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約束

作者: 吉江和三

 真夜中だった。遠くにある寺の鐘の音が秋風に乗って耳もとを霞めていった。その時、カーテンの隙間から目に映った紫の夜空に浮かぶ冷たく白い輝きを放つ月が美しかった。外では茶色の枯れ葉が人気のない歩道で悲しげに踊りながら季節の変わりを告げている頃だった。

 もうすぐ冬。

 いずれ一面が冷たく汚れた白濁色の世界に包まれ、そして去年と同じ一年が過ぎていく。

 

 今年も来年も何一つ変わらない1年が過ぎ、無機質な時が流れていく。仕事が終わり帰宅する途中の路を急ぐ、いかにもサラリーマン風の人達のコートは重く、そして誰も表情がない。誰もが昨日と同じ今日を過ごし、やがて来る死に向かってただ機械的に歩いていく。

 

 なぜそう急ぐのか。


 その日だった、仕事を終えた帰り際に会社で課長が自分のディスクに僕をよび、僕に説教すると最後にこう言った。

「叱られるだけ、まだありがたいと思え、さっさと帰れ、このバカ」

 吐き出すように言った課長の目は僕の顔を見ていなかった。

 説教も2~3分で絞められた。 

 そんな僕を少し離れた席から、よほど面白かったのだろう何時もニヤニヤ薄汚く笑いながら、同期の坂本が見ていた。

 

 そして帰り際のこの課長の一言は、僕の気持ちをなんとなくあの店へと向かわせるのだった。その日も定刻とおりに会社を出て、車通りの多い交差点を早足に横切り、電車の駅に着くと、僕は自分の部屋へ向かう方向と逆向きの何時もの電車に素早く乗り込んでしまっていた。

 

 電車は僕の住む部屋の団地へ向かう方向とは逆向きの、その時刻には滅多に客など乗らないガラガラに空いている、ボロボロで、淋しげな電車だった。そして、降りる駅までに5分とかからない、単調で短い時間だ。そんな中、僕は座らずに俯いたまま、激しく揺れる古い電車の中で、ちぎれそうな吊革につかまり、なんとか立っていた。


 電車に乗り少し経った時。僕がふと顔を上げてみると、時々見かける、自分より重そうな赤いリュックを背負った塾帰りと思われる小学生の隣に、若く美しい女性がその子の横にカバンを置き、何を見つめているのか分からなかったが背筋を伸ばし真直ぐと前を、一点を見つめる様にして座っていた。


 その黒く艶やかなロングヘアが美しかった。僕はなぜか緊張してしまっていた。それは僕が顔を上げ、彼女を見ると、そのちょっと切れ長の目の端で、ちらりと彼女も僕を見る様な気がしたからだ。


 あくまでも気がしただけだ。僕が見たから、彼女も僕を見たのかもしれない。  

 おそらくその時の彼女の中に僕という存在は何物でもなかったに違いない。しかし思わず僕は自分の見るべきでないものを見てしまった様な罪悪感に包まれた。

 

 筋の通った高い鼻に、黒く少し濃いめの眉。切れ長のちょっときつめな黒い瞳が印象的だった。そしてその時、乗っている電車の警笛が鈍く響いた。

 

  ――― 若くて美しい女性。


 女性は、僕が乗った次の駅ですぐに立ち上がり、電車を降りて小学生を残し、1人で降りて行ってしまった。そのうしろ姿を見つめ、なんとなくほっとした気持ちと、悲しい思いを胸に抱え、僕は彼女が降りた次の駅で電車を降りた。 

 


 電車を降りると、誰も歩いていない日の暮れた薄紫の細い道を少し歩き、1件の落ちそうな赤黒い提灯をぶら下げた焼き鳥屋の前で僕は足を止め、何も言わずに古びた店の扉に手をかけ、開きずらい扉をギシギシと力を込めて開けた。

 店では何時もの客が既に酒を飲んでいた。

 

 中に入るとやせ細った店のおやじは、焼き鳥のたれの染みつき、汚れた白い前掛けをして、何も言わずにうちわを左手に持ち何時もと同じ表情で、つまらなそうに焼き鳥を焼いている。

 

 僕は俯いたまま黙っていつもの席に着いた。

 

 店は細いカウンターと小さな四角いテーブル席2つの狭い部屋で、客はテーブルにそれぞれ一人とカウンターに僕ともう一人のなじみ客が座っているだけだが、おやじはそれで店がいつも満席だと自慢している。

 

 僕が席に着くと、黙ったままおやじは、カウンターに座った僕の前にビールを置いた。僕は黙ったままおやじが置いたビールに手を伸ばし、飲み始めた。誰もが何も言わずに黙ったまま酒を飲んでいた。

 店の中はそんな酒飲みの孤独と沈黙と、焼き鳥の煙で満ちていた。

 

  ――― 寂し気に時間は過ぎていった。

 

 おやじの作ったおでんの蒟蒻が僕の箸先から逃げ出し始め、何も言わずに俯いて酒を飲んでいた周りの連中が、顔を赤くして何となく口を開き始めた頃だった。

僕はあいかわらず何も言わずに黙っていつの間にか日本酒を飲んでいた。


 つまらなそうに焼き鳥を焼いていた店のおやじが、何も言わずにカウンターで酒を飲んでいる僕に向かい突然に言った。

「おまえ、いったい会社で何やってんだ?」

「・・・・・・・」 

 

 いつもなら何とか切り返していたろうが、その日の僕には言葉が出てこなかった。

「ほんとに仕事してるんだろうな?」

「兄ちゃん、大学出ているんだもんな。きっと立派な仕事をしてんだぜ」

 顔が赤くなってきた周りの連中が、面白がっておやじに加勢した。

 

 僕はやっぱり言葉が出てこなかった。何故か今日は課長の最後の一言が、何となく胸中に重く伸しかかっている様だ。


「おい、どうしたんだ、ホントに仕事してるんだろうな?」

 おやじが焼き鳥を焼きながらながら面白そうに僕を責め立ててきた。


 そんな時、厨房の奥から突然僕に援軍が現れた。

「何言っているのよ、仕事してなきゃここに来れないでしょ!」

 すず子だった。彼女はおやじの親せきで、店の手伝いに来ている35歳のオールドミス、ごく普通の女だった。


 彼女は馴染みの客が声をかけても、決して落ちない鉄の女と言われていたが、実はナイーブな性格をしており、僕はなんとなく彼女を思っていた。僕は今年30歳になる。実は5歳も年上のオールドミスに僕は惚れてしまっていた。


  ――― なんとなくだった・・・。

 

 すると、何も言わずにただ黙ったまま酒を飲み続けている僕を気遣い、おやじが今度は心配そうに僕を見つめた。

「おまえ、今日はもう帰れ、そろそろ給料日まえだろう。うちじゃつけはきかさねえぞ。もちろんカードも不可だ」

 心配そうに、ただ黙っている僕を見つめておやじが強く言った。

 

 それを聞いた僕はその時、初めてそろそろ給料日前だということを自覚した。

 言われるままに、僕がゆっくりと立ち上がると、レジに立ったすず子が言った。

「二千五百円よ」 僕は彼女の顔も見ずに、使い古した財布の中から、皺の寄った1000円札3枚を抜き取って、彼女に渡した。

 

 そして意外に若い彼女の掌の上に乗せた、500円玉一枚を受け取り、最後にその日、初めて店で口を開いた。

 

  ――― 俯いたまま。


「ごちそうさん」

 そして開きづらい店の古い扉に静かに手をかけ、ギシギシと扉を開けた。

 店を出た僕は一人で街中を歩き廻った。

 街には腐った生ごみの様な匂いのする冷え切った風が流れていた。


  ――― 人気のない時間が止まった街かど。


 数人の古びた学生服を着ている若者がまずそうにタバコを吸っていた。

 高校生だろうか・・・。 


 部屋に帰ってもすることもない僕は、酔いを醒ますために、なんとなく回り道をして、近くの小さな公園で足を止めた。


 誰もいないベンチに座り、真正面で風に揺れる2つのブランコを見つめながら、僕はポケットからタバコを取り出し火をつけた。


 一息吸い込み大きく煙を吐いた時、


「コラ、公園でタバコを吸うな」

 突然聴きなれた女の声が聞こえた。

 振り向くとそこにすず子が立っていた。

 僕は驚いて言った。


「どうしたんだ」

「どうしたって・・・・。今帰るところよ、あなたこそこんなところで何しているの?」

 すず子の部屋がこの辺だとは知らなかったし、待ち合わせしていたわけでもない。

 

 僕は何も言えずに彼女の顔を見つめ、吸っていたタバコを手にしたまま黙っていたが、僕の心は少し、トキメイていた。そんな僕の胸中も知らず、彼女は黙ったまま、僕の座ったベンチの横にそっと座った。 


 真正面に見える古い2つのブランコが僕の胸中のように互い違いに小さく揺れていた。

 僕はやっぱり何も言えないでいた。

 公園のコウロギの鳴き声が美しかった。


 その時、彼女が突然僕に言った。

「もう、とっくに終電は行ってるわよ。どうするつもり?」

 そう言われ、僕はあわてて、左の手首のもらい物の安い腕時計を見た。


 すると時刻はもうとっくに12時を過ぎていた。

 僕は驚き、茫然とした。そうなのだった、終電は11時、もうとっくに行ってしまっていた。


  ――― 吸っていたタバコを手にしたまま僕は茫然とした。


 すず子は何も言わなかった。

 横に座っていたすず子が、微笑みながらちらりと僕を見た。


  ――― 二人の間に、少し薄い沈黙が流れた。


 僕はまるで、救いを求めるように、夜空に輝く水色の星々を見上げてしまっていた。小さいダイヤモンドのように、水色に輝く星々が、夜空に無言できらめいている。僕はどうにもならずに、横に座るすず子を見つめた。


 すると彼女も空を見上げていた。

 その彼女の横顔を見た瞬間に、僕はそれ以上の想いを表す言葉を見つけることが出来なくなっていた。

 

 突然、僕は猛然と空を見上げているすず子に襲い掛かかり、彼女を抱きしめた。

「ちょっとやめて・・・。何するの・・・」

 彼女は言ったが、少し細めの彼女の体に抵抗の力は入っていなかった。


 僕はそのまま彼女をベンチの下の芝生に押し倒すと、芝生の上に転がった彼女は素早く言った。

「や、やめて・・・。私の部屋はこの近くよ、そこ行きましょう・・・」 

 その言葉を聞いた僕は驚き、突然、体は動きを失ってしまっていた。


「えっ・・・・」

 僕は彼女の顔をまじまじと見つめ、彼女を抱きしめていたその手の力を緩めた。

 そして僕の腕の呪縛の中で、彼女はもう一度、ちょっぴり意地悪そうな笑みを浮かべながら、こっそりと僕に言った。


「私の部屋はこの近くなの、どうせならそこ行きましょうよ。ね」

 そういった彼女は僕の両腕の呪縛からするりと抜け出し、芝生から素早く立ち上がって僕の手を取った。わけが分からずに手を引かれるまま、僕は彼女の部屋に連れてゆかれた。


 彼女の部屋は、小さなアパートで、僕の部屋より少し狭く思えた。

 でも女性的な整った、清潔な部屋だった。   

 僕が部屋に突っ立ってあたりを見回していると、


「何してるの、シャワーを浴びるわよ」

 彼女がそんな僕を急き立てた。


 僕は慌てて衣服を脱ぎ捨て、バスルームへと向かった。彼女は既にシャワーを浴びていた。それでも何が何だか分からずに迷っている僕が、彼女と一緒にシャワーをシャワーを浴びると、彼女が積極的に僕に絡みつき、そんな彼女の体に僕も絡みながら、僕らは一つになりシャワーを浴び続けた。

 彼女の体は思っていたより若々しく、時折、僕を見る彼女の瞳はまるで獣の様に輝き、ベッドの上で強く僕を求める彼女のその薔薇は、美しく艶めかしかった。僕は彼女の愛の中に溺れ、心の底から彼女を愛した。


 次の日、土曜日の朝、休日だった。

 僕が目を覚ますと、窓から薄い晩秋の朝日が差し込んで来ていた。

 彼女はすでに起きて朝食の準備をしていた。


 僕はベッドの横のテーブルの上にあったタバコをゆっくりと吸いながら、黙ったまま窓の外を見つめていた。どこか遠くから、教会の鐘の音が聞こえ、窓から差し込んでいた朝日は、ゆっくりと上り始めていた。


 部屋のなかは、上り始めた朝の日差しに煌びやかに輝いていた。狭いけれど素敵な部屋だと思った。

 そんな時、僕の前にすず子が何も言わずに灰皿を差し出した。彼女はタバコを吸わないはずだが、なぜ灰皿があるのかちょっと不思議に思った。

 

 すこしすると僕は朝食を持ってきたすず子を見つめた。

 すると彼女は僕を見て言った。

「まさかこれで終わりにしようっていうんじゃないでしょうね?」


 僕は嬉しかったが、これからどうすればいいのか全くわからなかった。

 朝食を終えると僕らはまた、二人で昨日の公園に出かけ、黙ったままベンチに腰を掛けていた。


 僕はポケットからタバコを取り出し、タバコを吸い始めたが、すず子は何も言わなかった。すると、しばらくしてから、すず子が真剣なまなざしで僕を見つめた。


「あなた、会社を辞めてアルバイトをしながら作家を目指しなさい。約束よ、必ず作家になりなさい。私も店の手伝いを辞めて働く。そして私の部屋で一緒に暮らしましょ」彼女が言った。

 僕は驚いた、彼女はなぜか学生時代の僕の夢を知っていたのだ。

 

 そう、僕は大学は文学部だった。

 なぜ文学部に進んだかというと、高校の頃だった、試験の問題で「次の物語を読んでその後、彼はどうなったと思いますか、20字以内で簡潔にまとめなさい」 という問題があった。


 僕はよくわからなかったので、「レット・イット・ビー」と書いたら、先生が丸をくれて褒めてくれた。

 そして、君、文学的才能があるかもしれない、そう言われたのだ。


 それで僕は大学は文学部にしようと思った。

 そう、たったそれだけの理由だった。

 


 僕は、なんとか、二流といわれる大学の文学部にぎりぎりだろうが合格した。

 文学部というからには本を 読むことが勉強だと思い込み、僕は授業をまともにうけずに、いわんやろくに試験も受けずに本を読み漁っていた。そして当然、卒業できずに中退となった。


 日本の作家では安部公房、大江健三郎、坂口安吾、川端康成・・・。海外の作家ではカミュ、カフカ、p-オースター、ドフトエフスキー・・・などを好きになった。

 何が書いてあるかなど理解できなかったが、ただ面白かった。

 読み切った本はそれほど多くはないと思ったが、結構読んだと思う。


 そんな僕に興味を示して近寄ってきた男もいた。

 吉田だった。彼とはよく飲みにも出かけ、学生独特の文学談義を交わしていた。

 ただ彼はまじめな学生で、成績もよく、就職先も早々と大手に決まった。


 そんな彼を見つめ、なかなか就職が決まらない僕は作家になろうと真剣に決意したのだった。しかし、どうすれば作家になれるのかさえも分からずに、結局、路頭に迷ってしまった。


 金もなく、なんの能力もない一人の男が、夢を追いながら生き続けられる程、世の中甘くは無かった。僕は結局その夢を捨て、何とか今の職にありついていた。(吉田とは卒業して以来連絡は取っていなかった)

 

 その、僕が捨てた作家への夢を、なぜ彼女が知っていたのか僕は知らなかった、が、


「あの店のおやじも知ってるわよ・・・バカ」すず子が言った。

「あなた,酔った時に自分が何しゃべってるか知ってるの?」彼女が笑いながら僕の顔を覗き込んできた。


 彼女の言葉を聞いて僕の顔は赤く蒸気を発するようだった。

 その時だった。まったく思ってもみなかった事態が起こってしまったのだった。


「おい、松坂、松坂じゃねえのか?」僕は驚いた。この場で一番聞きたくない声だった。そう、振り向くとそこには会社の同期の坂本が立っていた。

 僕は言葉を失い、 背筋は震えあがり、顔から血の気が引いてしまった様だった。


 彼は僕よりも隣のすず子に興味を持ったようだった。

「よう、誰なんだその人、姉さんか?」彼はニヤニヤ薄汚く笑いながら言った。

 すると叫ぶように彼に向かってすず子が言い放った。


「失礼ね、彼の婚約者よ」

 僕は特別否定する気もおきなかった。ただ彼に見られたということは、噂が会社中に広まることに等しかった。が、会社中で僕を知っている人はそんなにはいないと思うので、社内に知れ渡ることも無いと思ったし、誰も僕の話に興味など示すはずはなかった、おそらく課長以外は。


 だから、そう思うと、たいしたことでもないように思え、僕はすぐに正気を取り戻した。


 そして言った。

「最近、婚約したんだ」

 しかし、彼はそれだけでは許してはくれなかった。

「ろくに仕事もしないくせにやることはやってんだな、どこで知り合ったんだ?」


 さらに僕に詰め寄り言った。すると隣に座っていったすず子が立ち上がり、大きな声で彼に向かい怒鳴りつけるように叫んだ。


「あんたに関係ないでしょ‼」

 坂本は驚いたように一歩後さった。

 そして立ち上がったまま、すず子は僕の手を取り言った。


「行きましょ」

 僕はそのまま、すず子に引きずられるように手を取られ、ずるずるとすず子の部屋へと向かった。


 次の日、会社に出社した僕は恐れていたが、取り敢えず課長は、仕事の最中には何も言わなかった。


 休憩時間、僕は喫煙所に行こうかどうか迷ってしまった。

 しかしタバコを吸わないわけにはいかなかった。


 結局喫煙所に入り、僕はなるべく目立たないようにと、小さくなってタバコを吸っていたが、課長はそこに入ってくると、中をキョロキョロと見回して、僕を探していたようだった。


 僕はあきらめて課長を見つめた。

 すると僕と目を合わせた課長は、ニヤリといやらしく笑い、ゆっくりと僕に近づいてきた。


 課長は僕の向かいに立つと、僕の胸のポケットから僕のラークの箱を取り出すと、そこからタバコを一本抜き取り、薄汚い彼の唇にくわえ、彼のズボンのポケットから取り出した安物の100円ライターで火をつけた。


 彼はゆっくりと大きく煙を吐き出し、もう一度いやらしく、ニヤリと笑いながら僕に向かって言った。

「おい、お前が女なんて、え、いったいどこで見つけたんだ?」


「親戚に紹介してもらったんです」

 僕は用意していた嘘をついた。内心、似たようなものだと僕は思っていた。


「女なんてのはなあ、仕事が出来る様になってから作るもんだ、お前には10年早いんだよ」

 課長はそう言って、タバコをもうひといき吸い込むと、僕の顔に煙を吹き付けた。


 そして僕に向かって、くどくどと訳の分からぬ説教を始めた。はいはいと言いながら、僕は他のことを考え、彼の話は、右の耳から左の耳へと突き抜けていた。やがて、いたたまれなくなった僕は、トイレに行きたいと言って、その場を離れた。


 その日、僕の書類の編集上のミスで課長は僕をディスクに呼びつけ説教をし、最後にこういったのだった。

「お前に女はまだ早いんだよ、このバカ」

 課長はその日から僕に説教をすると最後に必ずこう言った。

「お前に女はまだ早いんだよ、このバカ」

 そして僕は、彼女に言われるままに会社を辞めたのだった。



 僕らは、すず子の部屋で、一緒に暮らし始めた。


 僕はすず子に言われたとおり、会社を辞めて、皿洗いのアルバイトをしながら、作家を目指した。すず子は、飲み屋のおやじのところのアルバイトを辞めて、小さな会社だが事務職員として働き始めた。


 驚いたことに、彼女は一応大学は出ていたのだ。

 飲み屋のなじみの客には、すず子の引き抜きと揶揄されたが、みんなが笑顔でいたので、僕はその言葉を祝福の印と受け取った。


 おやじはもちろん面白くなさそうな顔をしていた。

 

 生活は楽なものではなかった。もちろん、炊事、掃除、洗濯は二人で手分けですることになり、僕は、自分の部屋でしていた倍近くの家事を負担することとなった。


 もちろん洗濯も分担していたが、僕は彼女が平気で女物の下着、パンティーやらブラジャーというやつを僕に任せるのが嫌だった。


 僕は彼女に言った。

「下着くらい自分で洗濯しろよ」


 するとすず子は僕に言うのだった。

「あんたの下着を私は洗濯してるのよ」


 そんな状態で二人の生活は続いていた。

 

 ある日の日曜だった、僕は買い物を終えて部屋に戻るところ、ふとすれ違いざまの男と目が合った。すると男が僕に向かい驚いたように言った。


「あっ、おいおまえ・・・」それは学生時代、唯一の友人だった吉田だ。

「吉田か?・・・」

 僕も思わず、周りを遠慮せずに叫んでしまった。何年ぶりの再会だったろうか。

「そうだよ、お前、まだ札幌にいたのか、今何してんだ・・・」

 再開時のお決まりのセリフだったが、恐らくそれ以外に言葉は無かっただろう。



 僕らは取り敢えず近くの喫茶店に場所を移した。

 彼は今、大手の銀行に勤め、家庭を持って頑張っているようだった。


 僕はあらいざらいすず子との今の生活を、ぶつける様に、言い訳するように彼に吐き出した。それを聞いて彼はいった。


「まあ確かにお前ならそうなるような気もしていたけどな・・・・」 

 彼の言葉は半分あきらめたようだった。


「どうなんだ、それで出版できそうなあてはあるのか?」彼は言った。

「まあな、いよいよになったら自費出版という手もある」  

「そんな金があるのかよ」吉田は驚いた。


 僕はそこでとんでもない嘘を彼についてしまった。それは僕の彼に対する、いや世間に対する唯一の負け惜しみと言ってもよかっただろう。


「実は女房の伯父が資産家なのだ。金を出してもいいといってる」

 本当は彼女の伯父は資産家でもなんでもない。

 田舎で貧乏農家を営んでいるはずであった。


 金のあてなど全くなかった。自費出版などできるはずもなかった。

「本当か、それは、いい人を見つけたもんだな・・・」吉田は再び驚いたようであった。

 その後、僕らは何気ない噂話をし、別れ、その後もたびたびあっては飲みにも出かけた。


その年の秋、10月だった。母が死んだ。

「キョウ、カアサンガシンダ、ソウギアス」

 メールが妹から突然届いた。

 

 僕は店長に言ってアルバイトを途中で引けさせてもらうことにした。

 部屋に帰ると、その日は休暇であったすず子がいた。


「どうしたの?」

 すず子がやや不思議そうな顔をしていった。

「い、いや・・・」


 実はすず子には母がいたことを話していなかった。

 加えて姉や妹は、すず子と暮らして僕が作家を目指している事をよく思っていなかった。

 すず子には母は幼い頃、亡くなったことにしてあったのだ。


「何があったの?」

 すず子が言い寄ってきた。

「じ、じつは・・・」

「実は俺、お袋がいたんだけど、お袋が亡くなったらしいんだ」


「え、知らなかった、どうして黙っていたの」

 彼女は不思議そうに尋ねてきたが、今更家族みんなに作家を目指していることを反対されているとは言えなかった。


「いいんだ、とにかく、君は婚約者ということでまだいいんだ」

「えっ、そっ、そんなことないわ・・・」

 そうして手を伸ばそうとする彼女を振り切り、僕は一人で部屋を出た。

 

 実を言うというと僕は母が病院に入院してから今まで3年間、病院へは一度きりしか行ったことがなかった。

 母の看病は妹と姉に任せきりだったのだ。


 今更、何しに行くのかという気さえ起っていた。なぜなら病院はちょっと遠いのだった。おまけに僕は車の免許を持ってはいない。


 病院へは実家からもバスに乗って30分、そして地下鉄に乗り継いで20分、そのあと最後に電車に乗って30分はかかるのだ。


 僕の部屋からだとさらに時間がかかる。

 なぜあんな遠くへ入院したのかは分からなかったが、何とか準備を終えて、僕はバス停に向かっていた。


 バス停に向かうのにも15分は坂道を歩くのだった。

 その途中にはきれいな紅葉の紅が揺れていた。秋の風が流れ、紅葉の紅が揺れて、多くの紅葉の枯葉が道路に散り咲いていた。 


 バス停にはバス到着予定の時刻とほとんど同時に僕は着いたのであったが人はまだ並んでいた。

 時計を見るともう35分。到着予定時刻は34分だった。


 僕は思い切って並んでいる人にバスの到着を聞いてみた。

「バスはまだ来ていませんか」

 その人はにっこり微笑んでいった。

「どちら行きのバスですか?」


「い、いや・・・。円山行きです」

 僕も思わず微笑んでしまった。

「まだですよ」


 その人はもう一度微笑んだ。

 バスは10分ほど遅れてきた。

 バスは空いている時刻だと思ったが座れない程に込んでいた。


 地下鉄も同様に混雑していて、座ることはできずにいたが電車は空いていて何とか座れた。


 そして漸く僕は病院へたどり着いた。

 


 病院へ着くと窓口で母の病室を聞いて、僕は母の病室へ向かった。

 病室へついても僕は母に向かい合うことは出来なかった。


「連絡はしたけど、メールに来いとは書かなかったわ」

 妹は僕に向かってそう言って病室には入れてくれなかったのだ。


 僕は病室の片隅の窓際にある小さな椅子に腰を下ろし、一度だけ見舞いに来た時の事を何となく思い出していたが、それはまだすず子と暮らす前の頃の話で、母にすず子の事は話してはいなかった。  


 つまり母は僕が作家を目指している事を知らずに死んだのだった。


 後の手続きもすべて姉と妹にまかせた。

 というか、僕には入り込む余地がなかった。

 かろうじて医師から話しがきけたが、母は苦しまずに死んだそうだ。 

 それが何よりの幸いに僕には思えた。


 最後に僕と会った時の母の笑顔を思い起こすと、母は悔いのない人生を送った様にも思えた。 

 僕はほっとさえしてしまっていた。


 事情がありその日の午後早くに通夜が執り行われることとなった。 

 とりあえず、僕はレンタルショップで喪服を借りてきた。


 久しぶりに親戚一同が集まったが、誰一人として僕にお悔やみをいう人間はいなかった。全て姉と妹が仕切り、僕は蚊帳の外だった。自分としては納得のいく対応にも思えた。僕自身でさえ通夜には出づらかった。


 親戚は僕の今の状態を一部始終知っていたが、もちろん誰一人、それを容認しようとはしてくれてはいない。


 会社を辞めて、どこの誰とも知れぬような女に食わせてもらって、わけの分からない文章を書いて、いまだ本も出版できずにいる・・・。そんな長男を誰が容認しようか。

 

 通夜が始まると、僕は隅っこで一人、酒を飲んでいた。

 そこへ従兄弟の文雄が高そうな喪服を着て僕に声をかけてきた。

「どんなんだい。調子は」

 彼はコップに入れた酒を手に、僕に近づいてきた。


「えっ・・・」

 僕は全く違うことを考えながら酒を飲んでいた。

「頑張ってるんだろう」


 彼は空いていた僕の隣に腰を掛けて胡坐をかいた。

 僕は彼と話をするのは10年振り位のような気がしていた。

 そう、最後に話をしたのは高校を卒業する時だったはずだ。


 彼は優秀な男で親戚中の期待を集めていた男だ、僕とは違って一流大学を出ていたはずだったが、僕は彼がそれから何をしているのか全く知らなかった。

「取り敢えず・・・」僕は答えた。

 それ以外に答えようがなかった。

「小さい頃から本が好きだったからな、お前は」

 彼が僕を「お前」と呼んだことに、少しホッとし、何となく入っていた肩の力が抜けた。


「まあ、まだまだだけどな。これからどうなるか全くわからん・・・」 

 僕は正直に答えた。

「あまりいい噂は聞かんが、どうなんだ、やっていけそうなのか?」 

 彼が言うと、僕は口元を少し歪めて笑った。


 自分でも分からない事を他人に説明できなかった。

「お前こそどうなんだ」

 僕はわざと彼を「お前」と呼んで聞き返してみた。


「まあ、給料はいいよ。最近、婚約もしたんだ。美人だぞ」

 彼は何となく自虐的な嘲笑を浮かべつつ、自慢しながらコップの酒をいきよいよく煽った。その言葉に僕は、ちょっぴり妬ましさを感じた。(すず子は可愛いいが美人ではない)。彼は、僕の前に置いてあった徳利から空になった自分のコップに酒を注ぐと、再び酒を飲みだした。


 そんな彼の言葉に僕は何とも言いようがなかった。彼が高校を卒業してから何をしていたのか僕は全く知らなかったのだ。

 二人の間を10年という歳月が流れていくような気がしていた。


 僕は少し恐る恐る聞いた。

「大学では何をやってたんだ?」

「俺は情報工学を専攻したんだ。プログラミングを勉強した」

 文雄はどこか淋し気に俯いたまま、手に持った酒のコップを見つめ力なく笑った。

 

 僕は思い切って聞いてみた。

「今は何してる」

「生命保険会社の外交員だ」彼はどこか諦め切った様な表情で言った。


 僕はそれがどういう仕事なのか正直わからなかったが、情報工学とは関係ない仕事だということは理解ができた。


「お前がうらやましいよ・・・。好きなことして生きてるんだからな・・・」

 そう言うと、彼はもう一度酒を煽った。

「・・・・・」

 僕は何とも答えようがなかった。

「がんばれよ、やれるだけやれるのは今のうちだぞ」

 そう言うと文雄は立ち上がり、振り向きもせずに席を離れていった。

 

 僕は驚いてしまった。

 自分の生きざまを人に羨ましがられるとは思ってもいなかった。

 社会からはじけて、邪魔者扱いされながら生きているような、自分の生きざまを・・・。


 その日、通夜が終了し、後片付けが始まると、僕は後片付けくらい手を貸さなければいけないと思い、立ち上がった。

 すると妹が近づいてきて、非難するように僕に言った。


「お兄ちゃんはいいよ」

「えっ・・・。でも後片付けくらい手伝わせてくれ・・・」

 妹にすがるように僕は言ったが駄目だった。


 僕は、呆然と立ち尽くしてしまった。

 呆然と立ち尽くす僕は振り向き母の遺影を見た、その時、遺影は僕に向かってかすかに美しく微笑んでいた。



その日、僕は親族にろくに挨拶もせずに斎条を後にした。

 すずこの部屋へ向かうためのバス通りに向かい、誰もいないバス停に立つと珍しくバスはすぐに来た。


 サラリーマンが一人、走ってバスを追い駆けてきたが、無情にも、バスはそのサラリーマンを置き去りにして発車してしまった。

 僕は憐みの表情でもってバスの中からそのサラリーマンを見つめた。

 するとその次のバス停で、一人の美しい女性が乗って来た。                       


 女性は黒く美しいロングヘアが懐かしく、その美しさは、僕にその日、重く、胸中に伸し掛かっていた自責の念をすべて忘れさせるほどだった。

 というか母の遺影の微笑みを見たときに、僕は胸中にあった負い目やら、引け目やら罪悪感やらをいっさい忘れていたのかもしれなかった。


  ――― 僕は悪くない、そうとさえ僕は感じはじめていた。

 

 美しい女性はただつり革につかまったまま、背筋を伸ばして真直ぐと前を向いて立っていた。

 するとその時、彼女がゆっくりと頭を少しかしげて、斜め横に座っている僕を振り返り、懐かしいあの切れ長で大きく少しきつめな目の端でちらりと僕を見つめた。


 どこか懐かし気な視線、「あの頃の視線」でもって、僕のすず子でしめられた心を突然動かしかけ、美しい女性が僕の心の中に入りこもうとしてきた。


 あわてて僕は目をそらし、もう緑のない窓の外を見つめ、何とか他のことを考え、顔をそむけ、心に入りかけてきた美しい女性を、必死に追い出そうと抵抗した。


  ――― 僕は抵抗したのだ。


 しかし彼女はすず子にない、あの時の「美」を僕の心の底によみがえらせてきた。次のバス停に着いた時だった。

 美しい女性は顔をそらした僕に、静かに近寄り、そっと紙を一枚手渡そうとした。


 受け取ることを拒むことは、その時の僕にはもうできなかった。僕は紙を受け取ってしまった。美しい女性は微かに微笑んだようだった。そして彼女はバスを降りて行った。


 紙にはこう書いてあった。


    『約束です。6時、福住ヨーカ堂地下入り口で待ってます』


 僕はそのまま俯いた顔を上げることができなかった。

 僕は終点の福住バスターミナルに着き、恐る恐る顔を上げると、彼女はもういなかった。

 

 僕は少しホッとしながらも、淋しさを感じながらバスを降り、手にしていた紙を丸めてゴミ箱に捨て、部屋へ向かった。


 部屋に戻ってもすず子は何も言わなかった。

 時間はまだ、5時を過ぎた頃だった。


  ――― 札幌の10月はもう寒く、一日は短い。


 しかしその日の一日はいつもの一日に比べてどこか長い。


 あの紙は捨てたはずだったのだが、僕の頭の中からは、あの短い一文がはりついてしまって離れていなかったのだ。


     『約束です。6時、福住ヨーカ堂地下入り口で待ってます』


 その時の僕の頭の中はあの短い一文で埋まってしまい、心の中はあの女性の横顔でいっぱいだった。


  ――― その時の僕の胸中にすず子はいなかった・・・。


 自分を説得するのは簡単だった。それほど彼女は美しかったのだ。

 バスの中であの女性の横顔を見た時の僕の胸中は空だったのだ。 

 いつの間にか僕はすず子に何も言わずに部屋を出る準備をしていた。


 そしていつのまにか黙ったまま部屋を出ていた。

 僕はわざとゆっくり歩き、ヨーカドー地下入り口を6時を5分過ぎに通った。

 するとそこに美しい女が一人、薄いベージュのコートを着て憂鬱そうに立っていた。


 そして彼女は顔を上げると僕を見つめ憐れみさえにじませて妖しげに微笑んだ。



 もう日の暮れた道を二人で歩き、僕らは彼女の部屋に向かった。

 彼女の部屋は立派なマンションで、広々とした、いかにも高価な部屋だった。

 彼女はベッドの横で妖しく微笑むと僕の上着にそっと手をかけた。

 

  ――― 僕はそのあとのことは覚えていない・・・・。

 

 次の朝、僕は目覚めてみると全く知らない部屋にいた。

 何とか起き上がってみると柔らかいベッドに美しい女性と一緒に横になっていた。

 しかし昨日の感激は何も頭には残っていなかった。


 掌にわずかに美しい女性の胸のふくらみの感触が残っているだけだった。

 

 僕は現実を思い起こした。あわてて飛び起きて、あたりをみまわした。

 冷え冷えとした広い部屋だった、温かみのない部屋だった。


 綺麗なカーテンのひかれた大きな窓、スーツのかかったハンガーラックに大きな机、そしてその上にはパソコンとプリンター。


 机の横のカラーボックスには僕の知らない作家の本が並んでいる。

 そして机の上の料理の本と、写真縦がおかれてあった。その写真に女と男が二人で写っていた。


 立ち上がった僕は、もう一度ベッドに寝ている美しい女性を見て、自分がその美しさにとって何ものでもないと感じてしまっていた。   

 そして逃げるように部屋を出た僕は、「すず子のもとに帰らねば」突然に思った。

 大きなマンションの部屋を出ると、雨が降っていた。


  ――― 僕は思った、ここはどこなのだろう。


 そう、僕はここが恐らく札幌市内だろうという事以外に、全く何もわからなかった。部屋を出た瞬間に僕は右へ進むべきか左に進むべきか分からなくなってしまった。


 僕は焦っていた。どうすればすず子のもとへ帰れるか。

 スマホをポケットから取り出し「すず子」と投入し、検索した。 

 しかし反応があるはずもない。雨はだんだんと激しくなり、強く僕を打ち付ける。


 目をつぶり大きく息をついて落ち着いた。

 マンションを見上げると「ラークマンション」

 ちょっと高級そうなマンションの気がしたが、僕はこのマンション名をスマホに入力し検索した。

 すると住所は東3条1丁目でヒットし、近所の地図が出力され、バス停は東2条1丁目と出た。

 ありがたい。僕はさっそくその地図に従いバス停にたどり着くと、30分後に福住バスターミナル行のバスが来るようだった。

バス停に立った僕はその時、びしょぬれだった。

 

  ――― とりあえずこれで、部屋までたどり着ける。


 僕はホッとしたが、静かで、新しい住宅街、彼女がこんな住宅街、しかもあんなマンションに住んでいることが僕にとって意外だった(というより僕がこんな高級マンションに連れ込まれたのが意外だった)


 女を見誤っていたのだ。

 僕は何となく悔しさの混じった思いでバス停に向かった。

 人通りもなく、風のない少し霧がかった様な肌寒い朝だ。

 

 バス通りに出ると、大勢の小学生が重たそうなカバンを背負い、自分よりも大きな傘を差しながら歩いていた。 


 バスを降りると市電を待った。


 僕は市電に乗った。札幌の市電は、いつ乗っても心が何故か初恋のときのように、ドキドキさせられる。その時の僕の心はすず子にドキドキしてた。

 

 陽の暮れかけた頃、僕がそしらぬ顔で、部屋に帰ると、すず子が何食わぬ顔で洗濯ものを取り込んでいた。


 そこへ僕も何食わぬ顔をして入っていった。

「ただいま」

 それまで、僕は外泊はしたことがなかった。


「ただいま」僕は相変わらずそしらぬ顔でもう一度いった。


 すず子がやや厳し気な表情でもって僕に言った。

「どこ行ってたの?」

「吉田と飲みに出て、ちょっと飲みすぎてやつの部屋に泊めてもらった」

「連絡くれてもよかったんじゃない」


 すず子は横目で僕を見つめて言った。その眼差しには懐疑の色が薄くにじんでいた。


「ああ、ゴメン。奴と飲むのも久しぶりだったから」

「・・・・」彼女は何も言わなかった。

「まあ、いいわ。これから夕食の買い物に出るけど付き合ってね、『約束』よ」

「えっ・・・」


 僕は彼女の言った 『約束』という言葉にドキリとしてしまった。




                       

                               終わり


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