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第5話 偽りの友好、最後の罠

 焼け跡に残されたヴァインベルク家の亜流の紋章は、ヴィオレットの胸に氷の刃を突き立てるような衝撃を与えた。だが、彼女は即座に冷静さを取り戻し、騎士団長アルフォンスに厳命を下した。

「この紋章を手掛かりに、領内に潜む不審者を徹底的に洗い出しなさい。温室及び城全体の警備体制を再構築し、特にエリナの周辺は寸分の隙も見せてはなりません。敵は我々の想像以上に近く、そして卑劣です」

 アルフォンスは、主君の瞳に宿る鋼のような意志を読み取り、力強く頷いた。「御意に」という短い返答には、揺るぎない忠誠が込められていた。


 夜中の騒ぎは、エリナの耳にも届いていた。侍女が宥めるように「少し離れた場所での小さな事故ですわ」と説明しても、彼女の心には不安の影が落ちていた。翌朝、ヴィオレットがエリナの部屋の扉を静かにノックした。

「エリナ、昨夜は驚かせてごめんなさい。でも、もう大丈夫よ」

 扉越しにかけられた姉の声は、いつもと変わらず落ち着いていたが、どこか普段以上の力強さが感じられた。

「私が必ずあなたと、私たちの場所を守るわ。だから、何も心配しないで」

 その言葉は、エリナの胸の奥に温かい灯をともした。そして同時に、自分はただ守られているだけでいいのだろうか、という小さな問いが芽生え始めていた。部屋に戻ったエリナは、そっと自分の手のひらを見つめた。そこに何か特別な力があることには気づいていない。だが、姉のために何かできることがあるなら、と願わずにはいられなかった。


 数日後、アールディーン城に、中央からの使者が到着した。伯爵令嬢ロザリア・フォン・ヴァインベルクの名代と称するその男は、グスタフと名乗り、年の頃は五十代半ば、柔和な笑みを浮かべた紳士然とした人物だった。しかし、ヴィオレットはその狐のような細い目の奥に、計算高い冷酷な光が潜んでいることを見抜いていた。

「これはこれは、アールディーン侯爵ヴィオレット様。ロザリア様より、友好の証としてこちらを」

 グスタフは恭しく頭を下げ、高価な宝石や絹織物などの贈答品を差し出した。謁見の間で、彼は辺境の地の統治を労い、ヴィオレットの若き指導力を称賛する言葉を並べ立てた。だが、その会話の端々には、「このような極寒の地での大規模な建造物(温室のことだ)は、さぞや領民の負担になっておりましょうな」といった、棘のある牽制が巧みに織り交ぜられていた。

「ご心配には及びませんわ、グスタフ殿」ヴィオレットは微笑みを崩さず、毅然と応じた。「アールディーンの民は、自らの手で未来を切り拓く気概に満ちております。そして、かの温室は、この地の新たな希望となるでしょう。いずれ、中央の皆様にも、その恩恵の一端をお届けできる日が参りますわ」

 彼女の堂々とした態度は、グスタフの顔から一瞬だけ笑みを消し去った。ヴィオレットは、この男が単なる使者ではなく、何らかの破壊工作、あるいは自分を失脚させるための罠を仕掛けに来たことを確信していた。


 そのような水面下での攻防とは裏腹に、温室の建設は着実に最終段階へと進んでいた。中央からの資材供給が絶たれたにもかかわらず、領内の職人たちはヴィオレットの指導のもと、知恵と技術を結集させた。領内で採掘された特殊な鉱石から精錬されたガラスは、輸入物にも劣らない透明度と強度を誇り、しかも角度によって虹色の光彩を放つという、予期せぬ美しさをもたらした。樹脂パネルも改良が重ねられ、軽さと保温性、そして柔らかな光を透過させる特性を兼ね備えた理想的な素材となっていた。

 日に日にその全貌を現していく温室は、まさに氷の世界に咲いた巨大な水晶の花のようだった。その姿は領民たちの心を捉え、彼らの間でヴィオレットへの信頼と敬愛の念は、もはや揺るぎないものとなりつつあった。


 温室の完成が目前に迫ったある日、ヴィオレットはエリナの部屋を訪ね、優しく語りかけた。

「エリナ、もうすぐ温室が完成するわ。完成したら、あなたが一番に、その中を見てほしいの」

 エリナは、姉の言葉にしばらく黙って俯いていたが、やがて小さな声で「…はい」と頷いた。その小さな肯定は、エリナにとってどれほど大きな勇気を必要としたことか、ヴィオレットには痛いほど伝わってきた。彼女は、エリナのその一歩を心から喜んだ。落成式は、ささやかながらも、領民たちと共にこの喜びを分かち合う祝祭にしようと、ヴィオレットは計画を進めた。


 そして、運命の落成式の前夜。

 完成した温室は、内部に灯された無数のランプの光を受けて、夜空の下で幻想的な輝きを放っていた。まるで闇夜に浮かぶ巨大な宝石箱のようで、その美しさは城下の領民たちをも魅了し、祝祭への期待感を高めていた。

 ヴィオレットもまた、執務室の窓からその光景を眺め、感慨に浸っていた。長い戦いだった。だが、ついにここまで来たのだ、と。


 その時だった。執務室の扉が慌ただしくノックされ、血相を変えた騎士団長アルフォンスが飛び込んできた。

「ヴィオレット様、緊急事態です! エリナ様のお部屋の周辺に、複数の不審な魔力の揺らぎを探知いたしました! そして…グスタフが、今宵供の者数名と共に城から姿を消しております!」

 ヴィオレットの背筋を、冷たいものが走り抜けた。原作の悪夢――エリナが「呪われた魔女」として断罪される、あの光景が脳裏をよぎる。グスタフの目的は、エリナの封印された魔力を暴走させ、彼女を怪物に仕立て上げることか。あるいは、ヴィオレット自身に、その濡れ衣を着せることか。


「アルフォンス、直ちにエリナの部屋へ! 全騎士団員に通達、グスタフとその一味を捕縛なさい! いかなる手段を用いても!」

 叫ぶような指示を出しながら、ヴィオレットは自らも執務室を飛び出した。胸には、エリナがくれたあの小さな太陽の絵の温もりがまだ残っている。


(今度こそ、絶対に…エリナを、この手で守り抜いてみせる!)


 氷の侯爵令嬢の瞳に、決死の覚悟を宿した炎が燃え盛った。最後の戦いが、今まさに始まろうとしていた。

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