内緒で同僚と同棲している俺が、テレワークを始めたら
朝8時。
スマホのアラーム音で、俺・真島貴俊は目を覚ます。
季節は冬。今朝の気温は1℃前後みたいで、暖かい羽毛布団から出たくないという願望が先行してしまう。
しかし今日は木曜日。言うまでもなく、平日だ。
俺の仕事はカレンダー通りであり、かつ有休を取得しているわけでもないので、今日も今日とて働かなくていけない。
欲望に負けてはならない。それ故に、義務なのである。
惰眠を貪りたい気持ちをグッと堪えて、俺は上半身を起こす。
そして左下に視線を向けると……俺の隣では、恋人の天野あずみがスヤスヤと気持ち良さそうに眠っていた。
……この野郎、幸せそうな顔で眠りやがって。
あまりに寒すぎる為、俺は心の中でつい彼女に八つ当たりしてしまう。
……って、いかんいかん。彼氏たるもの、もっと大きな心でいなければ。
思い直した俺は、依然夢の中のあずみに優しく声をかけた。
「あずみ、そろそろ起きた方が良いぞ」
「ん〜? もう貴俊を食べられないよ〜」
何つーベタな夢を……って、一体何を食べるって!? あずみは朝からとんでもないことを口走っていた。
その後も何度か声をかけてみたのだが、一向にあずみに起きる気配はない。
反応はあるものの、どうやら現実と夢が混同してしまっているらしく、彼女はわけのわからないことばかり言っていた。
……あずみのやつ、どんだけど偉い(どエロいとも言える)夢を見てるんだよ?
夢は欲求に起因すると言うし、俺は恋人の精神状態に若干の不安を覚えた。
休日ならばこのまま寝かせておいても良いのだが、残念なことに平日はそうも言っていられない。
俺は仕方なく、ちょっと強めにあずみを起こすことにした。
「おい、早く起きろ。仕事に間に合わなくなるぞ」
ペシンとあずみの額を引っ叩くと、彼女は「痛っ!」と言いながら、ようやく目を覚ます。
目覚めた直後のあずみは、叩かれた額を押さえながら、キョトンとしていた。
「えっ? 何で私は叩かれたの? もしかして、DV?」
「そんなわけあるか。声をかけても起きないだろうがよ。……それより、時計を見た方が良いぞ? すっぴんで仕事するつもりか?」
「時計? ……って、うわっ! どうしてこんな時間になるまで起こしてくれなかったの!?」
「だから、ずっと起こしてたって言ってるじゃねーか」
理不尽な文句を俺に浴びせてから、あずみは慌ててメイクをしに洗面所に向かう。
化粧をしない俺は、その間に朝食の用意をしていた。
朝ご飯を食卓に並べ終えると、丁度あずみもメイクを終えて、リビングにやって来る。
『いただきます』
朝ご飯を食べていると、あずみが尋ねてきた。
「私は今日テレワークなんだけど、貴俊も?」
「あぁ。ていうかもし出社日だったら、こんなにゆっくり飯を食べられないだろ?」
始業時間が9時であるのに対して、現在の時刻は8時20分。自宅から会社まで50分は時間を要するから、仮に朝食を抜いて猛ダッシュしたとしても遅刻確定だ。
俺と同じ職場に勤めているあずみは、当然そのことを把握している筈だった。
「だよね〜。……因みに貴俊は、どこで仕事をするつもり?」
「可能なら、リビングを借りたい。今日はリモートで会議があるからな」
「オッケー。私は資料を作るだけだから、寝室を使うよ」
「……寝るんじゃないぞ?」
テレワークも、立派な仕事だ。誰も見ていないからと言って、サボりは許されない。
「……善処します」
それは善処しない奴のセリフだ。
どうせ睡魔に負けるだろうから、時折寝室を覗いて、もし寝ていたから起こしてやるとするか。
朝食を済ませ、(リモート会議なので)スーツに着替えると、始業の時間がやってくる。
パソコンの画面には、課長を始めとする会議の出席者たちの顔が映し出されていた。
「おはようございます、課長」
『おはよう、真島くん。……時間になったことだし、早速会議を始めようか。今日の議題だが――』
会議は滞りなく進行していく。
予定では午後1時までとなっているけど、この分だと正午には終わりそうだな。
俺がそう思いながら議事録をまとめていると、勢いよくリビングのドアが開いた。
「ねぇ、貴俊! パソコンの調子がおかしいんだけど!?」
パソコンを持ちながら、リビングの中に入って来るあずみ。これは、非常にマズい!
「バカ! 入ってくるな!」
俺は慌てて、あずみを制止する。彼女の姿を俺のパソコンのカメラに映さない為だ。
どうしてそんなことをする必要があるのかって? なぜなら、俺とあずみが同棲していることはおろか、交際していることを会社の人間は知らないからだ。
あずみは社内の人気者だ。可愛いし、スタイルが良いし、仕事も出来るし。独身男性社員ならば、彼女に一度は心を奪われているに違いない。
そんなあずみと付き合っているだなんて知られてみろ。嫉妬した男性社員からどんな目に遭わされるのか、想像も出来ない。いや、恐ろしすぎて想像すらしたくない。
バレてはならないことは、あずみを理解している。
「ヤバっ!」と一言声を漏らすと、慌ててリビングから出て行った。
たかが一瞬、されど一瞬。もしかして、課長たちにあずみを目撃されてしまったか!?
俺の鼓動が早くなる。果たして、課長たちの反応はというと――
『なんだ、真島くん。彼女と同棲していたのか』
――どうやら俺の部屋にいる女の姿は見ても、それがあずみだとは気付いていないようだ。
……良かった。なんとか最悪の自体は免れた。
同棲していること自体は隠しているわけじゃない。否定して下手に追及されるのも嫌だったので、同棲については素直に認めることにした。
昼休みを利用して、あずみのパソコンを直す。
あずみは部屋に乱入したことへの謝罪と、パソコンを修理したことへの感謝を口にする。
念の為午後は定時を過ぎるまで、彼女が俺に話しかけることはなかった。
◇
翌日。俺は昨日とは異なり、7時に起床していた。今日は出社日なのだ。
対してあずみは今日もテレワーク。未だに気持ち良さそうに寝ている。
起こすのも悪いので、俺はそーっとベッドから出る。
彼女の分の朝食も用意し、「いってきます」と書き置きを残してから、会社へ向かうのだった。
会社に着くと、俺同様出社日だった同期が声をかけてきた。
「おはよう、真島」
「おーっす」
挨拶しながら、俺は大あくびをする。
テレワークの日は、あと一時間は寝ていられるからな。通勤があるとないとの差は、意外と大きい。
「なんだか眠たそうだね。昨夜は同棲している彼女とお楽しみだったのかな?」
「……違えよ」
同期も昨日のリモート会議に出席している。
それ故同棲のことを認知しており、早速そのネタで俺を揶揄ってきた。
「でもまさか真島に彼女がいるなんてね。それなら教えてくれたって良かったじゃないか。僕たち同期だろ?」
「こっちにも色々事情があるんだよ。自首するつもりは毛頭なかったんだ」
「自首って……犯罪者じゃあるまいし」
確かに法的な罪は犯していない。
しかし圧倒的な人気を誇る女性社員と付き合っている俺は、男性社員にとって大罪人も同然てはないだろうか?
「それより、天野さんの寝顔って可愛いの?」
「どうしてそんなことお前に教えなきゃならないんだよ。……あっ」
答えると同時に同期の顔を見ると、彼はしてやったりという表情をしていた。
その瞬間、俺は気が付く。……どうやらまんまと罠にハマってしまったようだ。
「カメラに映ったのは一瞬だったから、確証はなかったけどね」
「カマをかけたってことか」
「そういうこと」
たかが一瞬、されど一瞬。その言葉が、再び俺の脳裏をよぎる。
その一瞬でも、彼女=あずみだとわかってしまうみたいだ。
そうなると、同期以外にも昨日カメラに映り込んだのがあずみだと気付いた人間がいるかもしれない。そしてその人物が周囲に話そうものなら、社内全体に一気に広まってしまう。
ついさっきまでの安堵はどこへやら。俺の中の焦りが、秒ごとに膨れ上がっていく。
「まぁでも、僕以外に気付いた人はいないと思うけどね」
「……本当か?」
「多分。僕の場合、元々真島と天野さんの仲を疑っていたから、わかったわけだし」
「……俺、そんなにわかりやすかった?」
「いいや。わかりやすかったのは、天野さんの方だね。彼女結構な頻度で真島を見ていたし、真島にだけやけにボディータッチが多いし」
「……よく見てるな」
「そりゃあ、まぁ……察してくれよ」
どこか寂しさを含ませながら、同期は苦笑いをする。
……そうか。お前もあずみのことが好きだったのか。
「天野さんの気持ちを知った段階で、きっぱり諦めたけどね。因みに今は行きつけの飲み屋の店員を絶賛口説き中。彼女も天野さんに負けず劣らず美人なんだ」
そう言って、同期は飲み屋の店員の写真を見せてくる。……いや、あずみの方が可愛いだろ?
「同棲までしているってことは、天野さんとの結婚も視野に入れているってことだよね?」
「まぁな。あずみ曰く、30までには結婚したいらしい」
「へぇ。あずみ、ねぇ」
「……何だよ」
「別に〜」
バレた以上、今更「天野」呼びする必要もないだろう。家と会社での使い分けも、案外面倒なのだ。
「30歳って言ったら、猶予はあと2年しか残されていないじゃないか」
「……あずみは26だから、あと4年だ」
「真島、それは屁理屈でも何でもない。ただのヘタレだから」
「うっ」
あずみは30歳までに結婚したいと言っているだけで、30歳丁度で結婚したいとは一言も言っていない。早ければ早いだけ嬉しい筈だ。
あずみと一緒に生活していて、不満を抱いたことはない。……とは言えないけれど、抱いた不満はそれ以上の幸せによって上書きされてしまう。
彼女と結婚して失敗するビジョンは、想像出来なかった。
だから、あとは俺の気持ち次第で。
当然あずみも、俺のプロポーズを今か今かと待っていることだろう。最近やけに結婚情報誌を買ってくるし、婚姻届を書く練習とかしているし。
「それに結婚を考えているのなら、早かれ遅かれ真島たちの関係はバレるわけだ。いつまでも隠し通せるものじゃないし、それに……天野さんは隠したいと思っているのかな?」
「それは……」
付き合っていることを隠したいというのはあくまで俺の事情である。あずみは了承してくれたけど、納得してくれているのかどうかまではわからなかった。
というか、聞いたことがない。
同期にバレたというのも、何かのきっかけだ。この機に、あずみとの関係や将来についてしっかり考えてみることにしよう。
◇
「ただいまー」
俺が帰宅すると、エプロン姿のあずみが出迎えてくれた。
「おかえりなさい」
「お前、その格好どうしたんだよ?」
「今日は私だけテレワークだったし、たまには夜ご飯でも作ろうと思って。どう? お嫁さんみたいでしょ?」
あずみの発した「お嫁さん」という単語に、俺はドキッとなる。
多分深い意味はないんだろうけど……昼間同期とあんな話をした後だったので、妙に心にきた。
「似合ってるよ」
「可愛い?」
「あぁ、可愛い可愛い」
褒めたというのに、あずみはどこか不満そうだった。
「可愛い」と言われて、一体何が不満なのだろうか?
「……貴俊、どうかしたの? なんだか変だよ?」
「……そうか?」
「隠したって無駄。私は貴俊のことが大好きで、だから貴俊のことなら何でもわかっちゃうんの」
理屈じゃないけれど、納得するには十分すぎる回答だ。
だって俺も、あずみの異変はすぐに察せるだろうから。
「実は今日、同期に言われたんだ。お前との関係を、いつまで隠しておくつもりなんだって」
「それは……貴俊が隠しておきたいうちは、それで良いんじゃないの?」
「そう言ってくれて、本当に助かってる。でも……お前自身は、どう思っているんだ? これからも隠し続けたいと思っているのか?」
「それは……」
あずみはエプロンの裾をクシャッと掴む。
暫く考えた後、意を決したように口を開いた。
「本当は、今すぐにでも「貴俊と付き合ってる」って言いたい」
「……どうして?」
「貴俊のこと好きな女の子が、意外といるって知ってた? 新人の子も、最近まで狙っていたし」
「そうなのか?」
「うん。だから給湯室に呼び出して「手ェ出すな」って脅しておいた」
「そうなのか!?」
お前、俺の知らないところでそんなことしてたのかよ!?
「貴俊は私のものなのに、みんなそれを知らないから、貴俊に色目を使う。無駄に近づいたり、飲みに誘ったりしている。……身に覚えない?」
「……そういえば」
先週も後輩に、飲みに誘われたっけ? ついて行ったらまさかのサシ飲みで驚いた。
「だからその、社内でも私を「あずみ」って呼んでくれたら、嬉しいです」
初めて聞いた、あずみの本音。
積まれていく結婚情報誌や婚姻届を書く練習は、他の人に俺を取られるんじゃないかという不安からきていたのかもしれない。
あずみの不安の原因は、彼女の嫉妬心が原因じゃない。勿論他の女の子の恋心だって、違う。
ひとえに俺がヘタレであるせいだ。
「俺のわがままに付き合わせて悪かったな。そのせいで不安にさせたことも謝る。その罪滅ぼしじゃないけどさ……もう二度とお前を「天野」って呼ばないと誓うよ」
「……それって、プロポーズ?」
「いいや。プロポーズはもうちょっと待っていてくれ。お前が歓喜の涙を流すくらい最高のプロポーズを、近いうちに必ずするから」
それから2ヶ月後、会社から「天野さん」はいなくなった。
それと同時に我が家から結婚情報誌と、下書きされた婚姻届もなくなったのだった。