第二十九話 灰の山脈 3
クウがしまったと思った時にはもう、大空を落下していた。バランスを取りながら周囲の様子を探る。もう、先ほどの声は聞こえない。生死を賭けた大落下の中に居るクウはしかし、目の前の絶景に心奪われた。
なんだ――これ。
稜線を挟み東西で全く別の顔を持つ灰色山脈も凄かったが目の前のその絶景はそれ以上に、彼の心を掴んだ。山脈の氷壁に大きな穴が空いており、その穴の底にむき出しの大地が拡がっていた。穴からは蒸気が湧き上がって、氷の世界を溶かそうと孤軍奮闘していた。白銀の氷壁は猛烈な嵐に覆われており、本来であれば狼煙の様に立ち上るはずの煙も周囲の雪にかき消されていた。クウは今、そのうねる蒸気の中を落ちていた。両手を広げて精一杯風を掴もうとしたが、落下速度は緩むこと無く、クウは加速していった。クウは氷壁の穴に突入する。灰色山脈の稜線の西と東も別世界だったが、穴の外と内も異質な世界だった。内と外の境界を超えた瞬間に悲鳴のような地吹雪は収まり、無音の平穏がクウを包む。山脈を覆う氷壁は一キロメートルの厚さがあったが、氷壁はドーム状に中から溶かされていた。それは氷でできた天然の……かどうかは判断できないが……巨大なカマクラだった。過酷な雪山の中に突如現れた楽園だった。直径一キロメートルのその雪も氷も無い世界は小川が流れ、草花が咲き踊り、小さな生き物たちが日々の生活を営んでいた。灰色世界からの白銀世界。そして、今は氷が光を燦爛させている小さな箱庭世界が暖かく、彼の周囲に拡がっていた。
「てか、ぶつかる。どしよ!」
一瞬、めまぐるしく変わる周囲の風景に眼を奪われたクウだったが、直ぐに現実に戻った。かれこれ二千メートルは落下している。さすがのクウでもこのまま岩山に激突すれば、命はない。ふとクウが落ちていく先に長い黒髪の女性がいることに気付いた。このままであれば、クウはその女性にぶつかってしまう。
「我の上に落ちることは成らん。」
再び声がした。途端、クウは直角に横に吹き飛んで、氷のドームの外壁に激突した。鼻血が出たが、それ以上のことは無かった。クウに話し掛けた存在はゆっくりとクウに近づいてくる。縦に立ち上がるような鋭い瞳をもった女性だった。肌は紅潮していて艶やかだった。衣服は身につけておらず、蔦や苔が体を覆っていた。手には古い古い杉の杖を持っていた。朽ちて腐敗し虫食いが神々しいレリーフの様に杖を装飾していた。彼女の身長はクウより大きく三メートルほどある。険しい表情だが、美しい女性だった。クウは痛む体をさすりながら立ち上がって、悩んだ末にお礼をいった。
「ありがとね……で、いいのかな?」
「で、あれば、対価を差し出すのじゃ。」
「えぇ……。」
クウは無い眉を寄せて、押し売りじゃんか、と呟いた。




