第4話 芽生える信頼、迫る悪意
中央からの圧力は、ヴィオレットの予想以上に執拗だった。温室建設に不可欠な特殊ガラスや良質な鉄骨の供給は完全に途絶え、アールディーン領はあたかも経済的な孤島のように取り残されようとしていた。執務室の暖炉の火がパチパチと音を立てる中、ヴィオレットは広げられた領内地図と鉱物資源のリストを睨みつけていた。
(外部からの供給が絶たれたのなら、内部で生み出すしかない…)
彼女の脳裏には、「禁書庫の異世界文献」に記されていた数々の技術が浮かび上がっては消えていく。その中の一つ、火山性鉱石から高純度のケイ素を抽出し、透明で強靭な素材を作り出す記述に、彼女の目が留まった。アールディーン領の北端には、古くから噴煙を上げる休火山がある。あるいは、領内で産出する特殊な樹液を硬化させ、ガラスの代用とする方法も…。
「侍従長、領内の地質に詳しい者、そして腕の良い鍛冶師と錬金術の心得がある者を至急集めてちょうだい。それから、北の休火山地帯の再調査を命じます」
ヴィオレットの指示は迅速かつ的確だった。侍従長は、主君の揺るぎない声に、もはや驚きよりも一種の信頼感を覚え始めていた。この若き侯爵令嬢は、常人には思いもよらない方法で道を切り拓く力を持っているのかもしれない、と。
その間にも、ヴィオレットとエリナの間には、ささやかながら確かな変化が訪れていた。ヴィオレットがエリナの部屋の前に、温室の簡易な設計図と共に「どんな花が好き?」と記した紙を置いて数日後、その紙の隅に、震えるような小さな文字で「しろい…ちいさな花」と書かれているのを見つけた。インクの染みは、きっと何度も書き直そうとしたためらいの跡だろう。ヴィオレットは、その拙い文字を愛おしそうに指でなぞり、胸の奥が温かくなるのを感じた。
エリナが日中、自室の窓からではなく、城の長い廊下の突き当たりの窓――そこからは温室の建設現場がより詳細に見渡せる――から、短時間だけ外を眺める姿を、侍女が報告してきた。ヴィオレットはそれを聞いても、直接声をかけることはしなかった。焦りは禁物だ。エリナ自身のペースで、少しずつ世界との繋がりを取り戻していけばいい。
温室の骨組みが雪原にその美しいシルエットを現すと、領民たちの間にも変化が訪れた。最初は「侯爵様の道楽」「あんなものが何の役に立つのか」と冷ややかだった視線が、次第に好奇心と、そして微かな期待の色を帯び始めたのだ。特に、ヴィオレットが領内の資源で資材を賄おうとしていること、そしてそのために新たな技術の開発を試みていることが伝わると、領内の腕の良いガラス職人や木工職人たちが、「自分たちの技術が侯爵様のお役に立てるのならば」と、次々に協力を申し出てきた。
「皆の力を貸してくれるというのなら、これほど心強いことはないわ」
ヴィオレットは彼らを温かく迎え入れ、それぞれの専門知識を活かせるよう、計画に組み込んでいった。それは、単なる主従関係を超えた、共通の目標に向かう仲間としての絆が芽生え始めた瞬間だった。
しかし、光が強まれば、影もまた濃くなる。ヴィオレットの代替資材開発が予想以上の速さで進み、領内で試作された透明樹脂パネルや強化鉱石ガラスの品質が向上し始めた矢先、建設現場で不審な出来事が頻発するようになった。夜間に工具が数点紛失したり、積み上げられた資材の一部が僅かに破損していたり。最初は作業員たちの不注意かと思われたが、その頻度と巧妙さから、次第に意図的な妨害工作の疑いが濃厚になっていった。
「ヴィオレット様、城下に見慣れぬ者たちが出入りしているとの報告が。一部では、中央の有力貴族、伯爵令嬢ロザリア様の名代と称しているとか…」
侍従長の報告は、ヴィオレットの予測を裏付けるものだった。ロザリア・フォン・ヴァインベルク。原作において、ヴィオレットを「悪役」として断罪し、エリナの魔力を利用しようとした張本人。その名を聞いた瞬間、ヴィオレットの瞳に鋭い光が宿った。
(やはり来たわね…)
ヴィオレットは、温室建設と並行して、エリナの魔力封印の真相究明も進めていた。アールディーン家に古くから仕える老医師や、エリナが幼い頃に世話をしていた元侍女たちに丹念に話を聞き、当時の状況を洗い直す。そして、禁書庫の古文書を渉猟する中で、ついに「生命力を段階的に封じる禁呪」に関する記述と、エリナが封印された時期に中央からアールディーン領に派遣されていた魔術師団の一員のリスト、その中にあった不審な名を発見した。それは、ロザリアの父親であるヴァインベルク公爵と繋がりの深い魔術師だった。
そんな中、温室の外壁に、領内の職人たちが心血を注いで作り上げた特殊な樹脂パネルや、試行錯誤の末に生み出された透明度の高い鉱石ガラスが、一枚一枚丁寧にはめ込まれていく作業が始まった。陽光を浴びると、それらはプリズムのように七色の光を放ち、未完成ながらも温室はまるで氷の世界に現れた宝石箱のような輝きを放った。その光景は、見守る領民たちからも感嘆の溜息を誘った。
だが、その希望の光を嘲笑うかのように、その夜、事件は起きた。
完成間近の温室の北側で、原因不明の火の手が上がったのだ。幸い、夜警の兵士が早期に発見し、迅速な消火活動によって大きな被害が出る前に鎮火されたが、美しくはめ込まれたばかりの樹脂パネルの一部が熱で歪み、黒く煤けてしまっていた。これは単なる失火ではない。明らかな警告であり、敵の妨害がより直接的かつ悪質なものへとエスカレートしている証だった。
ヴィオレットは、侍従長と共に、まだ焦げ臭い匂いが漂う現場を冷静に調査していた。歪んだパネル、焼け焦げた地面…。その時、彼女の目が、焼け跡に落ちていた小さな金属片を捉えた。それは、炎の熱で一部が変色していたが、そこに刻まれた紋章は間違いなく見覚えのあるものだった。原作で、エリナを陥れ、ヴィオレットを断罪へと追い込んだ中心人物の一人、ヴァインベルク公爵家のものに酷似した、より禍々しい意匠が施された紋章――おそらくは、彼らに連なる闇の実行部隊のもの。
ヴィオレットは、その金属片を強く握りしめた。手のひらに食い込む鋭い感触が、彼女の怒りを呼び覚ます。だが、その怒りは決して激情に任せたものではない。それは、氷の奥で燃え盛る青い炎のような、静かで、しかしすべてを焼き尽くすほどの決意の色を帯びていた。
「…受けて立つわ。あなたたちの悪意も、このアールディーンの冬も、すべて」
氷の侯爵令嬢の瞳に、炎のような決意の光が宿った。エリナがくれた小さな太陽の絵の温もりを胸に、彼女は迫り来る闇に敢然と立ち向かう覚悟を固めた。