最終話 天恵。
誰かに呼ばれた気がして彼はゆっくりと眼を開いた。空はとても良く晴れていた。ここがとても高い場所だからかもしれない。空気がとても澄んでいて何もかもが清浄で明確だった。怪しい物は何一つ無く、完全にクリアだった。輝く雲がゆらりゆらりと流れていく。彼の目の前には大きく美しい女性が立っていた。雲は微笑み合う彼と彼女の上に影を落とし、光を落とした。
「全ては変わった。俺もお前も。勿論……世界も。俺たちは新しい命なのだ。さぁ、新しく始めよう。」
身長三メートルを越える長身の彼女は、熱を持ち触れる者を奮い立たせるような魂気を放っていた。赤く長い髪に、炎を宿した瞳。豊かな肢体を波打ち輝く襞のローブに包んでいた。背後には直視できないほどの威光が輝いている。胸には渦を巻く赤い鍵が燃えさかっていた。赤く柔らかい唇が、歌うような声で小さなモルフに告げる。
「では、俺は行く。」
「うん。またいつか!ニチリンさま!」
そのトカゲなのかヤモリなのか判らないモルフは快活に答えた。気取らないサロペットを身に纏った笑い顔のモルフは大きく手を振った。ニチリンは美しい顔全体で優しくにこやかに微笑んだ。
「クウも元気で。世界を救ってくれてありがとう。」
別れを告げた二人の間の大地に亀裂が入り、ニチリンは大地ごと、クウから遠ざかる。ニチリンの立つ大地はゆっくりと遠ざかり、二人の間の亀裂からは大空が見える。遙か眼窩には海原と、平原と樹海と山々。壮大な世界が拡がっている。ニチリンは大地と供に向きを変えてクウの前から去って行く。ニチリンは大地に立っていたのでは無かった。虹色に渦を巻く瞳を持つ巨大な鯨に乗っていた。クウは標高三千メートルを越えるリツザンの頂上にいた。澄んだ大気が大きく流れる。ニチリンの鯨――劫末――は、がばりと笑った。
(ありがとうクウ。世界を滅ぼしてくれて。ありがとう。全ては始まったのです。さぁ、私達は行きます。世界を育まなくてはいけないのです。クウ。餞別です。受け取ってください。)
「いや、なんか君のプレゼントには余り良い思い出が無くて……。」
クウの控えめな辞退を気にも留めず、劫末は最大限の餞別をクウに送る。劫末の頭部にある鼻腔から光が爆発する。彼女の瞳と同じ虹色の光が世界を覆うアーチとなって伸びて落ちていった。地平の向こうに、大海原に、平原に、大火山に。落ちた先で更に光は爆発して育ち根付いて、生まれ変わった世界を豊にしてゆく。世界が花と笑い声で満たされていく。そこでは多様性が爆発して命を謳歌している。全てが肯定され、何も否定されない。ニチリンと劫末は遠ざかる。見送りながら笑い顔のクウは、笑う。
「あははは。あはははははは!」
リツザンの頂上に立つ彼の背後遙か彼方から声が届く。
「早くいくよー!」
「だな。」
クウは振り返る。雲龍が滑るように空を渡ってくる。その背には、愛らしいハクの笑顔と厳ついロイの真面目顔が乗っている。クウは速度を落とさずすれ違う雲龍の背に飛び乗る。瞬間――ふと、クウは思う。
瞳を開く前の自分は本当に存在していたのかって。その記憶は本物なのかって。僕は今、生まれたんじゃないかって。
判らなかった。今生まれた気もするし、長い物語があった気もする。でも、どちらでも良いや、とクウは思った。雲龍は加速する。その思い切りの良い速度に彼等は笑う。三人の笑い声が晴天に響く。眼下は遙か三千メートル。広い広い世界が拡がっている。空は更に遥か高く抜けて。
……さぁ。物語が始まる。世界が呼んでいるんだ。
世界は滅んで、全ては無くなり、何もかもが新しく始まりました。世界の始まりと神様とヒトのお話は完結しました。凄く長い時間を一緒に過ごしたお話だったので、何だか寂しい気もします。
ここまで読んでくれて、本当にありがとう。
さて、次はなにを書こうかな。
2023/4/15 ゆうわ。




