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名前を持たない王様 ― 選ばない私と、見極める指―

作者: 月森 いと
掲載日:2026/02/27

「春チャレンジ2026」参加作品です。


テーマは「仕事」。

命を扱う現場で、“決める”ことの重みを書きました。

最後までお付き合いいただければ幸いです。

最終面接の結果は、メール一通で届いた。

「今回はご期待に添えない結果となりました」

理由は書かれていない。選ばれなかったという事実だけが、簡潔にそこにあった。


第一章 王様

 最初に覚えたのは、抱き方ではなく番号だった。

 HL-0324-07。ホーランドロップ、オス。入荷日は三月二十四日。

 白石紬にとって、ケージの中の命は、その並び替え可能な記号でしかなかった。少なくとも、働き始めて三日目までは。

 バックヤードの壁に貼られた個体管理表には、同じような英数字が整然と並んでいる。種類、性別、入荷日、ワクチン接種の有無。空欄を埋めていくことが、紬の最初の仕事だった。

「HL-0324-07、給餌済み。牧草、補充しました」

 マニュアルに書かれていた通りの言葉を、声に出して確認する。誰に聞かせるわけでもないが、手順には“声出し”とあった。

 手順は、間違えないためにある。

 前の職場でもそうだった。フォーマット通りに入力すれば、誰がやっても同じ結果になる。感覚ではなく、規定値で判断する。例外はミスの温床になると、何度も教えられた。

 だから、覚えるべきは抱き方ではなく、番号だった。

 ケージの中のうさぎは、紬が手を入れた瞬間、後ろ足で床を強く打った。乾いた音がして、次の瞬間には餌皿がひっくり返る。ペレットが、散らばった。

「……ごめん」

 思わず謝ってから、紬は口をつぐむ。謝罪は手順に含まれていない。

「あー、“王様”ね」

 背後から声がして、紬は振り返った。

「その子、そういうの全部ひっくり返すから気をつけて」

 佐伯陽菜は、慣れた手つきでケージの扉を押さえながら言った。

「……王様?」

「店内通称。噛むし、懐かないし、餌の入れ方が気に入らないとすぐ怒るの。孤高の王様って感じでしょ」

 カルテを見下ろす。

 そこには、HL-0324-07としか書かれていなかった。

 名前は、ない。


「噛むから、手袋したほうがいいよ」

 言われるままにゴム手袋をはめる。

 ぴたりと吸いつくような感触が、指先の温度を奪った。自分の手でありながら、どこか借り物のような距離がある。

 けれど、そのほうがいい。

 直接触れるより、安全だ。

 今度は、マニュアル通りに。真正面から手を入れない。ゆっくり、低い位置から。視線を合わせすぎない。匂いを嗅がせてから触れる。

 完璧だったはずなのに。

 がち、と鈍い衝撃が走る。

「……っ」

 手袋越しでも分かる強さだった。

 王様は素早く身を翻し、ケージの奥で背を向ける。白い尻尾が、わずかに震えている。

「ほらね」

 陽菜は笑うでもなく言った。

「その子、マニュアル嫌いだから」

 嫌い、という言葉に、紬は首をかしげる。

 嫌う、という感情があるのだろうか。ただの条件反射ではないのか。

 そう思いながらも、散らばったペレットを拾い集める。床に落ちたものは廃棄、と手順書にあった。

 番号で管理し、手順で扱う。

 それが仕事だと思っていた。

 その日の閉店後、紬はバックヤードで在庫表を確認していた。売約済みの札が増えている。減っていく個体番号。HL-0324-07は、まだそこにある。

 噛むから売れないのだろうか。

 懐かないから。

 扱いづらいから。

「考えてる顔してんな」

 低い声がして、紬は背筋を伸ばした。

 梶原鉄平が、腕を組んで立っている。

「すみません」

 反射的に謝る。

「謝るな。仕事中だ」

 それだけ言って、梶原は王様のケージの前にしゃがんだ。何もせず、ただ、しばらく見ている。

 触れない。

 声もかけない。

 沈黙が続く。

 やがて、王様がゆっくりと向きを変えた。警戒しながらも、鼻先をわずかに動かす。

「……触らないんですか」

 思わず紬は聞いた。

「命にマニュアルなんてない。あれは平均だ」

「平均で生きてるやつなんかいねえ」

「触る前に、見ろ」

 短い言葉だった。

 王様は、まだ奥にいる。

 けれど、さっきより足ダンはしていなかった。

「噛むのも理由がある。怒ってるのか、怖いのか、体がしんどいのか。まずは見ろ」

 梶原は立ち上がる。

「売るな、見極めろ。それがうちの仕事だ」

 その背中を、紬は黙って見送った。

 ケージの前に、もう一度しゃがむ。

 HL-0324-07。

 ホーランドロップ、オス。

 噛む。懐かない。皿をひっくり返す。

 それだけでは、足りないのかもしれない。

 王様は、じっと紬を見ていた。

 視線が合う。

 今度は、すぐに逸らさなかった。

 手袋越しに、自分の指先を見る。

 この膜一枚で、何が分かるのだろう。

 触らない。

 ただ、見る。

 耳の角度。呼吸の速さ。牧草の減り具合。水の位置。

 マニュアルには書かれていない情報が、そこにあった。

 紬は、初めて、番号ではなくケージの中を見ていた。

 王様の鼻が、ひくりと動く。

 その小さな動きに、なぜか胸がざわついた。

 この子は、本当に怒っているだけなのだろうか。

 それとも――売れない理由が、別にあるのだろうか。

 バックヤードの時計が、閉店時刻を告げる音を鳴らした。

 紬は立ち上がる。

 まだ、分からない。

 でも、明日もう一度、見る。

 番号ではなく。

 王様を。


うさぎ日記①

手が硬い。膜のにおいがする。だが、今日は触らなかった。

見ているだけの目だった。

逃げなくてもいいかもしれない。変なやつだ。


第二章 観察という仕事

「紬さん、あっちのサークル掃除終わったら、次はブラッシングの補助入って」


 陽菜の鋭い声が飛ぶ。


「はい、すぐ行きます」


 返事をしながら、紬は使い捨ての不織布でケージのトレイを拭き上げた。


 働き始めて二週間。ショップの日常は、想像以上に過酷だった。


 可愛いだけの世界ではない。排泄物の処理、毛の舞い散るバックヤード、そして何より、命を「商品」として管理する緊張感。


 陽菜の接客は、魔法のようだった。


 初めてうさぎを飼うという親子連れに対し、彼女は抱き方のコツだけでなく、その子の性格までを物語のように語る。


「この子は寂しがり屋だから、帰宅したらまず声をかけてあげてくださいね。でも、こっちの子は一人の時間が好き。構いすぎると怒っちゃうかも」


 陽菜の手の中で、うさぎたちは驚くほどおとなしく、身を委ねている。


 それに比べて、自分はどうだろう。


 紬が抱こうとすると、うさぎたちは微かに緊張し、筋肉を硬くする。マニュアル通りの角度、マニュアル通りの力加減。それなのに、決定的な何かが足りない。


(私には、向いていないのかもしれない)


 就活で落とされ続けた理由を、ここで突きつけられている気分だった。自分には、正解のない問いに答える力が欠けている。記号化された世界でしか、息ができないのだ。


 そんな紬の思考を止めたのは、一番奥のケージ、“王様”の沈黙だった。


 いつもなら、紬が近づくだけで「フンッ」と鼻を鳴らし、足ダンで威嚇してくるはずだ。あるいは、給餌の準備を察知して、わざとらしく餌皿をひっくり返して見せる。それが彼なりの、この場所に対する、あるいは紬に対する抗議の形だった。


 けれど、今日は静かだった。


 王様はケージの隅、牧草入れの影に鼻先を押し付けたまま、石像のように動かない。


「……王様?」


 紬はしゃがみ込み、管理表を手に取った。


 食欲:朝のペレットは半分ほど残っている。だが、うさぎには食べムラがある。マニュアルによれば「半分以上の食べ残しが二日続く」のが警戒ラインだ。今はまだ、その範囲内。


 便の状態:数粒落ちている。形は丸く、極端に小さくはない。異常なし。


 呼吸:特に荒くはない。


 すべてが、正常。あるいは、許容範囲内。


 マニュアルをなぞるだけなら、チェックボックスに「レ」を入れて終わりだ。


 けれど、紬の指先が、微かに疼いた。ゴム手袋をはめた指が、ケージの網に触れる。


(何かが、変だ)


 なぜそう思うのか、自分でも説明がつかない。


 ただ、王様が座っている位置が気になった。いつもはヒーターの真上にいるのに、今はそこから数センチ、中途半端に外れた場所にいる。


 さらに、牧草。


 右側に盛られた一番刈りのチモシーだけが、手つかずで残っている。左側は少しだけ齧った跡があるのに。


 そして、給水ボトル。


 飲み口が、いつもよりわずかに左に傾いている。まるで、王様が首を曲げずに水を飲もうとして、無理に押しやったかのように。


「……ねえ、どうしたの?」


 紬は、梶原の言葉を思い出した。


『触る前に、見ろ。命は平均で生きてねえ』


 見れば見るほど、違和感は膨らんでいく。


 それは、数字にも言葉にもならない「音のズレ」のようなものだった。


 報告すべきだろうか。


 でも、もし「ただの寝不足ですよ」とか「新人さんの気にしすぎ」と笑われたら?


 陽菜なら、こんな曖昧なことで騒がないかもしれない。


 紬は一度、管理表を閉じかけた。選ばないことで、間違えないことで自分を守ってきたいつもの癖が、背中を押す。


「あんた、さっきからそこばっか見てるわね」


 背後から飛んできた陽菜の声に、紬の肩が跳ねた。


「あ、ええと……」


「王様がどうかしたの?」


 陽菜が歩み寄り、ケージを覗き込む。彼女の目は鋭い。


「……気づいてたんでしょ? 思ってること、言いなさいよ。ここはあんたの『職場』でしょ」


 突き放すような、けれど逃げ道を塞ぐような言葉。


 紬は、王様のケージを指差した。


「……牧草の減り方が、右側だけ残っています。水の位置も、いつもと違います。それに、座っている場所が……」


「場所が?」


「ヒーターを避けているみたいに見えます。たぶん、お腹が痛いんじゃなくて、口のあたりが……嫌な感じがしてるんじゃないかって」


 言い切ってから、紬は下を向いた。根拠のない、ただの直感だ。


 陽菜はしばらく黙っていた。そして、無言でケージを開け、王様の体を保定した。


「店長! ちょっと、これ見てください」


 奥から出てきた梶原が、王様の口元を専用のライトで照らす。


「……奥歯だな。右の臼歯が少し伸びて、頬の粘膜を刺激してる」


 梶原の声は冷静だった。


「不正咬合の初期だ。これなら処置だけで済む」


 胸の奥で、何かが跳ねた。


 安堵よりも先に、自分の「違和感」が、確かに何かを示していたという感覚。


「早く気づけて、運がよかったな」


 梶原が言う。


「気づいたなら、次は言え。気づいて黙るのが、一番悪い」


 処置を終え、少しすっきりした顔で戻ってきた王様を、紬はケージに迎え入れる。


 王様は、ひっくり返すための皿には目もくれず、牧草入れの方へゆっくりと歩いた。


 けれど、紬が手を入れても、もう足ダンはしなかった。


「マニュアルは80点のための道具だ」


 梶原が、隣で腕を組む。


「残りの20点は、現場にいるお前の目にしか映らねえ」


 紬は、右手のゴム手袋をゆっくりと脱いだ。


 むき出しになった指先は、少し冷えていたけれど、さっきまでの「借り物」のような感覚は消えていた。


 そっと、王様の額に触れる。


 短い毛の、ベルベットのような質感。その下にある、温かくて速い鼓動。


 王様は、逃げなかった。


「……名前は、ないけど」


 紬は小さく呟く。


「あなたは、ここに生きているんだね」


 「選ばれない私」のままではいられない。


 見極めるということは、その命に責任を持つということだ。


 その重みが、今は少しだけ、怖かった。


うさぎ日記②


今日は皿が静かだった。

奥のほうが少し熱くて、嫌な感じがしていたのだ。



第三章 託すという決断

 店内の空気が、ピンと張り詰めていた。


 午後三時。西日が差し込むショップに、一組の親子連れが訪れていた。派手なロゴの入った服を着た小学生の男の子と、スマートフォンを片時も離さない母親。


「ねえ、これ。この子が一番強そうでいいじゃん」


 男の子が指差したのは、一番奥のケージ。毛並みを整え、堂々と鎮座する“王様”だった。


 紬の心臓が、どくんと跳ねた。


 王様への購入希望。それは店員として喜ぶべきことだ。これまで「懐かない」「噛む」と敬遠されてきた彼に、ようやく家族ができるチャンスなのだから。


「すみません、この子を見せてもらえます?」


 母親に呼ばれ、紬はケージを開けた。


 王様を抱き上げようとした瞬間、彼は微かに身をよじった。


 紬の指先に、小さな拒絶が伝わる。


 理由は、分からない。


 ただ、第二章で感じたあの「音のズレ」と同じものが、今、目の前にあった。


 サークルに出された王様に対し、男の子は大きな声を出して追いかけ回した。


「おーい、こっち向けよ! 捕まえた!」


 乱暴に背中を掴もうとする小さな手。母親は画面を見たまま「優しくしなさいよー」と形だけの注意を飛ばす。


 これまでの紬なら、黙っていた。


 お客様の要望は絶対だ。マニュアルには「購入の意思があるお客様には、誠実に対応すること」とある。自分が口を挟んで、もしトラブルになったら? 売上を逃したら?


(選ばないことで、守ってきた)


 この子をこのまま渡していいのか、分からない。


 幸せになるかもしれない。

 ならないかもしれない。


 ただ、今この瞬間、


 自分は「大丈夫だ」とは言えなかった。


 王様は、耳をぴたりと伏せている。


 梶原は少し離れた場所で、何も言わずに棚卸しをしていた。陽菜も、こちらを見ている。


 決めるのは、担当している自分だ。


「……申し訳ありません」


 紬の声は、自分でも驚くほど低く、通っていた。


「今回は、お譲りすることができません」


 店内が一瞬、静まり返った。


 母親が顔を上げ、不快そうに眉を寄せる。


「は? どういうこと? お金なら払うわよ」


「この子は、とても繊細で、強い力や大きな音が苦手なんです。今のままでは、お互いに幸せになれません。まずは、うさぎとの接し方をもう少し学んでから……」


「なによ、生意気な店員ね! もういいわよ、別の店に行くから!」


 吐き捨てるように言って、親子は店を出て行った。


 ドアベルが虚しく鳴り響く。


 静寂の中で、紬は膝をついた。膝がガクガクと震えている。やってしまった。店に不利益を与えた。マニュアルを破った。


 そこへ、ゆっくりとした足音が近づいてきた。


 梶原だった。彼は王様を抱き上げると、優しくケージに戻した。


「……店長、すみません。私……」


「謝るなと言ったはずだ」


 梶原は紬を見ず、王様の頭を一度だけ撫でた。


「お前が見極めたんだろ。なら、それがうちの正解だ」



 一週間後。


 一人の女性が店を訪れた。物静かな佇まいで、一時間以上も、ただ王様のケージの前でしゃがんでいた人だ。


 彼女が王様を抱きたいと言ったとき、紬は不思議と迷わなかった。


 女性の手は、王様の呼吸に合わせて動いていた。


 王様もまた、その手のひらの中で、大人しくしている。


「この子にします」


 女性は微笑んで言った。


 手続きが終わり、キャリーケースに入れられた王様が、店の出口へ向かう。


「名前、どうしようかしら」


 女性がふと呟いた。


「今まで、なんて呼ばれてたの?」


 紬は一瞬、口を開きかけた。


 けれど、その言葉を飲み込んだ。


 彼はもう、狭いケージの主ではない。新しい世界へ行くのだ。


「……きっと、これから素敵な名前が見つかりますよ。この子が、自分で教えてくれるはずです」


 扉が開く。


 新しい匂い、新しい光の中に、彼が消えていく。


 紬は深く、お辞儀をした。


 扉が閉まった後、背後から陽菜が肩を叩いた。


「お疲れ。……ちょっとは店員らしくなったじゃない」


 振り返ると、梶原がカウンター越しにこちらを見ていた。


「やっと、うちの店員になったな、白石」


 紬は自分の指先を見た。


 もう、ゴム手袋は必要ない。


 選ばない自分を捨て、命の行方を決める側に回った。


 その指先には、確かな重みと、消えることのない温もりが残っていた。


最終うさぎ日記③


扉が開いた。

匂いが変わる。


あの者は、深く頷いていた。

ならば、行こう。


群れを移るだけだ。


あの者の匂いは、

まだ耳の奥に残っている。


それだけで、十分だ。


ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


「選ばないこと」は楽だけれど、

「決めること」には責任が生まれる。


この物語が、誰かの小さな決断を後押しできたなら嬉しいです。


春チャレンジ2026、素敵な作品との出会いがありますように。

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