第六幕:青灰色の悲しみ(1)
「お邪魔しまーす」
パレスへ戻るナユタさんとアキと別れて、俺だけレッスン場に上がった時にはもう夕方の5時を過ぎていた。
昨夜とは打って変わって、エレベーターホールにまで音楽や人の声、キュッキュッとリズミカルに鳴る足音などが聞こえてくる。防音性能は、残念なことにさほど高くはなかったようだ。
まあテナントとして借りてるだけだしな。改装するにも限度があるだろうし仕方ないよね。
靴を脱いで下足箱に入れようと持ち上げたところで、中からマイを叱咤する澄んだ高い声が聞こえてきた。
「マイ、もう一度!テンポが少し遅いわよ!」
…って、なんでレイが来てるの?
この時間にレッスンしてるのって、ユウとマイだけのはずなんだけど。
そう思いながらスリッパに履き替えて廊下を進み、明かりのついているレッスン室の扉を開けた。
「あらマスター。お疲れさまです」
「うん、ユウお疲れさま。なんでレイがここに?」
「レイさん、普段から私たち全員のお稽古付けてるんですよ」
「レイが?レッスンって、普通は誰か専門の先生に見てもらってるんじゃないの?」
「歌唱とダンスと演技とでそれぞれ専門の先生がいらっしゃいますが、外注なので来てくださるのは月に一度か二度だけなんです。それ以外の普段のお稽古は、レイさんが私たちの“先生”なんですよ」
「そうなんだ」
ふーん。まあレイは歌もダンスも自信たっぷりで妥協がなさそうだし、完璧主義っぽいかららしいといえばらしいけど。
あ、そのレイがこっちに気付いた。
「あらマスター。様子を見に来たのかしら?」
「うん、まあそんなとこ。差し入れあるから一旦休憩入れないか?」
リンたちと寄り道したスイーツカフェでテイクアウトしてきた袋を持ち上げて見せる。中身はミルクティーの入ったカップが転倒防止の紙枠に収められて立っている。
俺のぶんまでと思って3本買ってきて正解だったなー。まあ俺のはレイに渡っちゃうけど。
「まあ、気が利くのね。では休憩にして頂きましょうか」
「そうですね。マスター、ありがとうございます」
あー、案の定マイが死んでんな。
「マイ、運動した直後にだらしなくへたり込んではダメよ。もっとシャキッと立って、毅然としてなさい」
…うーん、レイってばスパルタだな。まあ言ってることは正しいけど。
そう思いつつミルクティーを持って、座り込んで肩で息をしているいるマイに近寄り声をかけてみた。
「マイ、起きれるか?」
「あ……マスター。だいじょうぶ……です」
「休憩しようか。甘い飲みもの買ってきたから」
「あ、ハイ。ありがとうございます……」
やる気は感じるけどだいぶバテてんな。
ていうか昼イチからぶっ通しでレッスンやってたのかもしかして?
マイのレッスンウェアが汗でぐっしょり濡れていて、ブラのラインが透けて見えてて思わず目を逸らした。
「あっ、そうでした。外では『マネージャーさん』とお呼びするようになったんでしたね」
マイにタオルを差し出しつつ、ふと思い出したようにユウが言う。
「いや、ここはレッスン場で部外者いないから、今はいいよ」
「あら、何の話かしら?」
俺への呼び方の話をレイとマイにも話す。本日3回目なので若干面倒。今朝顔を合わせた時に気付いてれば話が早かったのになー……って朝はリンを怒らせたんだっけ。
「確かに、言われてみればそうね。
了解したわマスター。もう全員に周知はしてあるのかしら?」
「いやハルがまだだから、後で言っとくよ。あの子収録現場とかで大声で呼びそうだしな」
「確かに、あの子なら言いかねないわね。分かったわ、私からも伝えておくわね」
「ハルさん、そのあたりあんまり気にしませんからね……」
「大丈夫よ。ハルだってきちんと説明すれば分かってくれるわ」
「だといいんだけどね。ていうか、そのハルは?」
「そろそろ巡回から戻ってきているのではないかしら?私はリンが交替に来てくれたから、ひと足先にこちらへ来たのよ」
あー、それでレイがここに来てるわけか。そういやリンは他に行くとこがあるからって、カフェのあと別れたんだった。
多分リンも、レイが普段からレッスン見てやってるのを分かっていて、マイの所へ行かせようとしてくれたんだろうな。
「……そう言えば、巡回中もあの子マスターって連呼してたわね……」
「マジで!?」
「マスター……お先に戻られてお話しされた方がよいのではありませんか?」
「いや……もう帰ってきてるなら後でいいよ……」
…ぶっちゃけた話、不安しかないよねあの子は。
まああのおバカなところが可愛いんだけどさ。
なおハルは後日、ミニライブのMCトーク中に『好きなものは?』と聞かれて『マスターが好き!』と堂々宣言してしまって炎上したことを付記しておこう。
「で、マイは調子、どう?」
他愛もない話を少しして、呼吸も落ち着いてきたところでマイに聞いてみた。
「そ、その……。一生懸命頑張ってるつもりなんですけど、なかなか思うように行かなくて」
「まあ、焦ってもいいことないと思うぞ?みんなの言うことを聞いて、少しずつ覚えていけば⸺」
「それじゃダメなんです」
存外に強い調子で、マイは否定した。
その表情と感情にどちらも悲壮感が満ちていて、思わず息を呑む。
「私、ただでさえユウさんやレイさんのお時間を取ってしまっているから、頑張って少しでも早く覚えて、皆さんに迷惑かけないようにしなきゃ、って」
「いや迷惑って」
「そうですよマイさん。最初のうちは誰だって⸺」
「迷惑なんです。足手まといなんです私。でもそんなの私⸺」
「マイ、それは違うわ」
不意に冷めた声が降ってきて、思わず全員で振り返った。
そこには青ざめた顔のレイが立ち尽くしていた。一旦トイレに行ったようだが、ちょうど戻ってきた時に今のマイの言葉を聞いてしまったのだろう。
「えっ、レイさん?」
「それは違う。迷惑だなんて、そんな理由……、あなた、私たちをバカにしているの?」
「え……、ええっ!?そんな、違いま⸺」
「今日はもう、お開きにしましょう。白けてしまったわ」
なんかレイの機嫌を損ねたみたいだ。
機嫌を損ねたっていうか、あれは……。
レイは買ってきた飲み物に口もつけずに、さっさと着替えてレッスン場から出て行ってしまった。俺もユウたちも呆気にとられて、誰もそれを引き留めることができなかった。
その後、何となく気まずい雰囲気になって、買ってきたミルクティーを飲み終えると、全員早々にレッスン場を後にした。
レイが手を付けなかったミルクティーは、結局俺が飲むしかなかった。




