表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/9

第3話 雪解けの兆し、忍び寄る影

 凍てつく大地との戦いは熾烈を極めた。連日、日の出前から日没後まで続けられる基礎工事は、屈強な男たちの体力と気力を容赦なく削っていく。だが、ヴィオレットは決して弱音を吐かなかった。彼女は「禁書庫の異世界文献」から得た知識を元に、凍土を効率的に掘削するための新たな道具の設計図を職人たちに示し、さらには地中の僅かな熱を利用して作業箇所周辺の凍結を和らげるという、誰も思いつかなかった方法を提案した。


「このような方法が…本当に?」

 年長の棟梁は、ヴィオレットが提示した熱交換の仕組みが描かれた図面を前に、半信半疑の声を上げた。それは、この世界の常識からはかけ離れた発想だったからだ。

「試してみる価値はあるはず。失敗を恐れていては何も始まらないわ」

 ヴィオレットは静かに、しかし確信に満ちた声で答えた。彼女の指示のもと、職人たちは戸惑いながらも、その奇抜な装置の製作に取り掛かった。数日後、その装置が稼働し、硬く凍りついていた土壌が、目に見えて掘りやすくなった時、現場には驚嘆の声と、ヴィオレットに対する新たな敬意が生まれた。


「侯爵様は、まるで魔法使いのようだ…」

 誰かが畏敬の念を込めて呟いたその言葉は、いつしか職人たちの間で共有される認識となっていった。彼らはもはや、ヴィオレットを単なる気まぐれな貴族の令嬢として見てはいなかった。彼女の持つ深遠な知識と、困難に臆せず立ち向かう指導力に、次第に信頼を寄せるようになっていたのだ。ヴィオレットもまた、休憩時間には自ら現場に足を運び、職人たちと質素なパンとスープを共にし、彼らの苦労を労い、意見に耳を傾けた。氷のように冷たいと噂される彼女の、その意外な一面に触れ、職人たちの士気はかつてないほど高まっていった。


 ヴィオレットは、エリナのことも決して忘れてはいなかった。工事の喧騒が遠くに聞こえる廃墟の温室の窓辺に、妹の小さな影が見える日が増えていた。ヴィオレットはそれに気づかぬふりをしながらも、心の中で静かに語りかけていた。

(エリナ、もう少しよ。あなたのために、暖かい、花々が咲き乱れる場所を必ず作るわ)

 ある日、廃墟の片隅から、エリナが幼い頃に使っていたと思われる、錆びついた小さなシャベルと、色褪せた花の押し絵が数枚見つかった。ヴィオレットはそれらをそっと拾い上げ、自室に持ち帰った。その押し絵の一つが、伝説の「炎の蓮華」にどこか似ていることに気づき、胸が締め付けられるような思いがした。

 その夜、ヴィオレットはエリナの部屋の扉の前に、数枚の花のスケッチ――その中には、鮮やかな色彩で描かれた炎の蓮華もあった――と共に、短い手紙をそっと置いた。「あなたのために、暖かい場所を作っているわ。完成したら、一緒にたくさんの花を育てましょう」と、心を込めて。


 侍従長からの報告によれば、領内の一部の貴族たちは依然として温室建設に批判的で、「侯爵様は民の苦しみを顧みず、無益な道楽にふけっている」と公言して憚らない者もいるらしかった。領民の中にも、この時期の大規模工事に不安を抱く声は依然として根強い。

「結果で示すしかないわ」

 ヴィオレットは静かにそう答えるだけだった。だが、変化の兆しもないわけではない。建設現場の活気、そして何よりもヴィオレット自身が先頭に立って困難に立ち向かう姿は、徐々にではあるが、人々の心に何かを訴えかけていた。城下の市場では、「侯爵様は本気でこの土地を変えようとしているのかもしれない」という囁きが、以前よりも少しだけ好意的な響きを帯びて交わされるようになっていた。


 だが、順風満帆とはいかない。温室の基礎工事がようやく終わり、鉄骨の組み立てが始まろうとした矢先、新たな問題が持ち上がった。建設に不可欠な、特殊な強化ガラスと軽量かつ頑丈な鉄骨の調達が、突如として困難になったのだ。契約していたはずの遠方の商人からの連絡が途絶え、他のルートを当たっても、不自然なほどに断られるか、法外な価格を提示されるばかりだった。

「これは…偶然ではないわね」

 ヴィオレットは冷静に状況を分析した。アールディーン家の影響力は中央においては決して大きくない。以前からアールディーン家の力を削ごうと画策していた中央の有力貴族――原作ヒロインの背後にいた勢力――が、この計画を嗅ぎつけ、妨害工作を始めた可能性が高い。その見えない手が、じわじわと圧力をかけてきているのだ。


 それでも、ヴィオレットは計画を諦めるつもりはなかった。代替の資材を探し、新たな調達ルートを模索し、時には自ら交渉の席に着くことも厭わなかった。その姿は、まさしく氷の壁に立ち向かう孤高の戦士のようだった。


 数週間後、数々の困難を乗り越え、ついに温室の主要な骨組みが、雪に覆われたアールディーンの庭にその姿を現した。銀色に輝く鉄骨が織りなす曲線は、まるで巨大な鳥の翼か、あるいは未来への希望を紡ぐ竪琴のようにも見え、その荘厳な美しさは、見る者を圧倒した。

 その夜、ヴィオレットが疲労困憊の体で自室に戻ろうとすると、エリナの部屋の扉の前に置いたはずの手紙と花のスケッチがなくなっていることに気づいた。一瞬、心臓が跳ねる。そして、彼女は息を飲んだ。

 ドアの下の、ほんの僅かな隙間から、一枚の小さな紙片が差し出されていたのだ。

 ヴィオレットは震える手でそれを拾い上げた。そこには、子供の拙い、しかし力強いタッチで、一つの「太陽」が描かれていた。黄色と橙色のクレヨンで、精一杯に丸く描かれた太陽。それは、この氷の世界で何よりも渇望される温もりと光の象徴だった。


 ヴィオレットは、その小さな太陽の絵を胸に強く抱きしめた。エリナの心が、ほんの少しだけ、雪解けを始めたのかもしれない。その確かな手応えが、彼女の心に熱いものを込み上げさせた。

 しかし、喜びも束の間、彼女は中央からの圧力という新たな脅威を改めて認識し、表情を引き締めた。

(エリナ、あなたの太陽を、誰にも奪わせはしないわ)

 氷の侯爵令嬢の瞳に、より一層強く、揺るぎない決意の光が宿った。戦いはまだ始まったばかりなのだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ