第三十一話 灰の山脈 5
「何じゃ?対価を支払わぬ不遜の者よ。我は消耗して休息を必要としているのじゃ。去ね。」
氷のカマクラの中心部に高さ百メートルほどの細く黒い岩山があり、その頂上に社があった。社の最奥に神幕に覆われた寝床があり、そこに山祇が横たわっていた。クウは、この箱庭で二番目に大きな魂気と再開した。
「ごめんなさい。勝手に来ちゃって。でも、僕は上に戻らなくてはいけないんだ。それもなるべく早く。この氷のカマクラを作ったのは山祇さまでしょ?だったら助けて欲しい。氷をもうちょっと溶かして、僕を上の世界に返して欲しいんだ。」
白く清浄な神布に包まれた山祇は、寝床の中から、垂直につり上がった瞳でぎろりとクウを睨んだ。
「できぬ。我は氷を作り育てるが……溶かして殺すことは無い。永久の氷こそが山を護り、麓の命を約束するのじゃ。」
「じゃあ、早くここを氷で埋めて山を護ろうよ。」
「ほざけ!」
山祇は吠えた。クウはその魂気に圧されて押し戻される。でもクウは諦めない。
「ひどいよ。僕を無理矢理引き摺り落としたくせに。僕は行かなくちゃならないんだ。神さまでも邪魔しないでよ。」
山祇はため息ついて、寝床に横たわった。
「我が呼びたかったのはあの美しい神獣じゃ。あれであれば我の望みを叶えてくれたに違いない。我が必要としたのは、貴様でなない。見よ。」
山祇は身体の前面に張り付く苔や草木を剥ぎ取った。隠れていた小さな虫たちが慌てて物陰に逃げる。ざわざわとした者達が、全て逃げ去った後に、美しい身体が顕わになった。白く豊かな胸から深く落ちくぼむ臍へと艶やかな肌が流れている。山祇の下腹部には大きな穴が空いていた。深い穴で身体にあるにも関わらず、底が見通せなかった。穴のそこからは何かが苦しむ呻き声が聞こえていた。
「お、お臍にしては……ちょっと大きいね。」
クウの言葉に山祇は、むははは、と笑った。
「怖くないか?面白い奴じゃ。その通り、これは臍ではない。我が山には氷を溶かす火球があり、我の身体にも影響を及ぼしておる。このままでは我の命は長くない。我が死ねば護る者を失った氷河は溶けて流れ出すじゃろう……貴様は溶けた氷河の流れに乗って好きな場所に行ける。それまで辛抱するのじゃ。その時は直ぐに来る。後――百年ほどじゃ。」
いや、百年は長いよ。と言いかけたクウに山祇は言葉を続ける。
「或いは、我が山を溶かす火球を取り除くか、じゃ。火球さえ無ければ、我は氷を生み出し、貴様の望む場所まで氷橋を架けることが出来るのじゃ。」
「のった!僕、やるよ、火球を取り除けばいいんだね?」
元気よく返事するクウを見て山祇は再び豪快に笑った。
「つくづく変わった奴じゃな……あの美しい神獣ではなく、貴様がここに来たのには何か訳があるのやも知れんな。」




