が近づいてきた。
梶原だった。彼は王様を抱き上げると、優しくケージに戻した。
「……店長、すみません。私……」
「謝るなと言ったはずだ」
梶原は紬を見ず、王様の頭を一度だけ撫でた。
「お前が見極めたんだろ。なら、それがうちの正解だ」
一週間後。
一人の女性が店を訪れた。物静かな佇まいで、一時間以上も、ただ王様のケージの前でしゃがんでいた人だ。
彼女が王様を抱きたいと言ったとき、紬は不思議と迷わなかった。
女性の手は、王様の呼吸に合わせて動いていた。
王様もまた、その手のひらの中で、大人しくしている。
「この子にします」
女性は微笑んで言った。
手続きが終わり、キャリーケースに入れられた王様が、店の出口へ向かう。
「名前、どうしようかしら」
女性がふと呟いた。
「今まで、なんて呼ばれてたの?」
紬は一瞬、口を開きかけた。
けれど、その言葉を飲み込んだ。
彼はもう、狭いケージの主ではない。新しい世界へ行くのだ。
「……きっと、これから素敵な名前が見つかりますよ。この子が、自分で教えてくれるはずです」
扉が開く。
新しい匂い、新しい光の中に、彼が消えていく。
紬は深く、お辞儀をした。
扉が閉まった後、背後から陽菜が肩を叩いた。
「お疲れ。……ちょっとは店員らしくなったじゃない」
振り返ると、梶原がカウンター越しにこちらを見ていた。
「やっと、うちの店員になったな、白石」
紬は自分の指先を見た。
もう、ゴム手袋は必要ない。
選ばない自分を捨て、命の行方を決める側に回った。
その指先には、確かな重みと、消えることのない温もりが残っていた。
最終うさぎ日記③
扉が開いた。
匂いが変わる。
あの者は、深く頷いていた。
ならば、行こう。
群れを移るだけだ。
あの者の匂いは、
まだ耳の奥に残っている。
それだけで、十分だ。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
「選ばないこと」は楽だけれど、
「決めること」には責任が生まれる。
この物語が、誰かの小さな決断を後押しできたなら嬉しいです。
春チャレンジ2026、素敵な作品との出会いがありますように。




