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第2話 凍土に描く未来図

 数日が過ぎた。ヴィオレットの執務室の灯りは、連夜遅くまで消えることがなかった。彼女の目の前には、数枚の大きな羊皮紙が広げられている。そこに描かれていたのは、従来の建築様式とは明らかに一線を画す、複雑かつ合理的な構造を持つ温室の設計図だった。ガラスを多用した優美な曲線、太陽光を最大限に取り込むための角度、そして、この極寒の地で内部の温度を保つための独創的な二重構造。それらはすべて、「禁書庫の異世界文献」から得た知識と、アールディーンの厳しい環境を熟知するヴィオレット自身の知恵が融合した賜物だった。


「…これで、よし」


 最後の線を慎重に引き終え、ヴィオレットは小さく息をついた。完璧なまでの集中力で数日間向き合ってきた設計図は、彼女の揺るぎない決意を体現しているかのようだった。


 翌朝、ヴィオレットは侍従長を呼び、完成した設計図を示した。

「これを、城の西側、かつてエリナが好んでいた古い温室の跡地に建設する。必要な人員と資材の手配を急がせなさい」

 侍従長は、その壮大かつ異質な設計図と、主君の淡々とした命令に、一瞬言葉を失った。彼の長い経験の中でも、これほど突飛で、しかもこの厳冬期に着手しようという計画は前代未聞だった。

「ヴィオレット様…これは、その…温室、でございますか? このような時期に、これほど大規模なものを…」

「何か問題でも?」

 ヴィオレットの澄んだブルーの瞳が、静かに侍従長を射抜く。その視線には、いかなる異論も許さないという絶対的な意志が込められていた。

「いえ…滅相もございません。ただちに手配いたします」

 侍従長は深く頭を下げた。主君の決断に口を挟むことは許されない。だが彼の胸には、不安と戸惑いが渦巻いていた。この「氷の侯爵令嬢」が、また何か途方もないことを始めようとしている。それが吉と出るか凶と出るか、彼には予測もつかなかった。


 その日の午後、ヴィオレットは、城の最も奥まった一角にある妹エリナの部屋へと向かった。扉は固く閉ざされ、中からは何の物音も聞こえてこない。侍女によれば、エリナは今日もまた、朝から例の廃墟の温室に籠っているという。

 ヴィオレットは、エリナの部屋の扉にそっと手を触れた。冷たい木の感触が、まるで妹の閉ざされた心を象徴しているかのようだ。

「エリナ」

 静かに、しかしはっきりと、ヴィオレットは呼びかけた。返事はない。

「あなたが好きだった温室を、新しく建て直そうと思っています。昔のように、たくさんの花が咲く場所に…あなたが愛した、あの“炎の蓮華”も、きっと咲かせられるわ」

 言葉は、重い扉に吸い込まれるように消えていく。ヴィオレットはしばらくの間、扉の前で佇んでいたが、やがて静かに踵を返した。今はまだ、言葉は届かないかもしれない。だが、行動で示すことはできる。


 数日後、ヴィオレットは質素な外套を羽織り、供も最小限にして城下の視察に出た。厳しい寒波は人々の生活を直撃し、凍えるような寒さの中、身を寄せ合うように暮らす領民たちの姿がそこにはあった。食料の配給所の前には長い列ができ、子供たちの顔には生気がない。

(やはり、これではいけない…)

 ヴィオレットの胸が痛んだ。温室の再建は、エリナのためだけではない。将来的には、この極寒の地でも薬草や野菜を安定して栽培し、領民の生活を豊かにすることにも繋がるはずだ。異世界の文献には、そのような技術も記されていた。それは遠大な計画であり、今はまだ夢物語に聞こえるかもしれない。だが、諦めるわけにはいかなかった。


 城に戻ると、温室建設の責任者として選ばれた建築家や職人たちが、ヴィオレットの執務室に集められていた。彼らは皆、見たこともない設計図を前に、困惑と疑念の表情を浮かべている。

「このような構造は…前例がございません、ヴィオレット様」

 年配の建築家が、恐る恐る口を開いた。

「寒さでガラスが割れるのでは? これほどの量の鉄骨も、この時期にどうやって…」

 次々と上がる不安の声に、ヴィオレットは動じなかった。彼女は冷静に、設計の意図、新しい素材の特性、そしてそれがいかにこの地の気候に適しているかを、論理的かつ具体的に説明していく。その言葉には、揺るぎない自信と、未来への明確なビジョンが込められていた。最初は半信半疑だった職人たちも、ヴィオレットの熱意と詳細な知識に次第に引き込まれ、やがてその表情には挑戦への意欲が微かに灯り始めていた。


「不可能だと言う前に、知恵を絞りなさい。アールディーンの民の底力を、私に見せてほしい」

 ヴィオレットのその言葉は、彼らの職人としての矜持を静かに揺さぶった。


 温室の建設は、厳しい冬の只中で始まった。まず、廃墟と化した古い温室の残骸を撤去し、基礎工事に取り掛かる。だが、予想通り、大地は芯まで凍てつき、ツルハシを振るう男たちの息はすぐに荒くなった。用意した資材も、この寒さで品質が劣化したり、輸送が滞ったりと、問題が山積する。

 領内の一部の貴族や役人たちからは、「この非常時に、侯爵様はご乱心か」「ただでさえ少ない資源を、道楽のようなものに浪費されている」といった批判の声が、侍従長を通じてヴィオレットの耳にも届いていた。彼女はそれらを黙殺した。今はただ、前へ進むしかない。


 その日も、工事は難航していた。凍った土を掘り起こす作業員たちの表情には、疲労と焦りの色が濃い。ヴィオレットは、自ら現場に立ち、彼らを励まし、細かく指示を与えていた。その姿は、いつもの冷徹な「氷の侯爵令嬢」とは少し異なって見えた。


 作業が一時中断し、ヴィオレットが凍える手を息で温めていると、ふと視線を感じた。彼女が顔を上げると、遠くに見える城館、エリナが籠っているはずの廃墟の温室の窓辺に、ほんの一瞬、小さな人影が見えたような気がした。すぐにそれは消え、雪明かりの反射だったのかもしれない。

 だが、ヴィオレットの心に、小さな温かいものが灯った。


(エリナ…見ているの?)


 確証はない。だが、それで十分だった。ヴィオレットは、凍てつく大地にしっかりと両足で立ち、改めて心に誓った。


「必ず、この凍土に花を咲かせる。あなたと、この領地の未来のために」


 その決意を胸に、彼女は再び作業員たちに向き直り、力強い声をかけた。

「作業再開! 今日中に、基礎のここまでを終わらせるわよ!」

 彼女の言葉に、男たちの間にわずかな活気が戻る。氷の世界に挑む、小さな、しかし確かな一歩が、今、確かに踏み出されようとしていた。

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