第七話 彼らの恋 4
霧街の評議会では、水紋の国の法律に基づき、様々な政令、規定を作っていた。その中にファンブルに関する規定……第九十八号規定……があった。ファンブルは住む場所や仕事等、沢山の制限があり、成体とは違い本当の自由は無かった。これはファンブルが発生する理由が不明であることから、病のように伝染する可能性を考慮して、成体とファンブルを区別するための政令だ。どの都市でも似たような政令があった。明確な差別であったが施政者たちは全て成体である為、誰もこの規定を正そうとしなかった。ファンブルが伝染すると考える積極的な根拠は無かったにも関わらず、第九十八号規定は存続し続けた。ハクは今、霧宮の鳥居の下で蹲っていた。ちょうど日は暮れようとしていた。愛らしいワンピースや艶やかな体毛とは裏腹で彼女の心は沈みきっていた。ハクは第九十八号規定が変われば霧街と裏町はもっと上手くやって行けると考えていた。彼女は先月、霧城の大改修を行うためのプロジェクトの総責任者として抜擢された。恐らくこのプロジェクトがうまくいけば、もっと重要なプロジェクトを任されるはずだ。協議会の最重要業務は当然、政令の制定だ。もし、何もかもがうまくいって、フラウに認められて、政令の制改正に関わることが出来たとして、第九十八号規定を改廃できることになったとして……霧街と裏町はうまくやっていけるのだろうか?本当にそうだろうか?裏町は霧街と仲良くしたいのだろうか?例え差別があったとしても、静かに暮らせればそれで良いと考えているのではないだろうか?あさつゆの言葉がハクの胸に刺さり、抜けない。喧嘩した日からハクは毎日クウに会いに行っていた。でも、ハクは積み重ねられたあさつゆの言葉に挫けて、最近は顔を出していない。ハクは何が正しいのかわからなかった。クウはどう思っているのだろうか?
「元気無いな。」
ハクは声が掛かるまで、ロイが傍に来ていた事に気付かなかった。ハクは更に心が沈むのを感じた。ハクはどこかでクウがファンブルしたのはロイのせいだと考えていた。あの時、ロイが輪廻転回を迎えなければ、私やクウは輪廻転回を行うことは無かった。あの輪廻転回は1年早く、だからクウはファンブルしたのではないか、とどうしても考えてしまうのだ。喧嘩はこれまで沢山してきて、お互いに怪我をさせられたことは数え切れない。この間の喧嘩もその一つと考えられれば良かったのだが、ハクはロイを許せなかった。首切りの目撃を黙っていたのは確かに問題だったが、だけど、それでもハクはロイを許せなかった。ハクはロイの顔を盗み見る。疲れ切った顔をしている。
「ロイも酷い顔してるよ。」
ロイは苦笑いした。ハクは感じていた。あの日の喧嘩は、幼生だった頃の喧嘩とは何かが違っていた。背景にあるものが複雑になりすぎたんだろうか?それとも成体になって自分達がややこしくなったんだろうか?わからない。でも、ハクはロイを許せずにいて……そして、その気持ちをロイに伝えられなかった。今までであれば、面と向かって何でもいえたのに。
どうしちゃったんだろう?あたし。
ロイはハクの正面にあぐらをかいて座った。大きな身体は金属質の光に覆われていて、消えていく夕日を僅かに拾った。いつも通り真面目な顔をしている。唐突にロイは言った。
「首切りの事を黙っていたクウの事がどうしても許せないんだ。もっと早く言ってくれれば助かった命もあったはずだ。」
ハクは何も言わない。ロイは叫び出したい気持ちを抑えて、続ける。
「でっ、でも……本当は違うんだ。犠牲者達を思うから、クウを許せないんじゃない。自分の苦しみが終わらないから、許せないんだ。もっと早く言ってくれたら、こんなに苦しまずに済んだのにって。情けないよ。俺は父の後を継いで、この街の施政者になりたい。でも、俺は駄目だ。こんなに弱く小さい。親父に大怪我負わせた癖に……全然駄目だ。」
ハクは目を見開いた。苦悩に沈むロイの顔を見る。幼生の頃を思い出せない位に彼は変わった。見た目も、心も。ただ、ただ幼生を駆け抜けて大人になりたかっただけの、少年はいなかった。世界の広さを知ったちっぽけなモルフが一人いるだけだった。彼は虚ろな目で、自身の心を覗き込んでいる。ハクは泣きそうだった。輪廻転回を早めたロイを恨んでいた。無力で子供だったロイを。でも今は違った。子供だったのは自分だ。ロイは向き合っていた。自分の心と。ハクは泣きそうだった。あたしは、どうなの?逃げている。逃げているだけだ。何から?わかってる。気持ちから逃げているんだ。誰の?勿論、
「あたし、あたし、クウの事が好きなの。大好き。あさつゆの事が嫌いなの!いつもクウと一緒にいるから。あたしの苦痛の全てはたったそれだけなの。霧街と裏町なんて関係ないの!評議会なんてどうでもいいの!あたし……クウが、好きなの。」
「知ってる。」
ハクの涙を見てロイも泣いた。
……俺だってキミのことが好きなんだよ?
それは言えなかった。涙と鼻水を垂らすハクはそれでも愛らしかった。緩やかな身体のラインを艶やかな体毛が覆い、夜影を映していた。ロイは知っていた。彼女の気持ちを。クウに苛つく原因を。ハクの涙に同調する振りをして、ロイは泣いた。二人でわんわん泣いた。彼らは自分達がどれだけ子供であるか思い知らされた。彼女らはどれだけ自分勝手であるか痛感した。でも、どうしようも無くて、泣いた。座って向き合って。やがて泣き疲れた二人は、どちらとも無く……笑い始める。けらけら、あはは。今度は笑い泣きして。日は沈んでお互いの顔ははっきりとは見えない。
「あー。お腹痛い。」
「だな。ちょっと笑いすぎた。」
「ねぇ。」
「何だ?」
「どう思うかな?」
「クウか?」
「うん。」
沈黙。ハクが続けた。
「クウならどうするかな?何を思って、何をするかな?」
二人の視線が始まったばかりの夜闇の中でぶつかる。ロイはゆっくり立ち上がった。取り敢えず自身の恋については脇に置くことにした。悲恋を抱えた多くの少年達と同じように。そして、もう一つの問題に立ち向かう。
「俺、首切りを捕まえるよ。それしか無い。」
ロイは確信した。助けられなかったモルフの悲鳴に怯えていても仕方が無い。残念だが、全ては過ぎたのだ。彼等は帰らない。死者の悲鳴が恐ろしいなら、胸に刺さる苦痛があるのなら立ち向かう必要があるのだ。唯一それが答えとなるのだ。
「セアカを捕まえる。六角金剛達が何と言おうとも。セアカを探し出して決着させる。」
立ち上がったロイはとても背が高く、座ったままのハクからは顔を見ることが出来なかった。が、でも、それでもハクはロイが笑っていることを知っていた。そう、あたし達はいつまでもあたし達なのだから。




