第二十九話 手
舞闘場の周囲百メートルは神獣九頭竜の執拗な攻撃により全ての建物が破壊し尽くされていた。それを仕事としているモルフは勿論、ボランティアのモルフも含めて沢山の街人達が瓦礫を取り除き、怪我人を救出する作業を行っていた。ムーナの意見は霧街では珍しいものだったが、幾人かは彼女と同じ事を感じ、愚痴をこぼしていた。当然、自分の家族や家が被害にあったモルフ達は泣いて怒って、この災いの原因を誰かに紐付けようとしていた。不安や不満が街の其処此処に体積し始めていた。街のどこかで誰かと誰かが肩をぶつけ合いにらみ合う。すれ違った言葉が互いの心に傷を作り、深い蟠りの沼を滲ませていく――が、不穏を打ち払うように唐突に音が街を覆う。
どろどろどろどろ……。
廃墟となった街に、濁ったドラムの音が響き、瓦礫の隙間を埋め尽くしていった。八掌の“手”のリーダー、ゴリラゴリラモルフのゴーラの胸打だ。彼の胸打はそれを聞くものの心のゆがみを揺すってあるべき姿に戻す。優しいモルフは優しく、穏やかなモルフは穏やかにそして、猛々しいモルフは――あるがままに。それで全ての問題が解決するわけでは無いが、笑うにしても怒るにしても、そこに不本意は無く、皆納得して行動できた。始まりそうだった殴り合いが立ち消える一方で、取り繕った平和が崩壊することもあった。だが、それは全てあるべき姿であった。そうであれば、全ては受け入れるべきなのだ。
「さぁ!みんな!力を貸してくれ!強制などでは無い。出来る範囲で構わない。私達だけでは何も出来ないから!」
ゴリラゴリラモルフのゴーラは廃墟の中に仮設されている医療テントを見回りながら叫んだ。彼の声を聞いて去る街人もいれば、駆け寄る街人もいる。それで構わなかった。それを許容することで多様性は花開くのだ。それはきっと、枯れない花だ。
「ギリガン!無理するな!でも、目一杯頑張れ!」
美形マッチョの限界点と言われるゴーラは黒く美しい身体を広げて蛸モルフのギリガンに精一杯を伝える。蛸モルフのギリガンは半獣化状態で、治療の為に用意されたテントの下から振り返りもせずにゴーラに返す。ギリガンの外観はゴーラとは真逆で悪役にしか見えない。
「任せとかれ!わしの八本の腕と無数の吸盤がナンの為にあるかしっとるやろ?」
蛸モルフのギリガンは今から十年ほど前に霧街の海岸に打ち上げられた。それまで何処でどうして居たのかは誰も知らない。本人が語らないからだ。ギリガンの不思議な訛りは恐らく東方大陸の北東方地方のどこかに由来するはずだが――当然、誰もそれを追求しない。それはギリガンの問題だからだ。ギリガンは八つの腕を器用に動かし同時に複数人の怪我人を癒やしていく。彼の舞闘力は特別に高いものではないが、多くの怪我人を治す事に関しては、霧街で一番の力を発揮した。
真術 八掌!
霧街の医療を任される組織と同じ“式”を持つ彼の真術は重傷までの怪我を癒やすことが出来た。重体状態であったり、病は彼の練術の範疇では無かったが、今回の場合はそれで充分だった。だが、神獣九頭竜が齎した破壊は凄まじく中には重体となったモルフも居た。
「駄目や!ルトラさん!頼んますちゃ!」
その死にかけている、礼儀正しくスーツを着込んだボストンテリアモルフは問診では肋骨骨折と判断出来たが、骨折を治癒した後に容態が急変して意識を失ってしまった。ギリガンは自身の範疇に無いと判断して、全ての怪我と外因性の病を治すことの出来るタイガーモルフのルトラに引き渡した。
「はい。僕が診ます。」
ルトラはタイガーモルフでもあり、また体格も良かった為、とても舞闘に向いていた。事実、彼は気配を消す練術の無音や痛みを無視できる練術の無痛を駆使して、暁の階層で活躍している。
「あれだけの舞闘の才能を持ちながら、一度もチャンピオンになっていないのは、彼の能力不足ではない。肝心なのはその方向性だ。ルトラは舞闘に能力を向けていない。あくまで、癒やしや救済にその可能性を集中させている。彼は六角金剛には到達しない。だが、究極の癒やし――霧街を救うような――に到達するはずだ。だから、彼を八掌に迎えたい。」
ルトラを八掌に加える時の渦翁の言葉だ。渦翁のその言葉は一文字や黒丸に支持されてルトラは夢だった八掌の名を受ける事が出来た。勿論、まだ、霧街を救うような救済を齎すことは出来ていないが、それでも今、現在を持って言えば、八掌の役目を十二分に果たしていた。
真術 治癒掌。
半獣化状態のルトラはその名前も知らないボストンテリアモルフの脇腹に肉球を押し当てて最上の癒やしを行った。その意識の無い――恐らく内臓を深く損傷している――モルフはピクリと身体を痙攣させてから、深く息を継いで……寝息を立て始めた。ルトラの練術でそのモルフの何かが癒やされ、生死の境界線は固定され、彼は日常に戻ってきたのだ。ルトラはその様子を見ながら微笑む。しかし直ぐに気を引き締めて叫ぶ。
「さぁ!がんばろう!癒やし手も怪我人も皆で力を合わせて、この難局を乗り切ろう!大丈夫!僕たちなら出来るから!」
低く柔らかいルトラの声が、殺伐とし始めていた医療現場の空気をふわりと変えた。それを見ていた蛸モルフのギリガンが呟く。
「わし、好きやなぁ。ルトラさんのこと。きっと、えらいお医者さんになるやろうね。もうへとへとやけど、わしももう少しがんばらんなんね!」
せわしなく八本の腕の袖を腕まくりするギリガンを見ながら、ゴーラは確信した。
(ルトラの言うとおりだ。これ以上の犠牲者は出さない、俺たちならやれる。)
多くの国が滅び、漂泊者達が世界をかき混ぜなくなって、様々な対立が失われた結果、大きな争いは発生しなくなっていた。舞闘場の機能不全でいくつかの事故が起こったが、久しく今回のような多数の死者が出ることは無かった。ゴーラはギリガンに声をかける。振り返り、ゴーラを見上げるギリガンはその巨大さとたくましさにゴーラが廃墟を背負っているかのような錯覚に陥った。
「ギリガン。疲れたか。気合いを入れてやろう!」
ギリガンはぎょっとして、丁重に断ろうとしたが、間に合わず……というかそもそもゴーラはギリガンの意思に関係なく、気合いを入れるつもりだったので……ゴーラの巨大な拳の一撃をその背中に受けた。
どすん!
と、重い打撃音が響いて、蛸モルフのギリガンは吹き飛ばされて壁に激突して、再び元の位置に戻った。身体が潰れてしまうくらいの打撃を受けたギリガンはしかし、体中の疲れが吹き飛んで、気力が満ちるのを感じた。
「ゴーラさん、お陰で完全復活ですわ。しかし、この痛ったいのだけは慣れんですわ。何とかならんもんですかね。」
ゴーラは豪快に笑った。
「俺の真術、拳そういう“験”だ。許せ、効果は折り紙付きだ。」
ギリガンの助手をしているモルモットモルフ達は彼等八掌のやりとりを好意的に聞いていたが、どうやらゴーラは次の拳のターゲットを探しているらしいと気づき、そそくさと別の場所での業務を求めてその場を去っていった。それに気づいたゴーラは気を悪くするでも無く、平然と発する。
「さぁ!次は何奴だ?誰でもいいぞ、気合いが欲しい奴は居ないか!」
沢山の不幸がこの街を駆け抜けていった。それでも希望を捨てないヒトの元には、まだ輝く――それが何であるのかは誰も判らないが――何かが残っていた。
そう。それは、確かに。




