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第1話 凍てつく城の誓い

 吐く息が白く凍り、瞬く間にダイヤモンドダストとなってキラキラと虚空に舞う。アールディーン侯爵領は、その年の最も厳しい寒波に見舞われていた。常年雪と氷に閉ざされた北の果てのこの地にあってさえ、これほどの極寒は稀有なことだった。荘厳なるアールディーン城の尖塔は、巨大な氷柱のように陽光を弾き、その美しさは観る者を畏怖させるほどの冷ややかさを湛えている。


 城の主、ヴィオレット・フォン・アールディーンは、執務室の大きな窓からその景色を無表情に見つめていた。肩まで届く銀白の髪は一条の乱れもなく結い上げられ、澄み切ったブルーの瞳は、窓外の氷の世界をそのまま映したかのように冷徹な光を宿している。歳は二十八。若くして侯爵家を継いだ彼女の周囲には、常に張り詰めた空気が漂っていた。


「ヴィオレット様、次のご報告は?」


 控えめに声をかけたのは、年配の侍従長だ。彼の声には、長年仕えてきた忠誠心と共に、隠しきれない緊張が滲んでいる。ヴィオレットはゆっくりと窓から視線を外し、侍従長へと向けた。その所作一つにも、人を寄せ付けない威厳があった。


「北の監視所からの定期連絡は? それと、貯蔵庫の食料と燃料の残量、最新のものを」

「はっ、ただいま。北の監視所からは異常なしとの報告が。貯蔵庫の残量につきましては、こちらの資料に」


 侍従長が差し出す羊皮紙の巻物を、ヴィオレットは白い細い指で受け取った。その指先ですら、まるで氷細工のような冷たさを感じさせる。彼女は迅速かつ的確に内容に目を通し、いくつかの指示を簡潔に、しかし揺るぎない口調で与えた。その言葉に無駄はなく、感情の起伏も一切感じさせない。これこそが、「氷の侯爵令嬢」、あるいは陰では「氷の魔女」とまで囁かれる彼女の日常だった。


 侍従長が下がると、執務室には再び暖炉の薪が爆ぜる音と、ヴィオレットが羽根ペンを走らせる微かな音だけが響いた。彼女は、この静寂の中でこそ、思考を巡らせることができた。


(また、この季節が来た…そして、私は再びここにいる)


 ペンを置いたヴィオレットは、そっと胸に手を当てた。鼓動は静かだが、その奥には、誰にも見せることのない熱い決意が燃え続けている。彼女の脳裏に鮮明に蘇るのは、もう一つの人生の記憶。炎に包まれる断罪台、民衆の罵声、そして…守り切れなかった最愛の妹、エリナの怯えた瞳。


 原作のゲームで、自分は悪役令嬢だった。冷酷無比な為政者として、エリナの持つ特殊な魔力を利用しようとし、最後は破滅する。その記憶は、転生した今もなお、悪夢となって彼女を苛んでいた。


(いいえ、今度こそは違う)


 ヴィオレットは固く拳を握りしめた。あの時、エリナを犠牲にしたのは、無知と傲慢さ、そして何よりも愛情の示し方を知らなかった自分のせいだ。だが、二度目の機会を与えられた。今度こそ、エリナを守り抜く。この凍てつく領地と、そこに生きる民を、真の意味で導いてみせる。


 そのためにまず為すべきは、エリナの心の氷を溶かすことだった。現在十二歳になるエリナは、幼少期に何者かによって強力な生命魔力を「呪い」と偽って封印され、心を閉ざしてしまっていた。アールディーン城の片隅、かつては陽光と花々に満ちていたという温室は、今は見る影もなく荒れ果て、エリナはそこに籠りがちだと聞く。


(あの温室…エリナが唯一、微かに笑顔を見せた場所)


 原作の知識と、転生前に断片的に見聞きした情報を繋ぎ合わせる。エリナは植物を愛し、その魔力は花々を瞬時に咲かせるほどの生命力に満ちていた。その力を取り戻させたい。いや、力以上に、彼女の笑顔を。


 ヴィオレットは立ち上がり、執務室の奥にある一角へと歩みを進めた。そこには、アールディーン家に代々伝わる古文書と共に、数冊の異質な装丁の本が厳重に保管されていた。「禁書庫の異世界文献」と彼女が密かに呼ぶそれらは、幼少期に偶然見つけ出し、独学で解読してきたものだ。異なる法則、異なる技術、異なる文化…それらはヴィオレットの世界観を大きく広げ、そして今、彼女の計画の大きな助けとなろうとしていた。


 その中の一冊、植物の栽培と環境制御に関する記述が豊富な書物を手に取る。そのページをめくりながら、ヴィオレットの脳裏には具体的な構想が形を結び始めていた。


(この知識を使えば、あの廃墟同然の温室を再生できるかもしれない。厳しいアールディーンの気候でも、花々が咲き乱れる場所に…エリナが愛した、あの“炎の蓮華”を咲かせられるかもしれない)


 炎の蓮華。伝説によれば、それは真実の愛と希望の象徴であり、極寒の中でさえ燃えるような真紅の花を咲かせるという。


 ヴィオレットは書物を閉じ、再び窓辺に立った。相変わらず空からは粉雪が舞い落ち、世界は白と静寂に支配されている。だが、彼女のブルーの瞳には、先程までの冷徹さとは異なる、静かな闘志と温かな光が灯っていた。


「まずは、あの凍てついた庭に、温もりを取り戻すことから始めよう。エリナのために、そして、このアールディーンのために」


 その呟きは、誰に聞かれることもなく、しんしんと降り積もる雪に吸い込まれていった。だがそれは、氷の侯爵令嬢ヴィオレット・フォン・アールディーンが、自らの運命と世界の法則に戦いを挑む、確かな誓いの言葉だった。彼女の孤独な戦いが、今、静かに幕を開けようとしていた。

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