第十二話 世界の終わり 1
水紋は空白に待避した。世界最悪の消しゴムである朧も流動する闇も空の眼もそこには到達出来ない。理由はわからないが彼等が世界の骨格とも言える空白の壁や床を破壊できないのは、経緯から明らかだ。そして、裏街には新しい命が生まれ始めていた。即ち、水紋は…霧街と裏街は、零鍵世界の滅びの運命から開放されたのだ。滅びの運命を逃れた彼等は幸せな世界を築いて行くだろう。後一つ――最後の脅威を取り除くことが出来たなら。
「ははは。早い。早いねぇ。感心するよ。」
ラスは掌上玉座に深々と腰を下ろしていた。はーあ、と息を吐き出したラスは前屈みになり、肘と膝を合わせる。顔は下を向いたまま、瞳だけをクウに向ける。。玉座のラスは、以前の様な美しい青年の姿ではなく、ボロボロに引き裂かれた闇の長衣を纏った鴉の髑髏の頭部を持つ死神の姿をしていた。彼が座する掌上玉座の周囲は、緑光を放つ太古の印が浮かび、ラスを護るように壁を作っていた。緑光は明滅しながら歯車のように彼の周囲を廻る。ラスの八咫闇雲は王の間の半分を吹き飛ばしてしまっていた。八咫闇雲をオーロウで回避したクウは、粉塵を突き抜けてラスの眼前に迫る。クウは黒丸の形見の金剛錫杖をラスの額に向けて突き出した。ラスは前屈みのまま身じろぎ一つしない。金剛錫杖はラスを護る緑光に阻まれ、轟音を上げて静止した。後、五十センチメートルが届かない。そのまま魂気で互いを押しつぶそうと力でせめぎ合う。
「ねぇ。玖鍵世界に帰ってくれないかな?」
互いに潰され弾き飛ばされそうになりながら、そのラスに肉薄した一瞬にクウは持ちかけた。ラスはにやけ顔で返す。
「いやだねぇ。」
「僕たちはただ生きたいだけなんだ。ほっといてくれないかな?」
「ははははははは。何言ってんのかねぇ。クウ?帝都で見てこなかったのか?帝都にたむろしてるモルフ達を。頭のネジが切れたみたいにさ、同じ話を繰り返すモルフ達を?なぁ、どう思った?何を感じた?聞かせろよ。」
「怒りを感じた。彼等に何をしたの?何で彼等の心をおかしくしたの?」
ラスは爆笑する。心底楽しんでいる者の腹の底からの笑いだった。
「いや、ケッサクだねぇ。逆なんだよ、クウ。現神王が言ってたろ?モルフは神々の慰めに作ったって。そうなんだよ。モルフは神々が暇つぶしに作ったんだよ。自分たちが生きていくのに都合の良い存在としてねぇ。教えてやるよ。以前の世界は存在しないし、帝都にいる魂のないモルフこそ、本来のモルフの姿なんだよ。俺が俺が、僕が僕が言ってる貴様らが変異だよねぇ。鍵を無くしたこの世界は狂っちゃったんだよ。その結果がお前達なんだよ。」
そう言ってラスは身体を起こし、哄笑を上げた。クウはラスのその言葉を腹の中に飲み込むに従って何か冷たいものが胎の底から体中に拡がっていくのを感じた。
(……以前の世界は存在しないって、逐鹿さんも言っていた。そうなんだ。僕たちは神さまの気まぐれで作られた虚ろなんだ。百年前、永遠のエイラが日輪さまの鍵を盗むことで全てが始まったんだ。僕たちは――。)
「お前達は……命じゃない。俺達が作った命の模倣だ。少しばかり反応が複雑になった贋作なんだよ。この世界ですら俺達がそうあるように仕組んだ紛い物なんだよ!この世界の景色も光も音も風も匂いも全てだ!全部、虚構なんだよ!俺達だけが本当の生命なんだよねぇっ!」
ラスの魂気の高まりを見逃さなかったクウは先手を打つ。彼の困惑を打ち消すかのような強力で思い切りの良い練術の発現だった。
鬼月乃焔!
爆炎が覇宮の王の間を覆う。壮大なステンドグラスは全て破壊され、次いで天井も壁も吹き飛ぶ。八咫闇雲を辛うじて乗り切った王の間も鬼月乃焔で跡形もなく消え去った。壁を失った王の間からは、覇宮の奥にある巨大な障壁がしっかりと見えた。帝都の核心を覆う巨大な障壁だ。尖塔の破片の一部は障壁にぶつかり、遙か地上へと落ちていった。王の間では、炎が去り粉塵の中からラスが現れた。特にダメージは受けていない様だ。傾いだ陽光を背負って大きな影をクウに投げかけていた。
「貴様は見ていなかったのか?俺と日輪との闘いを?勝てると思っているのか?」
続けてラスは、下品な馬鹿笑いを上げた。クウは直径五十メートル程の覇宮最上階で可能な限りの間合いを確保してラスに対峙していた。
「勿論!僕は勝つよ。貴方は強がってるけど、もうあんな空を覆うような八咫烏に変身出来ないでしょ。あの変な闇泥にこの塔を護らせて、玉座に居座って回復に専念してるってことはつまり、それが限界ってことだもん!ニチリンさまも大渇破さまも居ないのに水紋に攻めてこないのはつまりそういうこと!負けるのは貴方の方だ!ラス!!」
話しながらクウは練気して、黒い隈取りを発現させた。クウの舞闘力が別格に跳ね上がる。クウは全力で踏み込み金剛錫杖をラスにつきだした。ラスは緑光を放つ太古の印で受け止めようとするが、先程とは違い、金剛錫杖は印を粉砕した。ラスは更に印を重ねて、盾とした。クウは叫びながら突進して、次々とそれを打ち破ったが、何重にも重なる印を全て破壊する事は出来ず、攻撃は届かなかった。クウは無理矢理金剛錫杖を押し込もうとするが、それ以上は進めなかった。
「ははははははは。どうした?もうお仕舞い?休んでていいのかなぁ。ほら、例のなんちゃら限界が来たらまともに練術が使えなくなるんだろ?さぁ……。」
そこでラスは大きく息を吸ってから、咆哮を上げた。
「用済みのこの世界と供に消えろぉおおおおおっ!」
クウも叫び、両者は王の間の中央で激突した。




