第十四幕:牡丹色の羞恥
「おはようございます。今日も早起きですね♪」
早朝ランニングに向かったミオを玄関で見送って、事務所の壁かけ時計に目を向けたところで、背後から明るく弾んだ声がした。
…いやもう振り返らなくても誰だか分かるし。
なんでそう毎日早出するかなあ、この人は。
「一応言っときますけど、ナユタさんの出社定刻って7時ですからね?」
「もちろん分かってますよ。でも、起きちゃったんで♪」
いやそんな満面の笑みで言われても。
まあ、こないだお邪魔した時の印象だと、家にいてもする事ないのかも知れんけどさ。公官庁のお役人は社畜だってよく聞いてたけど、ナユタさんちょっと典型的じゃないか?
…兄さん、分かってないの?
--分かんないよね鈍感だから。
「今日は特に前日リハだから、会場入りは9時だし、早出してもする事ないでしょう?」
「まあ、そうなんですけど、その、出社したらしたでする仕事はありますから……」
…ほらナユタさん赤怒出してるよ?
視ないフリしてんだよ。
「……まあ、来ちゃったものを追い返すわけにもいきませんけどね。時間まで、ひとまずゆっくりしてて下さいよ」
「はい、リハの引率は桝田さんにお任せしますので。私は事務所でのんびりさせてもらいますね♪」
そういう事言ってんじゃないんだけどなあ。
まあ、いいや、もう。
「じゃ、俺は一旦上に戻りますんで。あとミオが朝のトレーニング行ってますから」
「はい、了解しました。今日も1日頑張りましょうね!」
リビングに戻ると、レイが起きてきていた。彼女は俺を見つけると、何か落ち着かない様子で駆け寄ってくる。
「おはようレイ。なんかあった?」
「あっ、あの、マスター。私、一昨日の夜……何か言ってなかったかしら……?」
…ああ、レッスン場で寝落ちしたアレを気にしてるんだ。
「いや?別になんもなかったぞ。ただレイが可愛かっただけだから気にすんな」
「か、かわ……!?わ、私、その、あの夜のことほとんど憶えてないの。マスターお願い、何があったか教えてくれない?」
「大丈夫だって気にすんな。ちょっと幼児化して風呂入らないだのレッスン場で寝るだの駄々こねてただけだから。心配すんな」
途端にレイの頬が赤く染まり、彼女の全身から立ち上る牡丹色。これはよく見る色、“羞恥”の色だ。
まあ、常に美しくあろうと心掛けてる彼女にとっては、幼児化して駄々こねるとか恥ずべき醜態なんだろうな。
「そ、そんな……私、そんなことを……」
「お姫様抱っこで連れ帰る間もすやすや眠って大人しかったし、そのまま抱きついてきたりして、とにかくひたすら可愛かったな」
「お姫様抱っこ……私が、マスターに!?」
ますます真っ赤になってゆくレイ。
男性に甘えるのが恥ずかしいってあたり、普段大人びててもやっぱりまだまだ大人になりきれてないところがあるのかもな。
--ほーらやっぱり気付いてない。
兄貴ほんと、そのうち刺されるよ?
「あ、あの、マスター……忘れて!一昨日のこと全部忘れて!お願いだから!」
「無茶言うなよ。あれだけ強烈に可愛かったのを忘れられる訳ないだろ」
「そこを何とか!ねえ!じゃないと私、恥ずかしくって死にそうよ……!」
「大丈夫だって気にすんな。レイさえ気にしなきゃもう誰も気にしてなんかねえからさ」
「う、嘘よそんなの!だってマスター、今だってそんなにニヤニヤしてるのに!」
あ、やべ。顔に出てたか。
まあでも、本当に可愛かったしな。
「……と言われてもなあ。全員見てたことだから、俺だけが忘れても意味ないと思うぞ?」
「私は!マスターに忘れて欲しいの!」
「まあまあ。ぼちぼちみんな起きてくる時間だし、あんまり騒ぐと聞かれちゃうぜ?」
「……!そ、それはそうだけど……」
「レイにとって恥ずかしかったのは充分解ったから、もうその話はお互い人前でしないようにしような。言わなきゃそのうちみんな忘れるだろ」
「…………だったら、いいのだけど……」
…まあ、レイも含めて全員忘れないと思うけどね。
--ほとぼり冷めた頃にライブMCで誰か言いそうだよね。
上の階からドアの開閉音が聞こえてくる。そろそろ誰か降りてくるな。
時刻はぼちぼち7時だ。
「ほら、もう誰か降りてくるぞ。この話はおしまいな」
「……ホントに、お願いね?」
「分かった分かった」
「おはようございます。⸺レイさん、朝からマスターとふたりっきりで何話してたんです?」
「お、おはようサキ。な、何でもないわ」
何でもないって、真っ赤のままの顔で全部バレバレだけどね、レイ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ミオも戻ってきて軽く汗を流し、全員揃ったところで朝食を取る。今朝の当番はサキだ。
トーストにジャムがストロベリー、ブルーベリー、マーマレードの中からお好みで。海鮮サラダにドレッシングは胡麻、青じそ、サワーをお好みで。あと目玉焼きも添えてある。ドリンクはオレンジジュース。
そのほかに簡単なサンドイッチが数種類。これは余ったらリハの会場にも持って行くつもりのようだ。
サキはこういった手軽に作れてすぐ食べられる軽食系の料理が得意みたいで、朝食を担当する事が比較的多い。まあ正直、俺には若干足らないけど、そこは女の子たち向けの朝食なんだから仕方ないか。
レイはレッスン場でのことをまだ少し気にしているようだったけど、ひとまず平静を装うことにしたようだ。でも今日はそんな事より、前日リハの方を気にして欲しいところ。
朝食を終えて、リビングでユウのお茶を楽しみながら少し時間を潰す。準備を整え、8時少し前に全員で事務所に降りると事務所のスタッフはもう全員揃っていて、所長もナユタさんと一緒に事務所に出てきていた。
「揃ったか。今日はいよいよライブ会場での前日リハだ。皆、準備はしっかり出来ているね?」
「はい、大丈夫です。練習もしっかりやれましたし、私達はもうほとんど仕上がっています。心配ありません」
「あとやっていないのは、実際に衣装を着ての通し練習ぐらいかしら。まあそれはリハでのお楽しみに取っておいたのだから、今日やれるわね」
Muse!は贅沢なことに、リハで実際に衣装を着て通し練習をする。スタッフ以外誰もいない会場で、本番でも着用する衣装を着て、MCを除いてプログラム通りに頭から終わりまで全部やってしまうのだ。
もちろん、その際に着た衣装は着崩れしたり汗が染みたりして本番では使えないので、衣装はリハ用と本番用に2着用意される。本番で二度以上着るのであれば3着以上用意される事もある。
いくら戦闘用ギミックをカットしたレプリカ衣装とはいえ、普通のアイドル衣装と考えても結構な予算を使うはず。さすがに政府がバックアップに付いているだけのことはあるが、余所の事務所が聞いたら絶対羨ましがるに違いない。
「どうしたレイ、気になる事でもあるのか?何か考え事をしているように見えるが」
「……えっ?い、いえ、何でもないわ所長。大丈夫よ」
…さすが所長。相変わらず鋭いなあ。
「今日は、向こうには9時入りでしたよね」
「ああ。だが9時にステージ入りだ。楽屋での準備も考えると、もう出発すべきだろうな」
「そうですね、あんまりのんびりする余裕はないと思います。移動は俺のワンボックスではなくてマイクロバスの方でしたよね?」
「ああ。君たちだけでなく、一部のスタッフも会場でのサポートとして同行するからな。マイクロバスは既にガレージで準備が整っている。皆も用意が整っているのなら早速出発してくれ」
「了解!」
事務所からガレージに移動し、めいめい、会場に持ち込む私物や道具類を抱えてマイクロバスに乗り込む。
俺やナユタさん、それに事務所から同行するスタッフが一緒に乗り込む。
「…………ん?ナユタさん、今日は事務所でのんびりとか言ってませんでしたっけ?」
「それが……所長に同行しろと言われまして……」
--って言いながら、満更でもなさそうだよねナユタさん。
「そうなんですか。まあいいですけど」
今日は事務所もリハーサル体制で、芸能の仕事も入ってないしね。
「じゃあ、よろしくお願いします」
全員乗り込んだのを確認してから運転役のスタッフに声をかける。
そうして、マイクロバスは朝の街に走り出した。
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次回更新は10日です。




