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二部 第4話 だから、謝りたかった

 彼が思い出したことは、分かっていた。


 呼吸が変わったから。

 視線が、私を避けなくなったから。

 そして何より――

 あの匂いが、ほんの少しだけ変わった。


 保存されていた記憶が、

 動き出したときの匂い。


 「……やっぱり、思い出しましたか」


 私は、先に口を開いた。


 彼は、答えなかった。

 でも否定もしなかった。


 それで十分だった。


 「ごめんなさい」


 言葉にすると、

 喉の奥がひりついた。


 何百年生きても、

 この一言だけは、

 慣れることがなかった。


 「私は……

 あのとき、正気じゃありませんでした」


 言い訳に聞こえないように、

 慎重に言葉を選ぶ。


 でも、事実だ。


 「人を殺すのが怖くて、

 血を飲めなくて……

 それでも、生きたくて」


 彼は、黙って聞いている。


 逃げない。

 目を逸らさない。


 それが、

 どれほど残酷なことか、

 彼はまだ知らない。


 「あなたが血を差し出したとき、

 ……正直、

 救われたと思いました」


 最低な言葉だと、分かっている。


 「でも、同時に……

 止まれなくなった」


 あの感覚は、今でも鮮明だ。


 血の味。

 身体が満たされていく感覚。

 理性が、溶けていく音。


 「気づいたときには、

 あなたは死にかけていました」


 私は、深く頭を下げた。


 「それ以来、

 私は“理性を失わない吸血鬼”になることを選びました」


 札幌で、

 上の立場に立った理由も、

 管理を引き受けた理由も、

 全部そこにある。


 「もう二度と、

 同じことをしないために」


 彼が、静かに言った。


 「……でも、

 同じことが起きました」


 責める声じゃない。

 事実を確認する声。


 それが、

 一番きつかった。


 「はい」


 私は、否定しない。


 「だから、

 止めたかったんです」


 「……動物園の彼女を?」


 「はい」


 彼女は、

 札幌では“普通”だ。


 空腹を我慢しない。

 管理に従う。

 食事として人を扱う。


 悪意はない。

 罪の意識も、薄い。


 だからこそ、

 危険だった。


 「あなたが札幌に来たと知ったとき、

 正直、

 胸が潰れるかと思いました」


 匂いで、分かってしまった。


 あの血。

 二度と忘れない。


 「……謝りたかった」


 それだけは、嘘じゃない。


 「あなたが覚えていなくても、

 私は、

 一度も忘れたことがありません」


 母親の能力と違って、

 私の記憶は“能力”じゃない。


 ただの、罪だ。


 「忘れられないから、

 管理する立場に立ちました」


 「……それで、

 俺は管理下ですか」


 彼は、苦笑した。


 「はい」


 答えは、変わらない。


 「あなたは、

 札幌にとって危険です」


 はっきり言う。


 隠しても、意味がない。


 「でもそれは、

 あなたが悪いからじゃない」


 「……同じ選択をするから?」


 その問いに、

 私は少しだけ目を伏せた。


 「優しすぎるから、です」


 その優しさが、

 どれだけ人を殺すか。


 私は、知っている。


 「だから、

 あなたには選択してほしい」


 彼を見て、言う。


 「知らないまま、

 管理されるか」


 「知って、

 それでもここにいるか」


 彼は、何も言わなかった。


 でも、

 頭の奥で、

 何かが“待機している”のを感じる。


 —— speichern


 彼は、まだ発音しない。


 それが、

 彼なりの抵抗だと、

 私は分かっていた。


 「……最後に」


 私は、もう一度、頭を下げた。


 「生きてくれて、

 ありがとう」


 それは、

 吸血鬼としてでも、

 管理者としてでもない。


 一人の存在としての、

 本音だった。

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