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二部 第3話 思い出せなかった過去

 最初に思い出したのは、匂いだった。


 鉄のような。

 でも嫌じゃない、不思議な匂い。


 それから、寒さ。


 夜だった。

 季節は分からないけれど、吐く息が白かった。


 ——ここ、どこだ?


 幼い俺は、狭い路地に立っていた。


 背の高い建物に挟まれて、

 街灯の光が届かない場所。


 泣き声が、聞こえた。


 子どもの声じゃない。

 でも大人でもない。


 ——だれか、いる。


 怖かった。

 でも、放っておけなかった。


 足が勝手に、声のする方へ動いた。


 段ボールの影に、

 誰かがうずくまっていた。


 女の子だった。


 今の俺より、ずっと小さい。

 髪は乱れていて、

 肩を抱くように丸くなっている。


 「……だいじょうぶ?」


 声をかけた瞬間、

 彼女がびくりと震えた。


 顔を上げる。


 その目が、

 赤かった。


 ぞくっとした。


 本能的な恐怖。

 理由は分からないのに、

 体が逃げろと叫んでいる。


 でも。


 彼女の顔は、

 必死だった。


 怯えきっていて、

 何かを我慢していて、

 限界だった。


 「……こないで」


 そう言ったのに、

 声には力がなかった。


 「おなか、すいてるの」


 その言葉の意味を、

 俺は正確には理解していなかった。


 でも、

 放っておいたら死ぬ。


 それだけは、分かった。


 「……ちょっと、まって」


 自分でも、何をするつもりか分からなかった。


 でも、

 近づいて、

 袖をまくっていた。


 「これ、あげるから」


 なにを?

 なんて、考えていなかった。


 彼女は、

 一瞬だけ、目を見開いた。


 「……だめ」


 「いいから」


 今思えば、

 どちらが大人だったのか分からない。


 彼女は、

 ゆっくり近づいてきた。


 触れられた瞬間、

 全身が跳ねた。


 痛みは、なかった。


 最初は。


 吸われている、という感覚だけ。


 「……っ」


 声が出ない。


 力が、抜けていく。


 違う。

 これは——


 「……ごめ、なさい……」


 彼女の声が、震えていた。


 でも、

 止まらない。


 止め方が、分からない。


 「だめ……やめなきゃ……」


 必死に言っているのに、

 動けない。


 怖かった。


 痛かった。


 寒かった。


 ——あ、これ。


 死ぬやつだ。


 幼い俺は、

 そう思った。


 視界が暗くなっていく。


 遠くで、

 誰かが叫んでいる気がした。


 彼女の声だったか、

 俺の声だったか、

 分からない。


 次に気づいたとき、

 天井が見えた。


 知らない部屋。


 体は、重かった。


 腕には、包帯。


 おじいちゃんが、

 ベッドの横に座っていた。


 「……生きてるぞ」


 それだけ言って、

 それ以上は何も聞かなかった。


 俺も、聞かなかった。


 あの夜のことは、

 夢だったことにした。


 怖すぎたから。


 意味が分からなすぎたから。


 そして――

 忘れた。


 いや。


 忘れたと思い込んだ。


 現実に戻る。


 教室の天井が、

 あの夜の暗闇と重なる。


 転校生の、赤い目。


 あのときと、同じだ。


 胸が、苦しい。


 頭の奥で、

 あの単語が、はっきりと形を持つ。


 —— speichern


 保存。


 忘れていたんじゃない。

 保存されていたんだ。


 俺は、

 ゆっくりと息を吸った。


 そして、

 初めて理解する。


 あのとき。


 助けたつもりだった。


 善意だった。


 でもそれは、

 彼女にとっては——


 一生、消えない罪だった。


 だから、

 あの目は。


 謝りたくて、

 逃げ場がなくて、

 それでも近づくしかなかった目だ。


 俺は、

 やっと思い出した。


 そして、

 同時に分かってしまった。


 美術館で倒れたのは、

 事故じゃない。


 俺は――


 同じ選択を、

 もう一度、していた。

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