二部 第2話 転校生が来た日
1話前日談
担任が、教室に入ってきたときから様子が変だった。
いつもなら雑談混じりに出欠を取って、
適当に連絡事項を言って終わる。
そういう人だ。
なのに今日は、
黒板の前で一度息を吸って、
やけに丁寧に口を開いた。
「……みんな、静かに聞いてくれ」
ざわついていた教室が、少しずつ落ち着く。
俺は、嫌な予感を覚えた。
こういう間の取り方をするのは、
たいてい“普通じゃない”知らせのときだ。
「転校生を紹介する」
その瞬間、
教室の空気が一段冷えた。
――札幌。
誰かが、小さく息を呑んだのが分かった。
俺も、喉が固くなる。
担任が視線を扉の方へ向ける。
「……入ってきて」
扉が開いた。
そこに立っていたのは、
制服姿の女子だった。
髪は黒く、整えられている。
顔立ちは綺麗で、どこか人形めいて見える。
けれど目が、違った。
光の反射なのかと思った。
でも違う。
赤い。
はっきりと赤い。
担任が、ぎこちなく言った。
「札幌から……来た。
えっと、自己紹介を」
女子は一歩前へ出て、
きれいに頭を下げた。
「はじめまして」
声が落ち着いている。
驚くほど丁寧で、柔らかい。
「札幌から来ました。
……吸血鬼です」
言った。
本人の口から、
ためらいもなく言った。
教室が凍った。
誰も声を出さない。
椅子の軋む音すらしない。
笑いが起きる余地はない。
冗談にできない。
なぜなら、“札幌”はニュースで知っている。
吸血鬼に占領された街。
人間が「共存している」とされている街。
情報が封鎖されている街。
その札幌から来た吸血鬼が、
いま、ここにいる。
担任が咳払いをした。
「……えー、いろいろ不安もあると思うが……
この件は学校としても、上と話をして……」
説明は、耳に入ってこなかった。
視線が、勝手に彼女に吸い寄せられる。
彼女は教壇の横で、
微動だにせず立っていた。
怖がられているのが分かっているはずなのに、
表情を崩さない。
それが余計に怖かった。
「……席は」
担任が出席簿を見て言う。
「……そこだ。窓側、後ろから二列目」
よりによって、俺の斜め後ろだった。
心臓が嫌な音を立てる。
彼女が歩く。
上履きの音が、やけに大きく聞こえる。
すれ違う瞬間、
彼女の匂いがした。
甘い、とも違う。
香水でもない。
ただ、
“空腹”みたいな匂い。
ぞわっと、背中が粟立った。
彼女は席に着く直前、
俺の方を見た。
ほんの一瞬だけ。
なのに、
胸の奥を掴まれたような感覚がした。
俺は反射的に視線を逸らした。
——知らない。
知らないはずだ。
なのに、
この目を、どこかで見た気がする。
授業は始まったが、
教室はずっと落ち着かなかった。
誰も彼女を見ないふりをする。
でも、見ている。
怖いから。
気になるから。
それは、俺も同じだった。
休み時間になっても、
誰も彼女に話しかけない。
彼女は机の上に手を置いて、
教科書を開くでもなく、
静かに座っていた。
たまに窓の外を眺める。
その横顔だけを見ると、
本当に普通の女子高生だった。
……普通。
昨日、札幌で感じた“普通”が、
ここでもじわりと蘇る。
そのとき、
背後から声がした。
「……ねえ」
低い声じゃない。
むしろ、控えめで丁寧な声。
俺は、動けなかった。
「……あなた」
椅子の背越しに、
彼女の気配が近づく。
近い。
距離感がおかしい。
それなのに、
周囲は誰も気づかないふりをしている。
俺の喉が鳴った。
「……何ですか」
絞り出すように答えると、
彼女は小さく息を吐いた。
「驚かせてしまって、ごめんなさい」
謝ることが、
逆に怖かった。
「私は……ここでは、普通にします」
普通に。
その言葉の重さが、
札幌で見た人々の笑顔と繋がってしまう。
「だから、必要以上に怖がらないでください」
お願いの形をしているのに、
拒否できない圧がある。
俺は、うまく返事ができなかった。
その沈黙に、
彼女は一瞬だけ目を細めた。
そして、
ほとんど聞こえない声で言った。
「……やっぱり」
何が、やっぱりなんだ。
聞き返そうとした瞬間、
チャイムが鳴った。
彼女はすっと引いて、席に戻る。
何事もなかったように。
俺は、息を吐くことすら忘れていた。
頭の奥に、
意味不明な単語が浮かぶ。
—— speichern
朝起きたときから、
何度も現れては消える文字。
今は、いつもより輪郭が濃い。
まるで、
“違和感”に反応しているみたいに。
俺は、まだ知らない。
彼女がなぜ俺に近づいたのか。
なぜ、俺だけを見たのか。
そして、
なぜその目が、
懐かしいと思えてしまったのか。
ただ一つ分かるのは――
今日から、
俺の「普通」は、壊れる。




