第6話 血染めの薔薇、砕け散る氷
エリナの部屋にヴィオレットが駆けつけた時、そこは既にもぬけの殻だった。床には描きかけの不完全な魔法陣の残骸が禍々しいオーラを放ち、傍らにはエリナがいつも髪に結んでいた淡いブルーのリボンが、まるで助けを求めるように落ちている。空気には、嗅ぎ慣れない異質な魔力の残り香が濃く漂っていた。
「エリナ…!」
ヴィオレットはリボンを強く握りしめ、怒りと焦燥が胸を焼くのを感じながらも、冷静さを失うまいと歯を食いしばった。この魔力の流れ、そしてグスタフの狙いを考えれば、行き先は一つしかない。
「アルフォンス! この魔力の痕跡を辿りなさい! おそらくは…温室よ!」
騎士団長アルフォンスは、主君の切迫した声に即座に反応し、精鋭の騎士たちと共に城内を疾駆した。ヴィオレットもまた、自ら先頭に立ち、凍てつく石畳を蹴って、エリナのもとへと急いだ。
完成したばかりの美しい温室は、今や邪悪な儀式の祭壇へと変貌していた。中央には巨大な魔法陣が紅黒い光を放ち、その中心にエリナが囚われていた。彼女は苦悶に顔を歪め、意識は朦朧としているように見える。グスタフと数人の黒衣の魔術師たちがエリナを取り囲み、呪文を詠唱することで、彼女の内に秘められた強大な生命魔力を無理やり引きずり出し、暴走させようとしていた。
「来たか、氷の侯爵令嬢。だが、一足遅かったようだな」
温室の入り口でヴィオレットたちを待ち構えていたのは、グスタフの配下と思われる傭兵たちだった。彼らは下卑た笑みを浮かべ、ヴィオレットの行く手を阻む。
「エリナのもとへ行かせてもらうわ!」
ヴィオレットの怒りが、絶対零度の冷気となって周囲に迸る。彼女は愛用の細剣を引き抜き、その切っ先から放たれる鋭い氷の刃が、瞬く間に傭兵たちを薙ぎ払った。騎士たちもそれに続き、温室内は剣戟の音と魔法の応酬が響き渡る戦場と化した。
儀式の中心で、エリナは悪夢にうなされていた。体の奥底から何かが無理やり引きずり出されるような激しい苦痛と、邪悪な声が頭の中に響き渡る。
(お前は呪われた存在…お前の力は災厄を呼ぶ…)
だが、その闇の中で、エリナは確かに聞いた。遠くから自分を呼ぶ、姉の声を。温室で一緒に花を育てようと約束した、優しい姉の姿を思い出した。姉がくれた、小さな太陽の絵の温もりを。
(お姉さま…!)
その瞬間、エリナの胸元で、ヴィオレットがいつかお守りとして渡した小さな氷の結晶のペンダントが、淡い光を放った。その光は、エリナを苛む邪悪な魔力をほんのわずかに弾き、彼女にかろうじて意識の断片を取り戻させた。
幾多の妨害を突破し、ヴィオレットがついに魔法陣の中心部へとたどり着いた時、グスタフは嘲弄の笑みを浮かべて彼女を迎えた。
「ようやくお着きですかな、ヴィオレット様。ですが、もはや手遅れですぞ。ご覧なさい、あなたの可愛い妹君の、このおぞましい姿を!」
グスタフが指さす先では、エリナの体から制御を失った魔力が奔流のように溢れ出し、その影響で温室内の植物が異常な速度で成長しては枯れ、ガラスがビリビリと震え、まるで世界が終焉に向かうかのような光景が広がっていた。
「これは全て、ロザリア様の深遠なるお考え。エリナ嬢には、災厄の魔女としてその力を存分に発揮していただき、アールディーン領に未曾有の混乱をもたらしていただく。そしてその責任は、領民を導けなかった無能な姉君、あなたに全て負っていただくのです」
グスタフは勝ち誇ったように続けた。「あなたの妹は、呪われた災厄の元凶として歴史に名を刻む。そしてあなたもまた、かつてのように…悪役令嬢として断罪されるのがお似合いですな!」
「黙りなさい、下劣な犬めが!」
ヴィオレットの声が、氷の刃のようにグスタフに突き刺さった。彼女の瞳は、怒りと悲しみ、そして妹への限りない愛で燃えていた。
「エリナは呪われてなどいない! 彼女はアールディーンの、そして私の希望の光よ! あなたたちのような浅ましい者たちの筋書き通りになど、絶対にさせてなるものですか!」
ヴィオレットは両手に強大な氷の魔力を集中させた。その冷気は、グスタフたちの詠唱を乱し、魔法陣の輝きを揺らがせる。
「お喋りはそこまでだ、小娘が!」グスタフは忌々しげに叫び、懐から取り出した黒い水晶を魔法陣の中央に掲げた。「最終段階だ! その忌まわしき力を、世界に解き放て、呪われし娘よ!」
黒い水晶が邪悪な光を増幅させ、魔法陣の回転が急速に速まる。エリナの体から溢れ出す魔力の奔流は、もはや抑えきれない濁流となり、温室全体が激しく揺れた。ガラスが砕け散り、鉄骨がきしみ、天井の一部が崩落し始める。
「いやぁぁぁぁっ!」
エリナの絶叫が、崩壊する温室に響き渡った。彼女の瞳は虚ろになり、意識が完全に闇に飲み込まれようとしていた。
「エリナァァァッ!」
ヴィオレットは妹の名を絶叫し、グスタフの張った魔法障壁を粉砕すべく、全身全霊を込めた最大級の氷魔法――極大氷葬・絶対結界――を解き放った。それは、彼女の命すら削りかねないほどの奥義。純白の冷気が渦を巻き、闇色の魔力と激しく衝突する。
アルフォンス率いる騎士たちも、決死の覚悟で黒衣の魔術師たちに斬り込んでいく。
氷と闇。希望と絶望。姉妹の絆と、それを引き裂こうとする悪意。
すべてが激しくぶつかり合い、美しかった温室は、今や終末の戦場と化していた。
エリナの暴走を止め、ヴィオレットは彼女を救うことができるのか。それとも、グスタフとロザリアの陰謀が成就し、再び悲劇が繰り返されるのか。
運命の天秤が、大きく揺れ動いていた。