第八幕:鉄紺色の悔悟(1)
「リンさん!どういう事ですか、これは!」
朝、部屋を出て階段でリビングまで降りてくると、いきなり怒鳴り声が響いてきた。
…なに?今日はサキが怒ってるの?
「ゴメンってばサキ。別に抜け駆けするつもりなんかじゃなかったんだって!」
「これが抜け駆けじゃなくて何だというんですか!一緒に行こうって約束してたのに!見損ないましたよ!」
「……だって、マスターが奢ってくれるっていうから……」
「サキちゃん、朝からおかんむりだねえ……」
「サキさん、もうそのくらいで許してあげましょうよ……」
烈火のごとく怒るサキと、平身低頭で許しを乞うリン。それを半ば呆れつつもハルとユウが宥めようとしているが、ほとんど無視されている。
サキの感情は怒りの赤を通り越して赤黒く……って恨みまで入ってんの!?
「ねえ、サキなんでこんなに怒ってるの?」
オロオロしてるユウにそろりと近寄って耳打ちして聞いてみた。
「あっ、マスター。
それが、昨日のリンさんのブログの件で……」
…昨日のリンのブログ?もしかしてあのカフェ行ったこともう書いたの?
あ、ひょっとして、リンとサキは一緒にあの店に行くつもりだったのか?あー、それは悪いことしたかも。
ピピッ。
『マスター、今日はどうしました?
今日もまだ事務所に降りて来られてないようですが……』
「ええと、今日はサキさんがリンさんを怒ってます……」
『ええ!?』
あっやべ。サキがこっちに気付いた。
「…………マスター。どういう事か説明してもらいましょうか!」
うわやっぱりこっちに火の粉が!
火の粉っていうか火炎放射器が!モロに!
「いやその、なんだ。知らなかったんだよ、うん」
「知らなかったじゃあ済まされませんよ!人が命がけで戦闘してる時に!自分たちだけで、あんな美味しそうなモノを!」
えっ、サキ午後から巡回に合流してたんだ?
『サキちゃん、その件は一旦後回しにして、まずは事務所に集合⸺』
「ナユタさんもナユタさんです!この人たちと一緒になって何ですか!あなたが止めなきゃダメでしょうが!」
『そ、それは……その、』
うーんヤバい。この件に関してはナユタさんもある意味共犯だからなあ。
「あー、じゃあ今度の休みにサキにも奢るから。それで……」
「奢ればいいって問題じゃありません!」
ええ……?
「いいですか、昨夜のリンさんのブログ。今朝の時点でブログのコメント300件、連動しているSNSのリツイート1万件、イイネ3万件ですよ!?これがどういう事か分かりますか!?」
「ええと、バズったってこと?」
「よおくお分かりじゃないですか。
……で?その後で私がノコノコ店に顔出したり、それをブログに書いたりしたらどうなるか、分かりますよね!?」
「………………あ。」
「ようやく気付いたようですね。
そうです!『Muse!のサキはリンさんのブログで情報収集してる』って、そう言われるに決まっています!そしてそうなったが最後、もう誰も私のブログなんて見向きもしなくなるじゃないですか!」
「いや考えすぎだろ……」
「い!い!え!『同じアイドルグループの仲間なのに教えてももらえないんだ?』『ていうかリンさんより情報得るの遅いってどうなの?』って、そう言われるに決まってるんですよ!」
…うーんこれはマジでヤバいかも。
サキのブログもスイーツネタ多いし、閲覧数に響くと確かにマズい。そう考えると、ちょっと軽率だったかあ。
「じ、じゃあさ、俺が行ってサキの好きなの買ってくるからさ」
「そんな事で埋め合わせになるとでも?」
「……ならないの?」
「なりませんよ!ああいうのはお店の雰囲気まで込みで楽しむものなんです!いつもの自分の部屋にただスイーツだけ並べられたって、何が楽しいもんですか!
それに!ショーケースの中身やメニュー表の写真を見ながらあれが美味しそうこれも食べたい、って選ぶ時間こそが至福なんです!全く解ってないじゃないですか!」
正論すぎるほど正論。
返す言葉がないとはこのことだ。
「ねえサキ、ほんとゴメンってば!」
「今回ばかりは許しません!絶っ対に!」
平身低頭で手を合わせて完全に白旗状態のリン。怒り心頭のサキは、リン絶対許さないマンに変貌している。いや女の子だから、リン絶対許さないウーマンか。
「……うーん。今回は完全に俺のせいだし、責めるなら俺だけにしてもらえねえかな?だからリンもナユタさんも許してやって……」
「謝って済むなら警察要らないんですけど!?」
「分かってるよ。だからサキの気が済むまで、俺はサキの下僕になるから。今日1日、何でも命じていいからさ」
俺がそう言った瞬間、リン、ユウ、ハル、それからタブレット越しのナユタさんまで、驚愕のあまり絶句したのが手に取るように分かった。
…え。
あれ?もしかして…………早まった?
「ほ~お?言いましたねマスター」
「お、おう……」
「男に二言はない、ですよねえ?」
「え、ええと…………出来ればお手柔らかに……」
その時のサキの顔に浮かんだ笑みは、多分一生忘れることはないと思う。
なんていうか、邪悪な笑顔、だった。
いや邪悪ってのは言い過ぎだと思うけど。でも、そのぐらいの表現をしても良さそうな、“あ、これ、俺死んだわ”みたいな感覚。
あんな感情初めて視たわ。
そんな騒ぎのせいで、朝はかなりバタバタになってしまった。
この日の予定はユウ、ハル、サキのレフトサイドが午前中にレギュラー出演番組の収録。レイ、リン、アキのライトサイドが午前中に音楽PVの収録、午後からはレイ単独で音楽大学の学祭出演。
午後からはユウ、ハル、マイの新レフトサイドがデビューライブに向けてのレッスン。サキはレフトからライトへ配置換えのため、午後はリンとアキと一緒に新ライトサイドの息合わせのためのレッスンがやはり入っている。
結構スケジュールが詰まっていた。
ナユタさんと俺は今日は別行動で、ナユタさんは午前中はライトサイドに帯同、午後は事務所に戻って雑務。俺は午前中はレフトサイド、午後はレイの付き添い……だったんだけど、つい下僕の約束なんてしちゃったもんだから、サキが解放してくれるかどうか。
「マスター……その、ほんとゴメン……」
昨日とは打って変わって、リンが本当に申し訳なさそうに謝ってくる。
「リンは何も悪くないよ。悪いのは俺だから」
「でもアタシも言わなかったのが悪いし、ブログも我慢できずに書いちゃったから……」
「大丈夫だって。サキもきっと分かってくれるよ」
消え入りそうなリンを慰めてから、レフトサイドの3人とハウスを出た。
途中から姿を見せたレイが何も言ってこなかったのが、ちょっとだけ気になった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
レフトサイドの午前中の収録は、何事もなく無事に終わった。サキもにこやかに営業スマイルで愛想振りまいて、和やかな雰囲気に終始した。
だが、楽屋に戻るとそれは一変する。
「マネージャー、疲れました」
「あ、ああ。お疲れさま」
「……言うことはそれだけですか?」
「え。あ、えっと、何か飲みます?」
「まさか何も用意してないと?下僕の自覚あるんですか?」
いやあ……さすがにサキの細かい好みまではまだ把握できてないよ……。
「ええと。何かご入り用でしたら何なりとお申し付けを⸺」
「ほーお?いちいち言わなければ分からないと。雑魚なだけでなく無能ですかアナタ」
「サキちゃん~、もう許してあげなよ~」
「ハルさんは関係ないんだから黙ってて下さい!」
「ふええ~まだ怒ってるよ~」
後から知ったことだけど、サキにはごく稀に、こういう風に癇癪を起こして『手がつけられないほど荒れ狂う』事があるのだそうだ。
大抵はナユタさんがなだめたり諭して言い聞かせるか、あるいは落ち着くまでそっとしておくらしいのだが、今回はナユタさんも怒りの対象で、俺が迂闊にも下僕とか言い出したもんだから、そっとしておく事もできなくなった。
つまり、未曽有の事態、ってこと。
肩を揉み、足をさすり、飲み物を用意して、昼食をおごる。
口答えは一切禁止、言葉遣いは敬語、返事は『はい』と。
まあ自分でも情けなくなる有り様だった。
28のいい歳した大人が14歳の小娘の言いなりになって、いいようにアゴでこき使われている様は、きっと傍から見てもかなり見苦しいものだったに違いない。でも、サキの感情がだんだんと千々に乱れてきているのも分かってたから、俺は黙々と従った。
昼食を終えて、レイから学祭の会場へと向かうとの連絡をもらい、レフトサイドの3人を事務所まで送り届けた。そしてリビングのソファでふんぞり返るサキの前に腰をかがめて、うやうやしくお伺いを立てる。
「えーと、サキさん。私これからレイさんの所に行ってもよろしいでしょうか」
「このまま解放するとでも?」
いやあの、仕事なんですけどね……。
「あー、今日なんか暑いな~」
「あ、じゃあ、すぐにアイス買ってきます!」
「ありきたりのソーダ味とか、お子様だと思ってバカにしてますよね?」
「い、いや、そんな事は……」
「いーえ!マスターは私のことを内心馬鹿にしてるんです!」
もしサキに俺の感情が読めたとしたら、困った感情で溢れかえっているのが分かっただろうになあ。
まあ、今のサキの感情がちょうど困惑一色なんだけど。
こうなれば、もう覚悟を決めるか。




