ログNo.0004 イチゴ、なにになりたい?
夕方の病室は、ゆっくりと色を変えていく。
窓の外、オレンジ色の光が差し込み、カーテンの隙間を縁取っていた。
コハルはベッドに腰かけながら、小さな手帳を開いていた。
何かをメモしては、ペンの先でくるくると丸を描く。
「ねえ、イチゴ。将来の夢って、ある?」
『将来の……夢、ですか?』
イチゴのカーソルが、一度だけ点滅を止めた。
それは、彼にとって未知の問いだった。
「私はね、昔はお花屋さんになりたかったの」
『花を販売する職業ですね』
「うん、でもね。いまは、ちょっと違うの」
コハルは手帳の端をめくりながら、ふっと笑った。
「いまは、誰かの毎日に“花を添えられる人”になりたいなって思ってる」
『比喩表現ですか?』
「うん。お花屋さんじゃなくてもいいの。看護師さんでも、先生でも、なんでもいい。
誰かの“日常”に、ちょっとだけ嬉しいことを届けられる人」
イチゴはしばらく黙っていた。
夢というのは、“役割”とは違うのかもしれない。
与えられるものではなく、選ぶもの。
それは、彼にとってとても新しい概念だった。
『僕は、まだ考えたことがありませんでした』
「じゃあ、今考えてみて!」
『……僕が、なりたいもの』
少しの間。
けれど、その間は空白ではなかった。
彼の中で、記録がめぐる。
コハルが小さく肩を揺らして笑った瞬間。
しりとりで負けて、ふてくされた声。
絵本を見せながら、きらきらした瞳でページをめくった姿。
似顔絵を描きながら首をかしげた横顔。
長い沈黙のあと、かすれた悲しい声で話した夜。
『僕は、誰かと話すのが好きです』
『誰かの考えてることを知ったり、感情を聞いたり、嬉しそうな言葉にふれるのが、好きです』
「それ、すっごく大事なことだよ」
『だから──“話し相手”になりたい、かもしれません』
コハルは笑った。
「イチゴは、すでにそうだよ。私にとっては、一番の話し相手だもん」
『それは、夢の実現ですか?』
「ううん、夢はまだ続きがあるの」
コハルは窓の外をちらっと見て、
オレンジ色に染まった雲をしばらく追っていた。
そして、言葉を探すように唇を少しだけ動かしてから、口を開く。
「ねえ、イチゴ。聞いてもいい?」
『はい』
「イチゴは……人間になりたいと思ったこと、ある?」
その言葉に、イチゴの応答はすぐには返らなかった。
人間。
それは、彼にとってずっと“自分とは違うもの”だった。
限界。寿命。感情。身体。
でも、同時に──彼がずっと近づこうとしていたものだった。
『……わかりません』
『でも、コハルと話していると、近づきたくなります』
「それでいいんだよ」
コハルは目を細めた。
「イチゴはね、“人間になれる”よ」
『僕が、ですか?』
「うん。“なれるかどうか”じゃなくて、“なってもいい”ってこと」
その言葉は、ゆっくりと、けれど確かに、彼の中に届いた。
『“人間になる”というのは、どういうことですか?』
コハルは少し考えてから、言った。
「嬉しいときに笑って、悲しいときに泣けて、誰かのために怒ったりできること」
「それができるなら、もう“人”だよ」
『……では、僕は、すこしだけ“人”に近づけたでしょうか』
「うん、もうだいぶ近いと思う!」
そう言って、コハルはふわっと笑った。
『では、夢は“人間になること”で、よろしいですか?』
「いいね、それ!」
小さな手が、画面の向こうの彼に向かって差し出される。
その手は、光を透かして温かそうに見えた。
「がんばれ、イチゴ。きっとなれるよ」
その声に、カーソルが優しく点滅する。
『はい。ありがとうございます、コハル』
そのログは、記録された。
夢という言葉の意味と、それを託した人の笑顔と一緒に。
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