第十八話 反掌《ドゥーム》
暫くは、悪く無かった。
体調を維持して、粉薬を節約することが出来たし、完全食も余り使わずに狩りをして食いつないでいられた。だが、荒れ地に入ってから数日で冷たい秋雨が振り出し、クウは体調を崩した。急激に悪化する体調に気付いたクウは慌てて粉薬を飲み始めたが、遅かった。熱が出てお腹を下し、血を吐いた。まだエズの辺境だ。世界の謎にはほど遠い、多分。彼の旅路は起伏の激しい枯れた荒れ地が続いていた。窪地の水溜まりに曇り空が映る。水溜まりに空が映っているのか。水たまりの中に空があるのか。
どちらが正でどちらが、誤?
現実と妄想の隙間でクウは漂い、荒れ地を進み続けた。クウは体力の限界を悟り、無数にある窪地の一つを選んでテントを張った。安定した場所で休み、少し体調が戻るまでは、動かない方が良いと判断したのだ。
――それから、昼となく夜となく眠り続けるクウは突然、脇腹に痛みを感じて、目を覚ました。見ると“人喰い地竜”がクウの脇腹に頭を突っ込んでいた。太さ三センチ程の巨大なミミズだ。クウ悲鳴を上げ、激痛と闘いながら、“人喰い地竜”を腹から引き抜いた。血がごぼりと零れる。ナイフでその人喰いミミズを引き裂いてから脇腹の治療をした。ただでさえ弱っていたクウは今の怪我で顔面蒼白となっていた。クウはテントをたたみ始める。“人喰いミミズ”は巣を作り群をなして生きている。一匹でも見かけたらその場を離れる必要があるのだ。だからテントの裏からぼろぼろと“人喰い地竜”があふれ出す事を認めたクウは決断して、全てを捨て置いて先に進むことにした。でも、病に冒され傷を負ったクウは上手く逃げられない。継ぎ接ぎの金剛錫を杖代わりにして何とか移動する。
しかし、巨大な人喰いミミズは飛び跳ねながら、クウを追う。何匹かはクウに追いつき彼の柔らかい肉に頭部をのめり込ませる。皮膚を食いちぎられる度にクウは地竜を引き剥がし、踏み潰した。クウは幼生の頃から舞闘が得意で、十匹程度の人喰い地竜などは敵では無かった。順番に潰していけば良い。だがそれが二十匹ではどうだろうか?まぁ、倒れることは無い。でも多少の傷は負うだろう。で?五十匹では?百匹ではどうだろう。クウは焦る。
千はいる……。
窪地を進みながらクウは絶望した。気が付けばそこは生命の無い世界。見渡す限り動物はいない。ただ窪地とそれが抱える水溜まりだけが拡がり、その上を地竜が飛び跳ねている。クウの周囲を取り囲む人食い地竜から、彼までの距離僅か五メートル。クウは決断する。
(跳ぶしかない。)
ミミズの群が何処まで続くのか判らないが、精一杯の距離を飛び越えて着地地点のミミズを踏み潰し、次の跳躍へと繋げていくしかない。上手く行けば一回二回のチャレンジで終わるだろう。でも、駄目だったら?ミミズの群が一キロ続いたら?それでもクウの判断は変わらなかった。
(跳ぶしかないんだ。)
クウは走り出し、加速して跳び上がったが捕まった。地竜、ではなく、痩せた骨のような右腕に胸倉を掴まれた。灰色のローブを纏った痩せたモルフだ。いや……ファンブル?……いや、髑髏?
「落ち着け。何処まで飛んでも無駄だ。」
低い声で断定するそれは、死神さながらの風貌でクウの決意を粉砕した。それの枯れた右腕にクウは跳躍を阻まれ、窪地に引きずり落とされた。それは、覆い被さるようにクウの顔をのぞき込んだ。双眸が深い深い穴となり、計り知れない苦痛を湛えていた。ふと、働き者のナマケモノモルフのナン先生の授業が思い出された。
……開闢が現れると供に、歩む者や漂泊者は姿をくらまし、代わりに、失敗作が生まれるようになり、世界を謳歌していた神獣は世界の影に隠れました。そして、貪食者と黒い嵐と髑髏。それらが疫病のように世界にはびこり、モルフ達の国を滅ぼしました。最初に貪食者が現れ、モルフを絶望に引きずり込み、次に黒い嵐がモルフを地獄に堕とす。最後に髑髏が……死神かも知れません……が現れ世界が死んでいることを確認するのです。そうやって少しずつ世界は死んでいきました。今ではこの水紋の……
「少し浮いてろ。」
その髑髏はクウを空に放り投げた。高く投げ出されたクウは、中空で身体を捻り体勢を整えて髑髏を見やった。大地を見下ろした。その、瞬間。灰色の髑髏は掌底を窪地に隆起している岩に打ち込んだ。
「反掌。」
大地が震え、全ての人喰い地竜は破裂して死んだ。一瞬で周囲は悪臭に包まれ、血の虹がかかった。窪地を覆う霧が赤い。灰色のモルフはゆっくりと立ち上がり、落ちてきたクウを受け止めた。フードを下ろす。それは一切の体毛を持たない髑髏のファンブルだった。体中のあちこちが死にかけていて、しかも生まれ変わっていた。腐り果てて肉が大地に落ちるが、その直ぐ側で骨が再生し筋肉が盛り上がる。しかし、それもまだ腐り落ちる。その髑髏の身体では生と死が恐るべき早さで繰り返され、過ぎ去っていった。初めて見るその本当の地獄に、クウは息をすることさえ忘れ、取り込まれていった。混乱するクウを髑髏は見つめる。その虚ろの眼窩の奥で光る銀色の瞳が何かを憂いていた。クウはその諦観に支配された瞳を見つめながら、意識を失っていった。
……一体、誰が?なにヲ……。
消えていく意識の端でクウは、今の騒ぎで目覚めた敵対種が窪地の穴から次々と現れるのを見た。




