第四幕:ピンク色の欲望
「おっ、ナユタちゃん。今日はどったの?
誰かに用事?俺、口利いちゃうよ?」
ナオコさんと別れたあと、付き合いのある部署を回りつつ局の通路を歩いていると、黒縁メガネで口ひげを蓄えた小太りの中年男性に声をかけられた。
男性がナユタさんに目を向けた瞬間、ブワッと立ち上るピンク色の“感情”。うわあ、最低だこのエロオヤジ。
「あ、タカハシさん。今度Muse!のマネージャーを交代する事になりましたので、挨拶回りに」
「ええ!?ナユタちゃんもう来ないのぉ?現場で大人気だったのに」
たった今ピンクの感情を剥き出しにした中年男からは、今度は失望の感情が湧き出して来る。
…やっぱりナユタさん人気なんだ。まあ美人だし、人当たりもいいからなあ。
「そう言って頂けるのは有り難いんですが、私も他に色々仕事を抱えてまして。⸺で、こちらが今度からマネージャーを担当する桝田です」
「はじめまして、桝田です。これからよろしくお願いします」
いや、新マネが男だからってあからさまに落胆するのやめてもらっていいですかね。
「ああそう。まあ頑張ったらいいんじゃない?」
「はい。至らない所もあるかとは思いますが、一生懸命頑張りますので」
--こういう手合いには下手に出るのが無難よね。
「ところでナユタちゃん、日頃の感謝の意味合いも兼ねて今晩食事でもどう?」
「すみません。今夜は先約がありまして」
「なんだ〜そりゃ残念。じゃあ後日改めて、ナユタちゃんのお疲れ会でも……」
「あ、私、完全に現場に来なくなるわけではないので」
あっこれナユタさん、全部分かった上でのらりくらりと躱してるだけだ。
「あ、そうなの?⸺そっかそっか、じゃあまた会えるってことね!」
「まあ、私は今後は涅所長の秘書業務の方に専念することになりますので、現場には滅多に出てこれなくなるとは思いますが」
タカハシさんとやら、感情の上下が激しいな〜。
「まあ、白銀の手を煩わすことのないよう、私も頑張って努めたいと思っていますので、今後ともご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」
話が終わりそうにないので、というか、どうにかしてナユタさんとふたりきりで会いたい欲望があまりにも剥き出しで、仕方なく一歩前に出て話に割って入る。
背中に庇う形になったナユタさんから、ほんのちょっとだけ安堵の感情。まあそりゃそうだよね。
だけど彼女は安堵しただけではなかった。
「あっ、そういえば先ほどあちらでナオコさんとお会いしたんですが。タカハシさんのこと探してらっしゃったみたいですよ?」
「……っえ!?」
分かりやすく狼狽えるタカハシ氏。
なるほど、この人ナオコさんが苦手なわけね。
「あっ、そうですね。俺、ちょっと行って呼んで来ましょうか」
「……あ!?あー、いやいや、大丈夫。後で顔出しとくからさ。じゃあ俺はこれで」
タカハシ氏はそう言い残してそそくさと立ち去った。ナオコさんのいた区画とは真反対の方向へ、文字通り逃げて行った。どんだけナオコさんの相手するの嫌なんやアンタ。
「タカハシさん、結構人の好みが激しいので気を付けて下さいね。ああ見えてもこの局の大物プロデューサーさんなので、嫌われると後々面倒になりますから」
あー、なるほど。それでナユタさんも嫌がりながらも無碍にはしてなかったわけね。
でもまあ、それはそれで……
「うわあ面倒くさい……」
「だからそういう事言わないで」
「はい……」
通路の壁に掛かってる時計を見ると、9時半を少し過ぎた所だった。
「あ、そろそろユウたちの収録時間ですかね」
「そうですね。じゃあ私たちも向かいましょうか」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
情報バラエティ番組の収録スタジオは、先ほどのTV局から徒歩で15分程度の場所にあった。こちらはTV局ではなく、収録をメインにやっている専用のスタジオとのことだった。
屋外に出ると、雨はいつの間にか上がっていた。
「ユウちゃんたちもう来てますね」
「あっナユタさん、それにマスターも。お疲れ様です」
…ん?外でマスターって呼ばせるのマズくない?
「えーっと。外ではマネージャーさんって呼んでもらってもいい?」
「えっ、どうしてですか?」
「だってマネージャーで、しかも新人でしょ俺。それが今売り出し中の人気アイドルMuse!の子たちから『マスター』なんて呼ばれてたら、なんかちょっと傍目に違和感あると思わない?」
「なるほど。確かにマスターって『ご主人様』の意味に取れますものね」
「そういうこと。今までがナユタさんで名前で呼んでただろうから、なおさら違和感あると思うんだよね」
「分かりました。では『マネージャーさん』とお呼びしますね」
「うん。面倒くさいだろうけど、よろしく。サキもそれでいい?」
「……まあ、私は呼び方なんてどうでもいいと思いますけど。ですが、現場で無用なトラブルを回避するという意味では合理的かと」
「うん、そういう事だから。頼むよ」
「承知しました」
ユウもサキも、素直に納得してくれたのでひと安心。他の子たちにも早めに周知しておかないとな。
「皆さん、そろそろスタジオ入りをお願いします」
「分かりましたナユタさん。では行って参ります」
ユウとサキの収録は、特にトラブルもなく無事に終了した。さすがにふたりとも、この手の収録は慣れっこになっているようだ。
「ふたりともお疲れ様。午後はレッスンの予定が入ってるから、ユウはマイと一緒に13時からレッスン場に行ってて」
マイは正式加入したらレフトサイドに所属することになる。レフトサイドはユウをリーダーに、ハルとマイのチームになる。今レフトサイドにいるサキはライトサイドに移る予定だ。
「はい、分かりました。マイさんのデビューライブに向けて、たっくさん練習します♪」
うっ。デビューライブのプロデュースとか、考えただけで胃が痛ぇ……!
そんな胃を押さえている俺をよそに、ユウたちは「では、パレスに戻りますね」と言い残して、帰りの電車に乗るためにさっさと駅へと向かって行ってしまった。
うう、ユウも意外と冷たいな……。
あ、そういやライブと言えば。
「もしかして、ライブ会場とか押さえるのも俺の仕事ですか?」
「現状では、会場やチケットの手配などは一般スタッフがやりますから大丈夫ですよ。機材の搬入やセッティングも専門のスタッフがいますから心配ありません。桝田さんは、figuraの皆さんのコンディション調整やスケジュール調整をメインに動いてもらえれば」
ああ良かった。それもやれって言われるかと……
「でも、ゆくゆくは会場手配も桝田さんの仕事になるかも知れませんよ?私はやってましたから」
「うええ、それは勘弁して欲しい……」
思わず見上げたその壁の上にあった時計は、ぼちぼち12時になろうとしていた。早めに昼飯にして、次はスポーツ特番の収録現場に行かないと。
リン、まだ怒ってるかな……。
「お昼、何食べますか?」
俺の視線に釣られて時計を見上げたナユタさんが聞いてくる。
「あー、俺は何でもいいです。あんまり高くなければ」
「桝田さん、『何でもいい』っていうのは一番嫌われるんですよ?収録先の現場でスタッフさんと食べることもありますから、大まかなジャンルだけでも決めるようにして下さい」
「……はあ、そんなもんですか。んー、じゃあラーメンで」
--いや、ラーメンはむしろナユタさんにダメじゃない?
「ラーメン屋さんだったら、近くに美味しいお店がありますね」
…おっと。ナユタさん意外とイケるクチ?
ていうかホントに旨い店だここ。ちゃんと本場の九州の豚骨!まさか東京で食べれるとは!
ナユタさんは……まあさすがに醤油ラーメン食べてるな。
「しかしナユタさんよくこんな店知ってましたね。結構来るんですか?」
「私は初めてですけど、さっきのスタジオは割とよくお世話になってますから。スタッフさんと雑談してる時など周辺情報を聞いておくんです」
「あー、なるほど。それで知ってたんですか」
「はい。でも、初めて来ましたけど、本当に美味しいですね」
「ホントですよ。俺通っちゃおうかなあ」
「確かに通いたくなりますね」
ラーメンデート……という雰囲気にならないのはまあ当然だけど、タカハシ氏との会食は秒で嘘ついて断ったナユタさんがこうして昼飯を同席してくれることに、俺はちょっとだけ安堵した。




